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心の隙
仲間同士で飲みに行ったり、気心の知れた友人達と遊ぶのは大変楽しいものであります。心の隙間が埋まり、お互いの融合関係の中で楽しい時間を過ごしたりというのは、皆が持つ共通のテーマではないでしょうか。
最初は見ず知らずの他人であっても、色んな紹介の中から色んな出会いがあって、お互いの意見交換の中で上手く意識が融合したり、なんだか仲間という意識が強くなったり又共通のテーマを持って前に進んだり、気心が知れてくれば知れてくる程その人に対して油断してしまう事がよくあります。そして余分な事を言ったり、気安さからふざけてみたりした時、安心してそんな事が出来たらとても素晴らしいのですが、時にはそれが大きな落とし穴になってしまう事があります。
油断も隙もあったもんじゃないという様な諺がありますが、好意を持ってありのままを話した時、逆にそれを逆手に取り相手に圧力をかけてくる、そんな様な事があった時人間はその心の隙を恥じる事になるのです。油断するからこそ寝首をかかれる様な事が起こるのです。人をたやすく信じるからそんな現象が起こってくるのです。 基本的には自分の甘えと心の隙が、相手に利用され陥れられる結果となるのですが、気心知れた仲間だからこそ話したりしてしまった行為が、悪用されるこれは人間として本来あってはいけない行為ですが、現実は意外とその様な事が多いのかもしれません。かといって人間は、一つの判断一つの方向からその人全てを確認する事は出来ません。それ以外の行為の中に、大変素晴らしい想いが存在する場合もよくあるのです。
しかし10年かかって築き上げてきた信用があったとしても、たった一回の過ちでその人間関係は崩れ、10年間の苦労が水の泡となる事もよくあるのです。だからこそ慎重に物事を計らなければなりません。親しき仲にも礼儀ありという諺があります。その礼儀を忘れた時、人々は信用も失ってしまう事になるのです。それを取り戻そうとしたならば、今まで以上の努力が必要となってしまいます。
人間は素直に謝る事が出来ません。しかしこれからの社会においてそういった行為も何の意味も持たない程、危機的な時代が来るのかもしれません。命に関わる様な問題が起こった時、そんな事は言ってられません。とにかく平和ボケしてしまったこの日本だからこそこんな事を言えるのかもしれませんがもし、自然界で心の隙を見せたならばそれは命に関わる問題と成る事でしょう。
人間社会の中で人間が、自分に犯す大きな罪の一つに心の隙があるのかもしれません。それは大きく人生を狂わせる、そんな力を持っている場合もあるのです。
人を信用する事は大変難しい事です。しかし疑ってばかりいてもそれは反って疲れてしまいます。だったら信用した方が楽かもしれませんが、自分さえも信じられない様なこの世の中です。ましてや他人を信じる事は非常に難しいのかもしれません。今の社会はここまで人間関係が、壊れてしまっているのかもしれません。もっと平和な時代、もっと心が豊かな時代であったならばどんなにか良い事ではないでしょうか。
もっと人間同士が信じられる様な、そんな社会を作っていかなければいけません。安易な心で友人を裏切る様な事をしてはいつかそれは、自分に帰ってくる事になってしまいます。
遊び心で冗談で事を済ませてしまう事は、これから難しい時代になっている事がとても残念です。
毎日生活している中で、運を天に任せる様な現象が良くあります。
例えば明日田植えをする時、どうか良いお天気になって下さいます様にと、お天道様にお願いする事があります。子供達が遠足やそんな時でもそんな風に祈る事も良くあるし、昔は照る照る坊主を作ったりする事も良くありましたが、今はそういった風習を見る事も少なくなりました。農家では雨乞い祭りをしたり、スキー場では雪乞い祭りをしたりしていますが、本当に運を天に任せる事があまりにも多い事も、現実なのではないでしょうか。
そして運が良いとか運が悪いとか、そんな事を口にする事も良くありますが、果たしてその運を手にする法則がもし、あったとするならば絶対欲しいとは思いませんか。幸運を運んできてくれるのは、いつも美しい女神とそう考えている人が多いのですが、そうとも限らないのです。汚いみすぼらしい服を着た杖をついたお爺さんが、素晴らしい仙人だなんて事もあるのです。それを汚いみすぼらしいお爺さんと見てしまったならば、その方を仙人と気付かなかったとしたならば、そこに幸運は表れてきません。
しわくちゃのお婆ちゃんが、乳母車を引っ張りながら道を歩いていました。軍手をはめてほっかむりをしていたのですがそのお婆ちゃんが、ちょっと立ち止まった時に足元を見たら、凄いブランドの靴を履いていました。東京の大井町で見掛けた風景ですが、こんな事も世の中にはやはりあるのでしょう。
幸運の女神は綺麗な女性という事ではなく、幸運をもたらす人は全て女神として表現されたのでしょう。そして幸運の女神を上手く手に入れる為には、周りを良く見る事です。そして自分の判断を間違えない事です。目の前に落ちているのに、拾おうともしない人が沢山居ます。目の前に居るのにその存在に気付く事はないのです。
観念や過去の生き様の中で洗脳され、見ようともしない意識がそこに素晴らしい幸運が存在していても、その人にはそれが見えないのです。又逆に、見えていた女神と手を繋ぎながらしばらく歩いて来たのに、その女神が道端の草花に気をとられた時に道を急ぐあまり、その手を離してしまう様な愚かな人も良くいるのです。一緒に立ち止まって道端の草花に目を向けてあげたならば、放す事もなかった手が自分の考えだけを推し進める為に、大切なその手を放してしまうのです。
しばらく歩いて行くとその女神は後ろからついてきますが、その距離はどんどんどんどん広がっていくのです。気がついた時、後ろを振り返ってももうそこには女神は存在していません。どんなに後悔してももう始まらないのです。一度放してしまった手は二度と、繋がれる事はないのかもしれません。もしその手をもう一度繋ぎたかったならば、女神が立ち止まったその場所に行き、道端の草花に聞いてみれば良いのです。何が間違っていたのか何をどうすれば良いのか、女神はその草花に自分の考え方と自分の行く場所を、必ず伝えているはずなのです。
そこに大きなヒントがあり、反って女神と良い関係を結べる場合もあるのです。しかしその道端の草花は、容易に女神との約束を話してはくれません。どうしたらそこの所を聞きだす事が、出来るのでしょうか。その為にはもう少し昔に遡り、女神との出会いに自分はその時の感情に戻る必要があります。出会った時の感動とその時の感謝の気持ちがもう一度蘇った時、道端の草はヒントを教えてくれるはずです。要するに誰にもチャンスは必ずあります。一度きりのチャンスとは限らないのですが、無くさなければ分からないそれが、人間の特徴なのかもしれません。
女神は目の前に存在しています。ただその手を握るだけで良いのです。そして信じる事です。握った手が離れない様どうすれば良いのか、要するに自分の考えが正しいというおごりを捨て、周りを良く見る事です。
人に優しくそして自分に厳しく、正しさとその豊かさをどう人に分けてあげるのか、自分の為にではなく自分以外の為に自分がどう生きるかで、自分を有利にさせないそんな事が要求されるのではないでしょうか。
幸運の女神を手にする唯一の方法は、自分のおごりを捨てる、自然界を見る事によりその姿が見えてくるのです。誰にもそのチャンスは存在しています。
優れた特殊能力を持った人達が、過去にも大勢いらっしゃいました。
そして人間達をいかに平安へと導くか又、穏やかな毎日を過ごせる様にと、そして不安を取り除いてあげる為にその能力は使われました。そして彼らは開祖と成り、多くの宗教団体を作り沢山の人の心を救って下さった事は、大変素晴らしい出来事だと思います。しかしそういった素晴らしい能力を持たれた開祖達が、皆さん共通の事をおっしゃっています。やがて宗教が要らなくなる日が来る。
確かにそれは大変勇気のある言葉だと思います。凄い宗教団体を作った彼らがその開祖達が、最後は自分の宗教を捨てろというそんな勇気のある発言が、出来た事に今更ながら感激を覚えます。いつの時代になったらその日が来るのでしょうか。今のこの社会は不安ばかりを追求、し安心出来る材料はどこにも存在しません。会社が倒産したらどうしよう、病気になったらどうしよう、お金が無くなったらどうしよう、戦争が始まったらどうしよう、こんな風に毎日が不安の連続、そして安らぐ所はそういった団体の中で仲間と時間を共有した時だけ、逆に今小さな宗教団体が増えつつあります。
無くなる日が来ると先人達は言ったのに、今逆に増えているという事は何を意味しているのでしょうか。要らなくなる日の為に今増えているのか、それとも逆の道を進んでいるのか、こんな事を考えてくると何が正しいのか非常に迷ってしまいます。心の不安や生き様の中でその不安をどう解消するのか、それを人間以外の生命体に置き換えた時少しだけ答えが見えてきます。よく吠える犬は気が小さいそんな諺がある様に、あまり多くの事を語れば語る程そこには嘘があるのかもしれません。
そして森の動物達も集団を作り生活しています。そこにはルールがあってそれを誰もが違反せず、守る事が当たり前というその中で、彼らの集団は要するに群れは安定を図っているのではないでしょうか。群れの中のボスは確かに不安を取り除いているのかもしれません。そして群れを守るという安全を与えてくれているのかもしれません。
しかし人間の中でのそういう宗教団体はそして開祖は、森の動物達のボスとはどこか違っています。この事を少し掘り下げてみたら答えが見えてくるのです。その昔、宗教を要らないといった彼らは、なぜそう言い残したのかが明快に見えてきます。それは開祖はボスではなく、皆を守ってあげる事も安心を与える事も基本的にはそういった意味を持っていないのです。教えの中で気付かせようとしている、気付いた人が平安な心をそして安心を得る事が出来るのです。人間だけが持つ大変素晴らしい考え方かもしれませんが、もしその周りに敵が居たとしたならば、それについては何の守りも存在していない事もここにはあるのです。
中々難しい答えの出にくい問題ではありますが、現実的な物質というその環境の中で起こる行為と、非物質という意識の中で起こる事を上手く交差させながら、同一性のものと勘違いさせてしまうものもあるのではないでしょうか。しかしその答えを今、探せる時代ではないのですが、もう一度人間以外の生命体の現実を見たならば、確かにそこには宗教は存在していないのかもしれません。
誰もがルールを守れば、確かに要らなくなる日が来るのかもしれません。要するに自然界の法則をこの地球における全ての法則を身につけ、そしてそのルールに従い人間達がこの地球の他の生命体との関係の中で、この地球という素晴らしい財産を守り抜こうとした時、そして法則を上手く利用し生き抜いた時何の不安もなく環境も乱れず全ての命の関係が上手く融合出来た時、宗教は確実に要らなくなります。
ようやくその時期が来たのかもしれません。自然界を乗り越えようとしたから、そこに罰が当たっただけに過ぎません。
自然界の法則を確実に学んだならば、全ての不安は解消される事でしょう。
この地球は七割が海で、そして半分が曇りで、そして雪が積もった大地南極も、雪に覆われています。晴れた日でも大気中には水蒸気が多くあり、なんだか全てが水によって包まれている様に感じてしまいます。
声が聞こえたり音が響いたりするのも空気中の水蒸気が大きく関与し、この地球は水によって生かされ、全ての生命体はこの水という特殊な物質によって連携を保っているのかもしれません。意識や考え方、思いや命、そして生活といったこの関係の中で、それに水がどう関わっているのか考えてみれば、すぐに答えは出てきます。 私達の顔の中にも、目や鼻や口があり、そして耳があり、要するに音、光、臭い、味覚、全てが水によって管理され、その情報は脳に伝えられている事は言うまでもありません。目の水晶体は、光を波長の長さに分けて脳で保存し、鼻はにおいを水に伝え、口は味覚を水に伝え、脳はその情報をキャッチしながら安全やまたその美味しさや感動を、水による情報と脳の中のプログラムによりそれは伝えられ、日常生活に大きく役立っているのです。
その事を少しだけ意識してみると、情報における伝達の中で、私達人間は言葉を非常に強く重んじてきましたが、実際私達が受けている情報は、言葉ではなく、光や音や、臭いや味覚を、水における情報で脳は判断しているという事に気付かされます。ということは、言葉を使わない生命体がそこにあったとして、彼らはこの私達における言葉以外の情報、要するに水からの情報については全てが、共通しているのではないでしょうか。
植物達も水を上手く操るように、言葉以外の情報は全て彼らはつかんでいるのではないでしょうか。だからこそこの地球という環境の中で、上手く生活しているのではないでしょうか。逆にこの事が分かってきたならば、私達はもっと水から学ぶことがあっても良いはずです。
言葉や理論だけで判断するわけではなく、水によって伝えられるこの伝達的なこの情報を脳はそれをどう言う形で判断しているのか、私達の科学はコンピューターが出来てきて小さなCDの中に沢山の情報が書き込まれ、それを読み取る機械が出来ました。
水の中に含まれる色んな化学物質や、そういったものを分析する機械はありますが、水そのものの情報を読み取る機械が実は存在していません。波動的には数値で高いとか低いとかあまりにもお粗末過ぎる様な読み取り方しか出来ていないのです。
しかし私達の脳は、確実に水からの情報を読み取っています。この脳という極めて優れた特殊な存在は、水から情報をどの様に分析し、そして自分の持つ記憶とどう照らし合わせ、そしてこの地球を上手く生き抜こうとする全ての生命体に共通したその能力は、地球における命との関連の中で大変素晴らしいものではないでしょうか。
自然界の動物達が、誰からも教わらなくても毒のものを食べないという様に、そのものから得る情報と記憶が、安全という判断に何の狂いもなく存在している事が、これが現実ならばこの地球における全ての情報は、水蒸気や大気中に水がある限り全ての生命体の中で共有されているのではないでしょうか。
そしてその情報と光というもう一つの関係の中で、要するに電気もそうですが、水と光と電気による情報はあらゆる方向へと融合性を持ってくるのではないでしょうか。しかもそのスピードは光速である以上、地球上の生命体は瞬時に情報を共有出来るのかもしれません。
こんな事が分かってきたならば、私達はもう一度水の研究の中から、人類を本当に平和へと導ける様なプログラムを水に書き込んでいったならば、人間達はもっと素直で幸せな社会生活を出来るのではないでしょうか。水に情報を書き込み、全ての生命体は水からの情報を読み取る能力を持っています。
地球にとって一番正しい情報を水に書き込み、全ての生命体がその水を共有し平和な情報に満ち溢れたならば、地球はとてつもなく平和な星へと変わっていく事でしょう。
その水の持つ能力をその記憶する力を、その情報を本能ではなく、今ある日常的な意識の中で読み取る事が出来るようになったとしたら、それは大変素晴らしい事かもしれません。ある特殊能力を持った人が、お風呂に手を入れただけでそのお風呂のお湯のあり方を変える事が出来ます。そこに入った人が、なんて優しい水になっているのと、お風呂の中で感動を覚えた、そんなことすら簡単に出来る様な時代になっているのです。
水と意識を一体化すれば、それはさほど難しいものではないのです。その能力を得る為には、さほど難しくない現実がそこにはあります。