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子供の頃、家の東側を電車が走っていました。中学校の頃は、その二両編成の電車に乗り通学していました。川の向こうには、煙を吐いて蒸気機関車が走っていて、それを追いかける様に電車に乗った記憶があります。それも随分前の事ですが、今その電車はもう走っていません。百軒を超える結構大きな村でしたが、今はもう半分近くに減り、子供達の遊ぶ声も聞こえなくなりました。
沢山の人が大都会を目指し、東京や大阪の人口は、急激に増え過疎化がどんどん進んできました。春になると川の両岸は、菜の花に覆われ雲雀(ひばり)がうるさくさえずっていたのを覚えています。しかしその河川敷は、もう菜の花を見る事はありません。よしが生い茂り、農業をしなくなった河川敷は、自然に還っていきました。決して悪い事ではないのですが、村にはお爺ちゃんやお婆ちゃんが、ゆっくり暮らしています。
もう沢山の農業をしなくても自分達が、楽しむ様なそんな中で、意外と心豊かに生活しているのかもしれません。しかし大都市集中型に成ってしまった現代の日本では、田舎と都会の差が非常に大きく現れ、何か人間の心すら荒んでいってしまった様なそんな気がします。大都市に慣れた人々は、お米の花が何色かも知りません。もっとひどいのは、じゃがいもが花を咲かせる事さえも知らない人がいます。
こんな風に大都市に生きる人達は、自然から遠ざかり、人間が作り上げたそういった場の提供の中から、毎日を生き続けているのです。そういった環境の中で子供達も育ち、食べる事、働く事、遊ぶ事、それも全て大都市で満たされ、時々自然に触れては、又都会に帰る、窓から見える夜景は楽しいものかもしれませんが、それは人間が作り出した光によって夜空を照らしているに過ぎません。
それに慣れてしまった人達が、今心の叫びを感じています。少しずつではありますが、自然に還ろうと、そういった意識が生まれてきているのです。確かに、豊かさと便利さの中で大都会は繁栄してきましたが、人々の心の豊かさまでは満たす事は出来なかったのです。
やはり人間は、自然の中で生まれ、自然の中で過ごし、自然の中で生きる事が一番望ましい事なのかもしれません。今、過疎化した農地は、大変多く余っています。休耕田や、農作業をしなくなった不耕期農地が増え続け、百年以上も前のそんな時代に戻っていったのかもしれません。自然が沢山出来てきた事は、素晴らしい事かもしれませんが、その大都市に生きる人達は、作物がどの様に出来てくるのかそんな事を考えずに、食べ物はお店にいけばあるものだという、そんな意識に成ってしまいました。
自分で作ろうとするそういった考え方は、随分遠ざかってきたのですが、最近になって田舎に生活圏を移そうとする人達が、大変多く現れてきました。やはり自然の中で、そして自然を満喫しながら生きられたならば、大変幸せな事ではないでしょうか。生活する為の農業は、大変厳しいものがありますが、自分が食べる為の農業は、大変楽しい時間の過ごし方に成ってきました。
大都市型がいよいよ崩れ始め、人々は、自然へと還っていきます。なぜならば空洞化された大都市、働き口の無い大都市、そんな時代がもう始まっているのです。
お金が無ければ何も出来ない大都市、でも田舎に行けば、わずかなお金で有意義な生活が出来るのです。今一番豊かな社会生活を営んでいる人達は、兼業農家をなさっている方と言われています。食べる物は自分で作り、ゆとりの中で給料を貰い、土日は農作業、自然との触れ合い、緑の豊かな大地で心を休め、そんなに多くのお金が無くても有意義に過ごせる時間が、そこには在るのです。
森の中を散歩したり、山菜を採りに行ったり、畑の草取りをする事が、逆に娯楽の意識の中で楽しい時間を作り上げてくるのです。
自然に触れる事が心をどんなに豊かにしてくれるのか、その事が多くの人に解り始めてきました。
農業をする楽しさを、味わってみてはいかがでしょうか。
自分で作ったとうもろこしがどんな味なのか、一度、経験してみてはいかがでしょうか。
足腰を丈夫にするといわれています。
前にも述べましたが、次元的観念は人間という生命体の中にしか存在しません。それ以外の生命体は、三次元という与えられた次元の中で精一杯毎日を過ごし、時間という時の流れの中で生きています。
成長と老化、死とサイクル、色々な関係の中で、情報とエネルギーが物質化し現実を迎え、そこに時間的作用と、成長と流れの中で今を生きているのです。
しかし人間という高度な生命体にとっては、そういった現象だけではなく、もっと未知的な意識や思いの中から想像性は豊かに成り、現実だけではなく雄大な仮想空間を作り上げてきます。その雄大な仮想空間の中で、最も一般化した理論が、次元という観念であります。
あくまでそこは誰も行った事のない究極的なスペースであり、想像の中から脱出する事は、未だ不可能と言えるでしょう。臨死体験をした人達が、多くの事を語ってくれますが、それもまだ確定的なものではありません。しかしながら私達人間が、そういった想像性を元に意識という世界を確立していくならば、次元というそういった観念を、逆にそこに用いることによって、大変素晴らしい高意識的な観念が生まれてくるならば、それは決して侮れない行為と言えるでしょう。
そんな観念の中から、この三次元というものをもう一回、再意識してみましょう。そうすると次元的な観念の中で、正次元とか、負次元とか、ゼロ次元とか、縦次元、横次元、考え出したらきりがない程、多くの次元が存在してきます。三次元以上の次元がどこまであっても、それは決して否定する事も肯定する事も意味の無い世界と成っていきます。そしてこういった意識の中で、三次元をもう少し深く考えてみると、大きく丸く包む一番外側の次元が三次元であり、その中に正と負の次元が存在し、その三番目にも三次元が存在します。
要するに意識的な観念の中では、三つの三次元が存在し、その全ての三次元が、ゼロ次元に接しているのです。こういった観念に次元を置き換えてみると、少し分かり易く成ってきます。
私達の内側にある多次元空間が三次元に包まれているならば、非常によく辻褄が合ってくるのです。そしてエネルギー依存の法則から見ても、こういった考え方に変えたならば何の問題も起こってきません。
要するに、次元的観念には、その法則を満たす為の情報とエネルギーが必要であり、その情報とエネルギーの発生源である三次元的な物質におけるエネルギー的な観念が、上手く融合出来るその為には、やはり三つの三次元が必要となるのです。
エネルギーを満たす為の三次元、要するに全ての次元が三次元のエネルギーに依存しているならば、その三次元が、それらの次元を全て包み込む様に存在するべきではないでしょうか。しかしその内側に入ってしまったならば、現実的な事と非現実的な意識を次元的に解釈していく為には、その内側における私達がいつも持っている、その平凡的な三次元の在り方が必然的に生まれてきます。
しかし、もう一つの非物質的な観念から見たら、そちら側にも三次元が存在してこないと、対比的な考えが、要するに、バランスが上手く整ってこないのです。
だからこそ、内側にも三次元が二つ存在し、そして三つの三次元が、上手く融合し合う事によって、多くの次元が生まれてきて、エネルギー的に満たされ、高い次元へと意識を変換させていく事は、その三つの次元を上手く使う事により可能となっていくのではないでしょうか。逆に言ったならば、三つの次元が、上手く融合し合う三次元である事が、多次元的な観念も生み出し、高次元的な考え方も決して不可能ではない意識の中に、存在を認める事が出来るのです。
未知の世界ではなく、確実に存在する、その為にはその絶対的な条件は、内側に存在する次元的な発想でなければなりません。
だから今、騒がれる様な、高い意識の中へ、それを求め様とする考えは、大変素晴らしい方向へ自分を導く、一つの大きな入り口ではないでしょうか。
人間がいかにいい加減に生きているかという、そんな考え方の中の代表的な言葉につもりがあります。
そうなるはずという様な形で、そういうつもりだったとか、結果的に不確定な事をつもりで判断し、そうなるつもりだったという事は、あくまで未決定なのにつもりという言葉で、決定と似た様な感覚に陥ってしまいます。
もう一つ、見込みという言葉もあります。見込んでいるだけで、それも決定ではありません。あくまで可能性があるだけで、そう成るとは言えないのです。
もっとおかしな形では、はずだったなんていう言葉もありますが、そんな事もあくまで未来を予測した、自分の思い込みであり、結果がはずという言葉で補われたのに過ぎないのです。
要するに不確定な事に対して決定的に思う、そしてそういう言葉の中には、自分をがっかりさせたり、人をがっかりさせたり、そこに成立しない出来事の中に、意識の動揺が現れたりします。要するにいい加減に過ぎる発想の中で、その時のその場しのぎの言葉の使い方に過ぎないのです。そうなるつもりであったって、あくまでつもりの考えだから、成らない事の方が多い場合もあるし、そうなるはずだったと考えても、そう成らない事の方が多いし、見込み的な発想もあくまで見込みであり、それは現実に起こる現象とは言えないのです。
私達は社会生活を営む中で、自分の考え方が甘かった時に、そこに生まれてくるのが、そういった言葉ではないでしょうか。例えば何かの講演会があり、その会場に沢山の人が集まる様にと、主催者が頑張っています。周りの知り合いに声をかけた時、相手の人は心の中では、断っているのにその場しのぎで断る事をしません。ある種の優しさなのですが、結果的にその主催者を、非常に傷つける事になるのです。行けないと初めから言ってくれたならば、それは残念ですねと言う事で解決するのですが、何とか都合をつけて行けるようにしてみますと、相手に期待を持たせる様な言葉で、その主催者はその人を来てくれる可能性が大きいという、見込み客で捉えてしまいます。
しかしそれは、体裁をつくろった、決定的でない、どちらでもない意見なのです。何とか都合をつける事は、不可能を意味します。なぜならばその日は、空いていない事を意味します。
要するに断る為の条件を、その言葉の中にすでに挟み込んでいるのです。必ず行きますと言わない限り、それは決定ではない事を、知っておかなければいけません。
甘く見てしまった事により、その結果はその甘さを露呈する方向へと導かれます。満員になるはずだったとか、満員に出来るつもりだったとか、そんな様な安易な考え方が、もしそこに命すらかかる様な、これから天変地異や大事件が、起こってくる可能性すらあるのです。
津波がここまでくるはずがなかったとか、この塀なら乗り越えられないと思ったとか、私にそんな火の粉がかかってくるとは思わなかったとか、人々を傷つける言葉の中でも、そんなつもりで言ったんじゃないとか、そんな風に思うはずがないとか、あくまで勝手な意見に過ぎないのです。
つもりのない言葉の中で人がどう判断するのか、そしてその事によって人がどんなに傷つくのか、傷つけるつもりがなかったでは済まない話になってくるのです。
面白おかしくその場を過ごそうとしても、中々人生は甘くはありません。そんな馬鹿な、そんなはずじゃなかった、こういう言葉の中に真実の関係を見出したならば、やはりそこを確実に捉え、もう一度その部分を計算し直し確実な答えを求める方向に、要するに安易な考え方や思いつきで行動をとると、そういった結果をもたらす事があるのです。
慎重性に欠けると、そこには大きな落とし穴が存在してきます。
これから危機的な時代を迎え、本当に慎重に物事を考えないと、この位なら大丈夫といった甘い考え方が、命取りになる事もあるのです。