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私達は、今日本というこの国で生活しています。
社会の秩序や法律に縛られ、決まりごとの中で、誰もが生活しています。
一見、自由など、どこにもないように思われがちですが、決してそのようなことはないのです。
しかし、2人以上の人間が生活をしようとしたならば、必ずそこにはルールが生まれてきます。
そのルールを守らないと、人間関係は成り立たないことになってしまいます。
よくそのことを理解した上で、この束縛された環境の中で、常に私達は、自由を求めて動いているかのようには見えますが、しかし自由ではないと考える人が、余りにも多いのです。
自由という言葉を深く理解していくと、その意味はよく分かってきます。
どういうことかというと、自由の定義付けは、自分が自分の意志により、そこに仮に他人の意志が反映したとしても、そこを選んでいる自分の現実が存在する以上、常にそれは自由意志による、選択された結果ということになっているのです。

人に頼まれて仕方なくやった出来事であっても、本人が納得しなくて行った行為であっても、現実に行動を起こすのは自分であり、自分の意志が、それを決定付け、形にした以上、全てが自由選択の中で行われた行為に過ぎないのです。
私達は意識を持ち、そして自由意志の中で行動を起こし、今ここにいるのです。
納得できるかできないかは別問題といえるでしょう。
常に、自由な選択の中で、毎日生活しているのに、ただそれを認めたくないだけなのです。
誰かに言われたからではなく、それはただの要因であり、自分が意志決定した事実は、現実の全てを表現していることでしょう。
そんな考え方を一つ持ちながら、新しい人生を楽しもうとしたならば、「あのせい」「このせい」といった言い訳など、存在するはずがないのです。
朝起きることも、食事をすることも、仕事をすることも、人と会話をすることでさえも、現実的には全て自分のためであり、それは自由として表現した方が解りやすいのではないでしょうか?
管理されている社会の中でも、選択された物事を決定付ける意志は常に自由であり、何の束縛を受けているわけではないのです。

そんな自由を手にして、私達は生きているのですが、ただ一つその自由の中で、自分の意識がコントロールされてしまう現実が存在します。
それが、観念というこの社会の仕組み、そして、記憶によって作り上げられた、環境における出来事なのです。
観念で生きてしまうと、それは、自由を失った出来事の一つとなるでしょう。
何故ならば、観念は、巧みに仕組まれたコントロールの中に存在します。
社会環境と教育の中で、その罠は幾重にも重なりながら、私達を縛り上げていくのです。
その罠に落ちた社会生活の中で、秩序が保たれ、法律が守られていることも、事実なのです。
しかし、その観念と現実の自由意志との境界線が、存在するわけではないのです。
この仕組まれた社会の中で、私達はこれからも生き続けていかなければなりません。
自由発想が失われそうになるような出来事が起こったとするならば、それは観念によって仕組まれた、巧妙な罠なのです。
本来ならば、思いや発想は、常に自由であるべきなのです。
それなのに、世間体に囚われ、観念の支配化の中では、自由発想は極めて存在しにくい出来事となってしまいます。
いかに観念という鎖を引きちぎり、自由への発想が必要なのか、今の私達ではそれすらも意識することが出来ないほど、観念の鎖は太くて強いのです。
例え1人の人間がその鎖から逃れることが出来たとしても、多くの人がその鎖の中で生活を営んでいる以上、解放された人を逆に鎖の中に引きずり込もうとします。
私達はお互いがお互いを管理し、観念という恐ろしい世界に、生き続けていることも事実なのです。

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