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3月11日以来、この日本の意識や感性を含め、現実が一変しました。
何故こんなことが起こってしまったのでしょうか。
神々達は、人類に対して、何度も警告を発信していたはずなのに、私達はその前髪をつかむことが出来ず、常にそのチャンスを失ってきたのです。
今になって、そのチャンスの後ろ髪をつかんでみても、髪は手から抜け、遠くへ去っていってしまいます。
要するに何を言いたいのかというと、ここでは、髪の毛と神様を融合した形で、今皆さんに伝えているのです。
背中を向け、私達から去っていこうとする神をつかもうとしても、それは無理なのです。
前からやってくる神様を信じ、それにすがれば良かったのですが、今となっては手遅れかもしれません。

しかし、ここにもう一つのチャンスが生まれようとしています。
それは、デルファトラの意識により作り出された、現実におけるチャンスなのです。
しかしながら、そのチャンスを目の前にしながら、去っていく人は非常に多いのです。
今回、デルファトラの科学の中で、最も優れた科学者が、皆さんに提案しているのです。
そしてその提案が、否定されることなく現実化する為には、物質的現象の存在が条件付けられてきます。
その為に作られたのが、ゼロバランス誘導調整装置、ゼロバランス類ウォーターなのです。
ここには、デルファトラの大いなる科学と、地球に生きる生命体にとっても、大いなるチャンスが存在します。
この未知的な現象の中で、理解出来ない人が去っていくことでしょう。
しかし、このゼロバランスの法則とこの水の存在は、人類にとって絶対不可欠なものであるに違いないのです。
起こりうる現象を地球の科学で判断しようとしても、それは答えを見出すことは出来ません。
例えば水において、よくクラスターという言葉を耳にしますが、そのクラスターを計る装置は存在しないのです。
今地球上で容易く計れる装置は、いくつも存在していません。
たかだか、電位差とか、例えばばヘルツとか、そんなレベルでしかないのです。
デルファトラの科学の中では、ゼロバランス保有率の計算式や、水におけるメモリー量の測定も出来る画期的な機器や科学が存在しますが、まだ地球では、そして人類には、そのような科学は存在していません。
古代文明が残したオーパーツや、例えば水晶どくろに書き込まれたデータすらまだ読み取ることが出来ません。
昔の人がCDから情報が取り出せないのと同じように、人類はまだ鉱石や水などから情報を取り出すことは出来ていないのです。

今回発信されたデルファトラの科学、それを前髪と捉えた人は、そしてそれを掴もうとした人は、大いなるチャンスを手に入れたことになるでしょう。
しかしながら、前髪を掴もうともせず、通り過ぎていく人達が多いことも現実です。
またせっかく、目の前に現象として現れていながらも、その人の持つエゴで去っていく人が多いことも事実です。
デルファトラの科学を、人類が持つ、自分達が持つ科学で判断しようとするから分からないのです。
比較しないで下さい。
もっと素直に、目の前に起こる現象を捉え、そこからの始まりを考えるべきではないでしょうか。

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ニコニコして、お酒を飲んだり、歌を歌ったり、そんな楽しいひと時の時間の中で、私達は喜びを求めながら、現実を見失いながら、楽しむことがよくあります。
余りにも現実は厳しく、そしてそこに情けない自分が居るから、自分を変えることが出来なくて、虚しさが込み上げてきて、時には死にたくなったり、またそんな勇気もなくて、現実から離れた暴走の世界で、お笑い話を聞いたり、テレビでは人の不幸を報道し、その不幸を聞くことが、そして人の悲しみを聞くことが、自分の楽しみになっている人も多くいるのです。
情けないことですが、ほとんどの人がそんな社会で生き続けていることでしょう。
自分より不幸な人を見て、自分を納得させる、作られた世界の楽しい笑い声を聞いて、自分も穏やかになれる、こんな社会が今現実に存在しています。
誰も、怒りを覚えることもなく、当たり前のようにそれを受け入れているのです。
なんて私達は、残酷な意識を持っているのでしょうか。

4歳の男の子が、川に落ちて亡くなりました。
リポーターがその現場で、その一部始終を詳しく報道しています。
それを見ている私達は、人の不幸を楽しみながら、涙を流しながら、何をやっているのでしょうか。
報道機関の大半は、無残な事故や争いごとの情報が多いのです。
また、そういうものでないと、誰もが見ようとしないのです。
本当に情けなくなります。
こうやって私達は、ある種の大いなる悪の力に管理されているのです。
かつて、この日本でも身分制度があったように、自分達より身分の低いものを作ることにより満足させるという、卑劣な考え方が存在してきた、その延長線上に報道番組が作られているような気がします。
これでは、何の意味もないはずなのです。
ここに怒りを覚えず、何の抵抗現象もないなんて、そんな不思議なことがなぜ、日常生活の中で起こっているのでしょうか。
この作られたバーチャルの世界がここに存在し、情けなくもこれが今の現実なのです。

自然界は言いました。
命は全て平等だと。
そして、全ての命を平等と考えることが、大いなる知恵なのだと。
万物の霊長である人間は、全ての命を平等とし、そして、この自然環境を管理し守り続けなければいけません。
人間達の差別や人の不幸を楽しむような人間性では、決してそれは守られることはないのです。
人よりも常に上にいたいと思い、会社の中でも序列があり、平社員と役員の関係があり、なぜ平社員は頭を下げなければいけないのでしょうか?
しかも、他社の偉い方であっても。
こうやって社会は身分制度を作り、不幸な出来事を報道し、ある種の諦めと満足を同居させながら、現実は存在しているのです。
 なぜ私達はこの社会に対して、怒りを覚えないのでしょうか?
もっと、怒ったって、いいんじゃないでしょうか?
そして、そういう現実を、遊ばないようにしていったならば、未来は穏やかで、和みの世界がきっと待っていることでしょう。
悲しみの否定から生まれた喜びは、何の意味もないのです。
もっと素直に、自然と共存し、自然から送られる愛のエネルギーを、素直に受け取ってみてはいかがでしょうか?

私達が毎日利用している水。
当たり前のように目の前に存在し、あることが全く不自然ではなく、そこから何が生まれてきているのか、そんなことは考えることすらありませんでした。
しかし、この水から生まれた、色々な出来事が存在しているのです。
例えば、0度という温度は、水が凍る温度を0度と決めたのです。
そして、気圧的変化はあるとしても、通常水が沸騰する温度を100度と決め、その100分割の中に、私達が通常使用する温度という観念が存在するのです。
これも、水がなければ生まれなかった定義付けなのです。
また、水が凍ると、六角形の結晶体になります。
何故このような形になるかというと、6方向へのエネルギーの作用が、また6チャンネル化された電子の方向性が、彼らの形をこのように作り上げていることは間違いありません。
例えば水という象形文字、この文字が出来た時すでに、水が水素と酸素の化合物であることが分かっていたのです。
もちろん、結晶体の対角線を結んだ形が、水という文字になることは、言うまでもありません。

そして水の持つ、6サイクル、6の定義付けの中に、酸素と水素の方向性と運動が上手く絡み合いながら、私達に時間的観念を作り上げてくれます。
皆さん不思議に思ったことありませんか?
どうして1時間が60分なのか。
この水のサイクルの、6の倍数の中に時間的観念が存在する以上、60分が1時間でなければいけない訳が、その中にはあるのです。
この大宇宙の法則と、水の方向性とサイクルは、上手く絡み合いながら、私達人間社会に大きく関与して、このような現象をもたらしています。
水から生まれた生命体は、この水のサイクルに大きく作用されながら、現実の中で生き続けています。
遺伝子もまた、酸素と水素、水に大きく関わりながら存在しています。
情報や記憶や、方向性やサイクルは、水があることにより、より具体的に私達にその意味を、そしてその存在を、理解しやすい方向へと導いてくれているのです。

たかだか、酸素と水素の化合物に過ぎない水ですが、そこには秩序と宇宙の法則に則った、極めて精密な法則が存在しているのです。
従って、私達が勝手に水を触ることが、この大宇宙のバランスを崩し、逆に水のアレルギー反応を誘発してしまったならば、元も子もありません。
水と大宇宙の法則と生命維持プログラムが、共通の定義の中に存在するならば、私達人間はもうこれ以上水を触らない方がいいのではないでしょうか。
ましてや、電気や磁石、放射性セラミック等、水の在り方を変え、私達に不適合な水を沢山生み出している浄水器が存在します。
やがて、そのことにより、水のアレルギー反応を起こし始めることでしょう。
その日は、そんなに遠くないかもしれません。
その結果、地球上から水が消えるという現象が起こりうるのです。
自然を超えた法則の中では、水の定義は全て崩れ、逆に私達に、有害的な存在となってしまうでしょう。
早くそのことに気付き、自然との調和の中で、水の在り方を考えてもらえたらと思います。

皆さんが知っている命の樹は、上に行くと枝が2本や3本に分かれ、またその1本を選択すると、その枝も二股に分かれています。
どこまでいっても、必ず枝は分かれ、常に選択することを余儀なくされます。
そして必ず、下の太い根本の所には蛇が絡んでいて、降りることは出来ません。
神話で言われてきた命の樹は、常に迷うことを選択させ、またその迷いから自分の進むべき道を確定させる為のものでもありました。
確かに私達は、常に迷い、そして選択し、未来へと歩んでいることは間違いないと思われます。

ということは逆に、その選択をちょっと変えるだけで、未来はいつでも自分の自由になる、そんな気がします。
朝起きた時、ズボンをいつも右足から通していたのに、今日は左足から通そう、そんなことでも、未来は変わるのです。
よく、朝のお茶は二杯飲んでから出かけなさいという言い伝えがあります。
俗に言う、一杯茶は駄目よという教えですが、なんでこのような言い伝えがあるのか、それも一呼吸置くことにより、未来のタイミングをずらし、安定した意識の元で危険を回避する為の素晴らしい教えなのかもしれません。
要するに、いつだって未来は自由に変えられるということなのでしょう。
人の出会いも、未来を変えることの一つの方法でもあります。
全く知らない赤の他人、友達の友達の友達という関係の中で出会うこともあります。
しかもそこには、一方的な出会いのエネルギーがあり、双方が引き合ったわけではないのです。
必然理論で考えるととても不思議なことですが、一方的に発せられるエネルギーは、それと波長を合わせた時、意識や意思を持ち、強調し合いながら、一つの出会いを現実化させていきます。
それが一方的であったはずなのが、強調の中に双方の理解が深まり、未来を変える程の出来事になっていくのです。
だからこそ、人との出会いは甘く考えてはいけないのです。
その出会いの意味を、深く知ることによって、自分の役割や生きがいを感じることも不可能ではないのです。
逆にその一つの出会いにより、自分を駄目にすることもあります。
そして迷い、傷つき、泣き叫ぶこともあるのです。
誰もが命の樹を少しずつ登りながら、分かれた枝のどちらを進むのか、それは余りにも自由に見えていて、素晴らしく感じるものであっても、もう一人のその人にも命の樹が存在し、そして隣の命の樹と枝が触れ合いそうであっても、あくまで通りすがりの出来事が、現実には多いのです。

みんなが持つ命の樹は、町を作り、それは大きな森ようでもあります。
森の樹達は、緑の葉を沢山つけ、落ち葉は風に吹かれ、他の落ち葉と自由に触れ合うことが出来るのです。
命の樹からの意識の旅立ちは、そのような落ち葉のようなものでもあるのです。
枝を伝いながら、生き続けている訳ではないのです。
意識や思いは落ち葉となり、風に揺られながら遠くまで飛ぶことも出来るのです。
その落ち葉と落ち葉の出会いは、必然的な存在は、けっして考える必要はないのです。
それが偶然であっても、何の意味もありません。
そんなことを議論すること事態が、間違いなのでしょう。
常に自由に、未来を想像して下さい。
新しい出会いは素晴らしいものとなることでしょう。

よく私達は、無色透明という言葉を使います。
それはまっさらで穢れがなくて、きれいな無垢な状態を表す言葉に使われることが多いです。
しかしながら、無色と透明は同じ方向性を持っていません。
何故なら、無色は何もない、これは真っ白という意味ではないのです。
白には、白という色が存在しています。
決してそれは無色ではありません。
逆にいうなら、全く光のない世界。
もちろん、音もありません。
光のない宇宙空間の中に漂う1枚の、そう、暗闇の中に浮かぶ、その紙が無色ということになるのです。
よって、そこには何もありません。
逆に、透明ってなんでしょう?
透明になると、空気の透明や、水の透明、ガラスの透明、もちろん、水晶の透明、沢山の透明が存在します。
そしてその透明の向こうには、光もあり、音もあり、物語もあり、沢山の生活も存在します。
そう、透明とは、全てが存在する、ということを意味します。
このことから分かるように、無色と透明は、相反する方向を向いた言葉なのです。

私達は常に、この透明の社会で生き続けています。
この透明の社会だからこそ、怖い出来事が存在します。
それは、見られているということ、聞かれているということ、そして、読まれているということです。
逆に、この透明な社会で生きているのなら、もう何も隠す必要はありません。
自分も透明な心になり、人もまた、透明な心になり、全ての命が透明な意識の中に存在するならば、もちろん、隠し事や企みが全て読み取られていたならば、私達はどんな生き方をするでしょうか。
心が読まれ、思惑がバレバレになっていたなら、いっそもっと素直になり、逆に分かり合える方向へとお互いが進むことが出来るのです。
そして、心を気遣い、和みと安らぎの世界に導かれることも可能となるでしょう。

私達は常に、隠し事と企みと、思惑の中で生きています。
それが分かってしまった時、何を感じ、どこに向かい生きていったらいいのか、分からなくなってしまいます。
今の社会は、その企みが、その嘘がばれてしまう、縦軸の時間の中に私達はいます。
だからこそ、情けなく、悲しく思うことが、余りにも多いのです。
読まれているのに気付かないふりをしたり、分かっているのに知らないふりをしたり、気遣いながら、そして慰め合いながら、繕いの社会を作り上げているのです。
そこからは、正しい心や正しい意識が、生まれてくるはずがないのです。
それに慣れ過ぎた私達は、この宇宙が透明であることを忘れ、そこに色を塗り、そしてそれを自分のカラーと信じ、生きているのです。
炎が赤いわけではないし、植物がみな緑なわけでもないのです。
色と思いが、重なり合いながら有効的に利用され、また逆に隠れ蓑ともなるのです。
私達は、保護色を求めてはいけません。
もっと自由に、透明になることを、考えてみてはいかがでしょうか?

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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