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誰もが迷いの中で生き続け、この社会生活の中で、常に不安を持ち、そして喜びや悲しみや苦しみの中から、自分を変えようと思ったり、自由で在りたいと思ったり、欲しいものを欲しがり、そしてそれが手に入った時、喜ぶよりも虚しさを感じたり、満足感よりも、そして達成感よりも、逆に挫折感の方が大きかったり、そんな日常生活を精一杯力強く生きようとしていますが、なかなか満たされることはありません。
ある人が言いました。
「私の心が満たされたら、私の周りの人達の心も満たされ、沢山の人を幸せにしてあげられる」
果たしてそんな現実は起こるのでしょうか?
幸せって、何でしょうか?
不幸の反対、そんな単純なものではありません。
どんな時、幸せを感じるでしょうか?
またどんな時、心が満たされるでしょうか?
不安が全くなくなり、お金も自由も欲しいものも、みんな手に入ったとして、それは満たされたことになるのでしょうか?
そしてそれを、幸せと呼ぶことは出来るのでしょうか?
満たされたいと思う人が、幸せになりたいと思う人が、果たして本当に幸せを、そして満たされる心を理解して言っているのでしょうか?
大いなる疑問がわいてきます。

希望が叶った時、目標が達成出来た時、もっと簡単に言ったならば、富士山に登りたいと常に思っていた人が、その願いや目標が叶い、富士山の山頂に立った時、しばらくの間は達成感で満ち溢れ、清々しい風と景色の中に、大いなる満足を得ることでしょう。
そして、やがてはその山を降りなければいけません。
家に帰って、写真を見たり、友達に話をしたり、良かったねと言われたら、とても嬉しいのですが、私も行ってきたよと言われたら、途端に悔しいという思いが込み上げてきます。
自分だけがとか、特別だからとか、そういった思いが心を満たし、私だけよといった考え方が、満足感を満たす存在となるのです。
これは一つの考え方に過ぎませんが、人間の中に欲がある以上、それが独占的なものならば、なおさら傷つきやすく崩れやすいものとなるでしょう。
特別に扱われたいとか、大事にされたいとか、きれいな服を着たいとか、そんなことは幸せや満たされる心の材料にはならないのです。
どんなに目標が達成されても、その後は次の目標を立て、そして崩れ落ちていくのです。
宇宙飛行士になったり、オリンピックで金メダルを取ったり、その後の人生は過酷なものと聞いたことがあります。
何故、私達は幸せを持続させたり、満足を持続させたりすることが出来ないのでしょうか?

安易に、「私の心が満たされたならば」なんていう言葉を使う人は、単なる偽善者に過ぎません。
幸せになって下さいと、願うことはよくあります。
これもある面、偽善用語なのかもしれません。
何故ならば、その理解は、その人にしか分からず、幸せの意味を定義付ける存在がないからなのです。
今を精一杯生き、現実のありのままを受け入れ、そこに一点の曇りもなく、全て透明な世界の中で、確認し合い、生き続けることが、実は幸せと満たされた心の原点なのです。
目の前に起こる現象全てが、自分の為にあるのです。
それをどう受け取るかが、その人の心の満足度に反映してくるのです。
満たされた心とは、全てを受け入れる勇気を持った心を意味します。
その大いなる勇気が、自分に備わった時、私達の心はそれを幸せ(さち)ということが出来るでしょう。
あくまでここで必要なことは、目の前に起こった現象全てを受け入れ、心の中でそれを昇華し、生きることなのです。

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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