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人間が生きていく為には、必ずそこには2人以上の人間が存在しています。
今社会生活の中で私達は、沢山の人々と触れ合いながら情報を交換したり、そしてお互いを知り合ったり、この社会生活の中では色々なルールが有り、そして経済がそこに伴い今私達は生き続けています。
飽食の時代と言われる今、食べ物は本当に沢山あちこちに散乱し経済も発展した為、何が美味しいのか今日何を食べたいのか、そんな事すら分からなくなってきているのです。少し前ならば、お寿司が食べたいとかケーキが食べたいとか、高価な食材や食べ物に対しては大変興味があったものですが、やはり経済の安定と共に高価な食品というイメージがどんどん薄れていってしまっているのも、仕方ない現象なのかもしれません。
こんなに満たされた生活の中で私達は何の不満もなく、そして何の不安もなく生きている様に見えますが、一人ひとり色々な話をすると、意外と沢山の人が不安を抱えながら生きている事に気付かされます。他人からしてみたら何だそんな事と、言われる程小さな事であっても本人にとっては、大変大きな出来事に成っているのです。
何故そんな不安を感じながら、しかもその不安を隠しながら、人々は生き続けているのでしょうか。話してしまったら楽になるのに、後生大事にしまっているのです。ほんのちょっと扉を開けてそれを外に出すだけで、すぐに解決出来る問題が沢山有るのに、そんな事をしていたらそんな事を言ったら人がどう思うのかという、相手が出すはずの答えを勝手に自分が作りそして不安に感じる為、逆にその意識が閉じこもってしまう事に成るのです。
駅に続く路地で浮浪者が寝ています。その傍を多くの人が通り過ぎて行きます。浮浪者は恥ずかしさとかみすぼらしさとかそんな事を感じたならばそこには居られませんが、堂々とそこで寝ているのです。通りすがった人達も別に何の問題もなく、その人に対して軽蔑したり馬鹿にしたりする様な意識は持つ事は有りません。これが人間関係の中に今、有る1つの面白い出来事なのかもしれません。
しかしここでもう一歩進んでその現象を考えて見ましょう。何故その浮浪者は人通りの多いそんな所を選んだのでしょうか。誰も居ない所で人目にさらされる事もなく又寒さもしのげゆっくり寝られる場所が、他にも沢山有ります。しかし人通りの多い明るい駅の構内を選んで、毛布に包まりながらそこに居る理由はもっと深い意味が有ると、考えた方が良いのではないでしょうか。
何故そこを選んだのかその1つの大きな原因は、安全性なのかもしれません。そしてもう1つの理由は、人が意味もなく通りすがるだけで寂しさから逃れる、そんな現象も有るのかもしれません。そんな風に考えてくると、彼らが駅の構内を選んだ理由が少しだけ人間臭く思え、なんかあったかみを感じる事も有るのです。
究極に心の不安が自分の意識を支配し始めた時、人の心は大変美しく有り難いものです。たった一言が人の心を変える、そんな出来事も頻繁に起こっているのではないでしょうか。誰もが小さな不安の中でそれを隠しながら生きているのですが、たった一言で救われる、そんな事もよく有るのです。
人間達は、多くの言葉を神様から頂きました。もっと声を掛け合って色々な事を話したら、沢山の答えがそこから生まれてくる様な気がします。
隠そうとせずそれを上手く置き換える事が出来たならば、要するに自分事であっても他人事の様に話してみたらいかがですか。そうすると、自分の事であってもそこを上手く隠す事により、沢山の答えが生まれてくる可能性は有るのです。
正直でなくても良いのです。
上手く繕う事も、大切な出来事なのです。
日常生活の中で何気なく使われる言葉の中に、面白い発見をしました。
前回は同じ言葉を繰り返す事による言葉遊びの紹介をしましたが、要するにキリキリ痛むとか、シンシン雪が降るとか、ギリギリまで待つとか、フカブカとお辞儀をするとか、繰り返し言葉の中に非常に面白い関係が有りました。
今回は、それだけでもやはり日本人って凄いなと思われる様な言葉を発見しました。それは自分ではなく他人に対する現象なのですが、その関係を強調する事により、要するにそれを否定する用語に代えてしまう、とても面白い使い方なのです。
例えば、苦労を否定する言葉としてそれをねぎらう為に、ご苦労様と言ったりしますよね。又疲れを強調しながら癒す言葉として「お疲れ様」又悲しみを強調させながらそこを癒す言葉として「お気の毒様」人からのねぎらいを逆使いしながら「お世話様」。非常に面白く、日本語とは出来ているとは思いませんか。
こんな風に現象を強調しながらそこをねぎらっていく様な、こういう様な使い方が出来るのが日本語の大変素晴らしい、そんな風に考えたりします。又他の言葉の中にも、穏やかとか和やかとかしなやかとか、ただ「やか」と付けるだけで、それがとても静かな雰囲気の中で優しく感じる言葉になっていく事が、とても面白いと思います。よくセミナーの誘いなどでも、来られたら来てよねとか行けたら行くわとか、相手を強要させない様なとても優しい言葉遣いをするのが、日本人の大きな特徴なのです。
やはり世界中の人が日本語を使う様になったら、きっと素晴らしい世界が出来るのかもしれません。
道路標識や駅の案内等に必ずと良い程、載っているものが漢字とローマ字です。ローマ字で読むとその漢字は世界中の人が発音出来る言葉に変わっていきます。外国人が日本に来て、ローマ字さえ読めば地名は日本語で答える事が出来ます。
逆に言ったならばローマ字とは、日本語を世界中の人に伝える事の出来るとても不思議な暗号なのです。逆から見たら、世界中の人が日本語を学ぶ事が出来るという事になります。平仮名や漢字を全てローマ字で書いたならば、誰もが読める字と成っていくのです。
私達は子供の頃、学校でローマ字を学びました。日本語の中に有るもの凄い特徴の中でも、ローマ字は明快にその答えを出しています。例えば、きゃ・きゅ・きょとか、にゃ・にゅ・にょとか、こんな事もローマ字では簡単に表す事が出来るのです。
逆に考えたならばローマ字は、日本人があのローマ帝国に日本語を教える為に作ったのではないのかとすら思えてくるのです。いやそう考えないと、辻褄が合わない事の方が多いのです。漢字にしてみても、日本には音読みと訓読みが有ります。だからこそ、漢字圏の人々に日本語を教える事はさほど難しくない現象と言えるでしょう。
本当に世界中の人達が日本語を話せる様に成ったら、全ての争いは無くなっていく様な気がします。多分日本という国が今後、世界に大きく君臨するとするならば、日本語というこの世界一素晴らしい言葉の中にそれが有るのかもしれません。
まだまだ沢山の、日本語の面白い点は有ります。しかしこの日本語もいつまでも続いてくれるとは限らず、一度100年前に日本語を壊してしまう様な現象が起こりました。要するに明治政府が日本に熟語を取り入れたそんな奇怪な事が起こり、今もそれが根強く残り使われ続けていますが、逆に意味が分からなくなってしまう様な現象も起こっています。
その事を今更とやかく言っても始まりませんが、言葉が熟語により意味が分からなくなってしまう様なそんな現象が今、存在しているのがとても残念でなりません。しかしそれが素直に使えてしまうのも、日本人の考え方の奥ゆかしさと意識の広さとも言えるでしょう。それを抵抗無く使う事により今を作っている、それが当たり前の様に成ってしまった現実は、今となってはこれで良いのかもしれません。
一つ一つ挙げればきりがありませんが、自分という字を見ても、その昔はただ自らで良かったのです。自ら分けるでは、何の事か分からなくなってしまいます。
そんな言葉も多い事も、また面白い現象なのかもしれません。
地球に住む全ての生命体はこの地球の力により生かされ、環境への適合と共に子孫繁栄を繰り返してきました。全ての生命体はその環境との適合で何の不満もなくその時間を過ごす事が、地球での全ての現象の在り方だったのです。
しかし人間達はこの環境の中で生きる事を不満と思い、改善を図ろうとしました。冬暖かく夏涼しく季節を支配し始め、促成栽培抑制栽培そんな現象で、季節の無いいつでも食べられる野菜や果物を作り、それを大いなる豊かさと勘違いして生きてきたのです。種無しぶどうが美味しく食べられる、高々種を出すのが面倒だとそんな事から始まった人間の本当に横暴的な考え方によりそんな物が作られているとするならば、一体、人間達はこの地球で何をしようとしているのでしょうか。
そんな中で、今この人間に大きな変革をもたらす様な出来事が起こっています。要するに自然破壊を繰り返してきた結果、この地球にそしてこの環境に適合していたはずの免疫力が、自分達が侵した現象についていけなくなっているのです。
これからの社会は病人が後を立たず、肉体的な病と精神的な病が、この日本を初めとし全世界を陥れる事となるでしょう。自然や季節を無視し、環境の適合を逆に自分達に合わせようとし、要するに人間に環境を合わさせ様としたのです。
これは地球に生きる権利を失う事と同じです。
この日本にある季節を、その季節を失くしてしまって逆に自分に適合させるこんな馬鹿げた考え方を、この200年間、いやもっと長い歳月かもしれませんがやり続けてきたのです。特に酷いのはこの100年間で、明治維新以来何をやってきたのでしょうか。環境を自分達に適合させるこの狂った考え方がこれからも続くならば、確実に人類はこの地球から追い出される事になってしまうでしょう。
人間以外の生命体は環境と共に生き、環境に適合した生命体がこの地球で生活をしています。例えば、人間と同じものを食べ始めた犬や猫に大変多くの病気が発生している事も事実です。こんな事から考えるともう手遅れかもしれませんが、環境に適合する生命体に私達人間もなっていかなければなりません。
要するに野生人間がこの環境の中で自然と共に生きられる様な、そういった考えやまた能力、そしてそれを現実化できる様な勇気を持った人々が生まれてくる事が、一番正しい方向性と言えるでしょう。
野生人間製造計画と、そんな大げさな物でなくても良いのですが、そこに向かう為の第一歩としてここ10年間やり続けてきた事が、名も無い様な道草を食べるというそんな勉強会がそこには有りました。今もう一度そういった仲間を増やし、屏風岩の見える大変広大な農地に、今多くの人が集まろうとしています。
そこで今始めているのが摘み草農業、農業という言葉が正しく使ったならば間違いかもしれませんが、山に生える野生の、そして食べられる草や木の実の小木を採って来てその畑に植える、今は野生のギボウシを植え始めました。ノカンゾウは初めからそこにも沢山有り、人から見たら雑草に思える様なその畑は、私達から見たならば大変素晴らしい畑に見えるのです。
そういった野草や木の実を食べながらなるべく自然へと、そして環境を余り変えずに自然へ向かって行けたならば、自分達が持つ、要するにこの地球に生まれた時に持っていた治癒力や適合能力がまた蘇ってくる様な気がします。
ここに今多くの人が参加し自分達が自然へと入っていく、そして自然の仲間にしてもらう、自然を変えるのではなく本来の姿、要するに人間達が環境に適合する様に、今始まったばかりですが、野生人間製造計画は少しずつではありますが始まってきました。やはり山の湧き水を飲みそれで腹を壊す様な事のない人間を作り、紙コップが無かったら蕗の葉を丸め柄杓代わりにする、そんな事も楽しみの一環となってきました。
今沢山の人の参加を呼び掛けています。
是非その様な活動に、多くの方が参加される事を望みます。