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仏教的に物事を捉えた中で、私達は、どこまでいっても、何をしても、どんなに遠くに行ったとしても、それはお釈迦様の手のひらの上で繰り広げられている現実に過ぎません。
また、お釈迦様の手のひらの上だからこそ、安心して生きてこられたのかもしれません。
確かに、インドで生まれたといわれるこの仏教、お釈迦様は、偉大な存在であり、彼の意識により私達人類は守られてきたのかもしれません。
これが名前を変え、他の宗教の中では、他の人物なのかもしれませんが、考え方は共通しているはずに違いありません。
見えない世界の何かに守られながら、私達は生きている、そう信じることが、安心の絶対的な条件なのです。
守られているからこそ、安心できるからこそ、自由を求めているのに過ぎないのです。
要するに、お釈迦様の手のひらの上にあるから、人類はその甘えの中で、破壊を繰り返してきたのです。
そのお釈迦様の手が、2600年という長い歳月の中、私達人間を守り続けてきてくれた大いなる意識の手のひらが、2012年、2月16日をもって、最後となろうとしています。
お釈迦様の手が、その存在が消えていく、そんな出来事が起ころうとしているのです。

もう私達人間を、お釈迦様は守ってはくれないのかもしれません。
何故ならば、余りにも身勝手な人間達が、守られていることのやさしさの中で甘えすぎていた現実を、教えなければいけないからです。
しかし、この手のひらが消えたとき、限界を超えるほどの自由が、人間達に与えられます。
守られることは、逆に管理されていたからこそ、そこに安心があったのです。
その管理がなくなった現実の中では、自由の存在が、余りにも多くなってきます。
これが、私達人間の愚かさを表す出来事となることは、間違いないでしょう。
全てが開放され、『あなた方のおごりの中で自由に過ごしなさい』と、お釈迦様は言うに違いありません。
秩序がなくなると、そこには、人間関係における法則が存在しなくなります。
全てが自由になれば、悪的意識がそれを満足させようと、必ずする行為があります。
それは、物質と意識の破壊という、極めて危険な行為となることは間違いないでしょう。
責任のない自由は、本当の自由ではありません。
何をやってもいいという自由は、それは自由とは呼びません。
要するに、全てがでたらめの方向に、意図的に動き始めていくのです。
人類に、もう一度釈迦の手のような、大いなる慈悲が存在することは、二度と起こらないでしょう。
この人類が終わらなければ、そしてこの科学が自然に戻らない限り、新しい未来は作られてこないのです。
一時的には、その自由はとても素晴らしく、有効的であるように見えますが、やがてそれは、不安な日々を過ごすことになります。
何故ならば、その身勝手な自由から、私達は一つの恐怖を見ることになるからです。
要するに、自分さえよければの世界になってしまうのです。
周りにいる全ての人が悪的存在となり、その意識はそれぞれの人々の中で、理解されることなく、恐怖に変わるのです。

釈迦の手が消えてしまったならば、人を信じることが出来なくなります。
有効的な共存が、もうそこにはなくなってしまうのです。
私達人間は、釈迦に試されることになるのです。
一度消えた手が、もう一度復活することを、今から願わなければいけません。
身勝手な自由など、何の意味もないのです。
煽り立てられた恐怖から逃れるために、強奪と破壊を繰り返します。
そうではないのです。
ただ試されているのです。
そのことに気付いて下さい。
そうしないと、人間達が気付かないから、最大なる愛の慈悲とし、この行為が行われるのです。
何故なら、人間達がずーっと長く、それを望んだからなのです。
それが、大いなる間違いの望みだったことに気付かせるためにも、一度お釈迦様は手を消し、自由を人間達に与えることでしょう。

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