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 そこには、二人の人が居ました。ある人がその二人の人に、一つの商品を持ち出し、その商品を説明するのです。一人の人は、あっその商品とても素晴らしいので、私はそれを購入しますと伝え手にする事になるのです。もう一人の人は、私は今回はそれはいらないわと言い、その商品を購入するのをやめるのです。そういった事がよくあります。
 これは一つの例に過ぎないのですが、自分が購入した商品は非常に愛着を持ち、自分が納得しているわけですから、日常生活の一環の中で楽しく使いこなしているのですが、このもう一人の買わなかった人が、なぜ買わなかったのかという、自分における買わなかった事への自分を納得させる理論が必要となる事があります。
 この時に例えば、お金が無くて欲しかったのですが買えなかった場合、素直に本当は欲しかったのですが、お金が無かったから今回は我慢したの、買ったあなたが羨ましいわと思ったならば、とても素直で素晴らしい人ですが、それを隠そうとして、単なる虚栄心そのプライドがその人を変えようとする、その時、買わなかった事への正当性を、自分以外の理由付けを、自分の中で作り出します。
 最も卑劣なのが、説明した人の事を嫌いだったから、こんな人に儲けさせたくなかったから、又商品の欠点やあらを探し、こんなうさん臭い商品は使いたくない。私は騙されなくて良かった。こんな風に自分の欠点を隠す為に相手を悪く言ったり、商品を悪く言ったり、こんな事がよくあります。
 買った人は、そういった悪口を言わないのですが、買わなかった人は、自分を正当化する為に必ず自分以外のものに敵を作り、そこに圧力をかける事により自分を正当化させます。そしてこれが複数の時には、自分と同じ考えを持つ賛同者を、そして同じ想いである事の確認作業をする事があります。
 要するに他人を巻き込んで、あなたも買わなかったんでしょと、買わなかった人を複数、自分の仲間に取り入れ、そして悪口談義をするのです。そういった行為の中で実は、自分の魂を傷つけ、自分を駄目にしている事に気が付かず、人のせいにし、自分が絶対正しいという形に置き換えてしまう、その時傷付いた魂は、修復する事が非常に難しいのです。
 又ある時、自分を正当化する為に、いつも自分の周りに取り巻きを置き、自分がどんなに間違っていても、何々さんそうでしょ?と、確認を求め自分の意見に従う人を周りに置くのです。そうする事により自分を安心させるという、そういった卑劣な考え方も又そういった事をしている人も多く居るのです。
 俗に太鼓持ちと言われる、そういった存在になってきます。その人を常に正しいと思わせる様に洗脳し、自分の周りに置くのです。そして自分を正当化し、納得し納得させ、社会秩序から遠ざかっていく自分に気が付く事もなく、大きな落とし穴に落ちていくのです。
 要するに自分が仕掛けた罠に、自分が落ちてしまうという結果をもたらすのです。社会生活の中で、何が正しく何が悪いのか、人それぞれ考え方が違っていて当たり前なのですが、自分の考えが常に正しいとそういった思い込みの中で、それを正当化するには、それに賛同するそういった人の存在が不可欠になってくるのです。
 今この社会において、スピリチュアル的な意識も、自分の周りに賛同者を置き多くの人間を騙すという、よくある行為が行われています。ここに引っ掛かってしまう人も、沢山居るのではないでしょうか。そしてその周りの人達を上手く管理しながら、自分が有利な立場に立ち支配している様にも見えるのですが、最終的にそれは、自分を駄目にしている、二度と立ち直れない様な魂の傷ではなく、魂の損失に当たる行為になってしまうのです。
 それを自分で気が付く事は、中々難しい事なのです。又そういった人達に、その事を教えてくれる人達もいません。だから死ぬまで気付かないのかもしれませんが、これは仕方ない事なのでしょう。
 魂だけは、善悪、事の起こりの真実を、どんな人間でもそういう素晴らしい魂を持っているのです。だからこそ本能や観念や自己思想とは違ったところに魂が存在し、魂だけは、善悪を完璧に見る事が出来る、だからこそこういった行為の中で魂だけが傷付くのです。

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 自分の考え方が常に正しいとは限りません。かといって人の考え方にいつも合わせていたら、自分の考えが分からなくなってしまいます。
 社会的には、少数意見は尊重されてもあくまでそれは象徴であり決定ではありません。
 何かこの社会で物事を繕いながら上手く事を進めようとしたならば、そして二人以上の人間がそこにいたならば、必ず起こる現象が意見の食い違いであります。
 そんな時人間関係を壊さないようにする為には、上手く言葉をコントロールして相手を傷つけないように持っていく方法、また自分も傷つけたくない為に自分の意識を明解にせず言葉を濁してしまう事がよくあります。お互いがはっきりものを言えたならば一番良いのですが、中々はっきり言う事が出来ず人間関係を壊さない最善の方法を言葉という分野の中で探し始めます。時にはそれも大変素晴らしい事なのですが、それが行き過ぎてしまった場合、大いなる勘違いがそこから生まれてきます。
 しかしその勘違いが自分にとって非常に有効的な場合、それを信じる事によって自分の環境を良くしようとする思いが生まれてきます。要するに人間は非常に甘く出来ていて自分にとって都合の良い場合はそれを容認し、それが正しいか間違っているかは別として、心地良さの中に自分を置くのが非常に得意とも言えるでしょう。
 こんな人間の大いなる弱点を利用する、極めて悪質な商法も存在します。言葉巧みに人を誘導し高価な商品を買わせたり、またその人の心につけ込んで自分を有利に立たせてしまったり、逆に言葉でその人に不安を与え自分に依存させようとしたりする、そこには必ず悪質的な利害関係が存在し、そういった人達が今、心の未熟な人々を蜘蛛が糸を張り巡らす様に待ち構えているのです。
 俗に言う霊感商法の様に分かりやすいものならともかく、余りにも巧妙に仕組まれたその罠の中には騙された事にすら気付く事もなく、逆にそれが自分が良い事をしている様に思わせ、その心の弱みにつけ込みながらお金というプログラムの方向へと人を導いていく、要するに利益を得ようとする考え方がそこに存在しているのです。
大抵の人はそういった罠にはまってしまいます。特におだてに弱い日本人は、おだてられるとすぐにほいほい乗ってしまいます。
 例えば服装や髪形についても、よく似合っていますねとかとても綺麗ですよとか言われると、それがお世辞だと分かっていても心地良い気分になってしまう現実が存在します。そういったところが入り口となり、悪魔の言葉はその心を上手く利用しながら奥にまで入っていくのです。
 そういった商法の中で現実が存在し、あらゆる分野にそれは利用されています。衣料関係においても、店員さんの目的は商品が売れる事です。その人にとても似合うかどうかという問題はその次の問題となるのです。ファッション関係や美容関係においても化粧法やそういった分野においても、絶対的な目的は商品が売れる事であり、その人の関係を豊かにするという問題は2番目に来てしまうのです。
 だからこそそこで利用されるのが、言葉という事になってしまいます。自分が似合っていると思っても誰かに後押しされると、本当に似合っているんだと思い込む事が出来ます。
 新幹線の中で沢山の人の服装を見てきました。似合っていない人の方がはるかに多い現実がそこに存在します。なのにそれは当たり前の様にその場を過ぎていく時間の関係にありますが、もっと逆にそういった事に対して他人行儀的な無関心さが、またそこに拍車をかけているのではないでしょうか。
 本当に必要な物を、自分にとってそれが確定的になるならばそういった商品の購入はとても現実的でありますが、時に言葉により衝動的に購入してしまう事も多いのではないでしょうか。
 満足させるという言葉の中に、やはりそういった意識が反映し、心の貧しさを言葉や商品で埋めていくといった現実が多い事も事実です。これからの時代は、ましてやこのブログを読んでいる人達はこういった言葉の技に騙されないように、自分というものを確立していく法則がここにあるとするならば、もう一度自分をそして周りを見直してみてはいかがでしょうか。

 社会生活の中で、沢山の人と出会い、又沢山の人と別れを迎えてきます。それも悲しい別れであったり、楽しい別れであったり、未来へ向かう為の必要的な一歩であるのかもしれません。
 ある時、子犬を一匹貰ってきました。母親から引き離されたその子犬は、すごくさびしがり屋で、傍から離れようとしません。本能的に分かるのでしょう。母親は、一晩鳴き続けたと聞いています。
 子犬はいつの間にか成長し、大きくなったのですが、未だに傍を離れようとしません。これを忠犬ハチ公の様に忠誠心だと人は伝えていますが、実はそんな大それた事ではないのです。
 要するに犬は、大変さびしがり屋なのです。誰かが傍に居てくれないと、要するに人間に飼われた事のある犬達は、人間と居る事が自分にとって一番望ましい行為と、遺伝子に記憶を持っているのです。
 だから人間を恋しく思い、そしてその傍から離れようとしないのです。長い時間、離れて帰っていくと、尻尾を大きく振り、クンクン鳴きながら身体をすり寄せて来ます。
 こんな様に犬はあからさまにやって来ますが、これを人間に置き換えた時、例えばマザコンという言葉がありますが、似た様な現象なのかもしれません。
 そして人々も多くの別れと、多くの出会いの中で遺伝子における、強烈な寂しさを上手く補う為に繕いながら生きているのです。
 そんな人間の行為や特性を上手く利用しようとして、そこに詐欺的な存在が生まれてくるのも、仕方ない事なのかもしれません。要するにお互いの心を隠す為に、騙し合いが始まってくるのですが、この騙し合いが自分でも気付かない内に、それが日常生活の中に上手く関与し、要するに自己暗示にかける様に、自分のしている事が常に正しく理解され、自己中心型な人間が生まれ、子犬の淋しかった時の記憶を持った人々を洗脳していくのです。
 しかしその実態が、そうしようとした本人のあの子犬と同じ様な、究極の淋しさを隠す為に行う行為である事に、気付く事はないのです。そういった形になってしまうと、一人で自分を判断する事が出来なくなります。誰かの行為に自分の考え方を委ねたり、お世辞を本気に捉えたり、上手くあやされてる自分がそこにある事に、気付かなくなってしまうのです。
 裸の王様の始まりです。何か上手く操られ、自分が非常に重要な人物であり、あたかも自分が居なければ、何も始まらない程の、そういった感覚に陥るのです。
 要するに自分が気付かない内に、自分の墓穴を掘っている事になります。終わってしまうとそこにはもう誰も居なくて、孤独な自分がただそこに居るだけですが、しばらくの間は取り巻き達は、少しだけそこで何らかの利益を得ようとしています。しかし利益が得られないと、それに気付いたならば、少しずつそういった人達は去っていくのです。
 猿の集団が居て、一匹のボスザルが沢山のメスザルを従えています。凄みがあってとてもかっこよく守ってくれているというそういう安心感が、一つの群れを秩序のあるものにしてくれています。
 しかしながら歳月が経ち体力も衰えてくると、その立場を狙おうとする若い青年ザルが、そのボスに戦いを仕掛けてきます。そして、戦いに敗れたボスは静かに群れを去るのですが、それはさほど大した問題ではないのですが、今までそのボスザルに忠誠心を誓っていたメスザル達が、新しいボスザルに一気に翻り忠誠心を誓ってしまうのです。
 敗れたボスザルの後を追うメスザルは、一匹もいないのです。人間社会においてもこの様な現象は沢山起こってきます。
 要するにボスになりきるからこそ、そういった優越感に立てるのですが、能力を失った時、非常に淋しい思いをするのも、ボスになってしまったからこそ起こる現象なのです。
 独裁的な欲の中でボスになると、必ず訪れる事がこういった現象なのです。今日まで忠誠を誓っていた仲間が、新しいボスが現れた途端に全く忠誠を誓わなくなる、これが自然界では当たり前の現象なのです。
 独裁的な立場に立つと敗れた時の孤独感は、非常に大きな悲しみと共に自分を駄目にしていく事でしょう。
 墓穴の理論の中に、こういった行為を上手くすり抜ける法則も存在しているのです。人をジャッジしない、人を傷つけない、そういった現象の中で上手く仲間を作り、要するに圧力かけずに上手く付き合う事が、これからは大切なのではないでしょうか。
 今一番、世の中で騒がれているのが、絆という言葉です。要するに人間関係を、出来るだけより良いものにしていく事が、安定した絆を維持する為にとても必要な事なのです。自分を有利に立たせようとすると、必ず絆は壊れます。
 今危機的な時を迎え、日本中が絆という言葉で統一されようとしています。
 とても素晴らしい事ではないでしょうか。

 皆さんは地球に愛されてますか。それとも嫌われていますか。
 そんな事を一度でも良いから考えた事がありますか。神はどこにいるのでしょうか。私達にとって地球の意識は、神の存在とどこが違うのでしょうか。地球そのものが神だとしたならば、大きな過ちを人類は犯し続けているのではないでしょうか。内なる神は自分の中で生まれたとしても、それは身勝手な意識の中に存在します。
 しかし地球そして自然神は、真実の中で現実を明らかにしながら存在しているのです。神々の大きなる役割は海の浄化、大地の浄化、空の浄化、要するに自然界の全てに関する浄化が、最大なる役割の様に思われます。あくまで人間は自然界の一部に過ぎません。人間の為に地球があるのではないのです。なら人間はどうして、この地球で生きているのでしょうか。
 その矛盾を解く鍵は人間が持つ心の豊かさに、大きく関与する関係の中にあるのです。要するに私達人間がいかに地球に愛されるか、今それが問われているのです。要するに今私達が、この自然環境に対してどう向き合うかが問題なのです。人間はその身勝手な性格をあからさまにしながら、今日まで生きてきました。そろそろ、その裁きを受ける日が来るのかもしれません。確かに人間の科学に人類を滅ぼす事が出来たとしても、自然環境を本来ある姿に蘇生する事に不可能なんです。
 未熟な科学ではなく、原点に返り一からやり直す必要があるのです。地球に愛されなければ必要な生命体とは言えないのかもしれませんが、それに気が付いた人は、地球に愛されようと意識を変えて今社会に君臨しょうとしています。一部の気付いた人は、その日の為の準備に多くの時間を費やしています。
 地球はあくまでも寛大な意識で人間達を包み込もうとしていますが、乱れきった人間の意識は、地球が意図とする方向へとは向かってくれないのです。この大きなひずみを埋める事が出来るとするならば、地球と人間の仲裁ともいえるのは、植物達ではないでしょうか。私達が今植物達から地球の考えを学び、悟必要があります。植物達はずっと前から、それを教えようとやきもきしていたのかもしれません。
 愚かな人間達はその事を理解出来ず、誤った方向へ人類を導いてしまいました。まだ手遅れとは言えません。どうすれば地球に愛されるか、真剣に考えてみてはいかがでしょうか。私達に最後のチャンスがあるとすればそれは、人間以外に対する意識の中で生まれてくる、本質的な自分である事を認識して下さい。常に地球は寛大な心で私達人間に接してくれます。
 そこを理解した上で人間達の定義ではなく、自然界の法則にのっとり神々の思いやりの中でもう一度、地球に愛される事は不可能ではないのです。このチャンスを見逃さないで下さい。地球にはまだ、私達人類を正しい方向へと向けようとする意識が存在しています。
 また宇宙から多くのメッセージが降り注がれています。どうしてなぜと言った疑問的な考えではなく、素直な意識で地球の思いを感じてみてはいかがでしょうか。それは人間だからこそ出来る素晴らしい現実なのです。
 今こそ地球と意識を融合しながら、未来を想像してみてはいかがでしょうか。


 

 日本中どこにでも咲いているのがたんぽぽではないでしょうか。
 春早くから咲いたたんぽぽは、いつの間にか綿帽子となり大空にと羽ばたいていきます。その小さな種が風に吹かれいつの間にか遠くまで飛んでいきます。落ちる場所を選ばないたんぽぽ達は、落ちた場所を全ての条件を満たす場所と考え、例えそこが交通量の激しい場所であったとしてもそのアスファルトの小さな割れ目の中であったとしても不平不満を言わず一生懸命咲こうとするのです。
 あと10cm離れた所に緑の大草原があったとしても、今居る自分の場所を自分に与えてもらった全ての場所と考え、そこで一生を過ごそうと最善をつくすのです。このけなげさがあるからこそ日本中にたんぽぽは咲いているのでしょう。この力強さは私達にも、多くの教訓と生き様を教えてくれる様な気がします。踏みつけられたとしてもなんの文句も言わず一生懸命咲く、そんな姿がとても力強く見えます。
 やはりたんぽぽの持つ能力はとても素晴らしく、なんと言っても風をあの様に上手く利用し、大空に舞い上がるパラグライダーの様に小さな羽を広げどこまでも飛んでいくこの能力はいつどこで身に付けたのでしょうか。
 今咲いているたんぽぽは日本のものではありません。日本古来のたんぽぽは花びらが白く、葉のギザギザもあまりないとても穏やかなたんぽぽです。壱岐(いき)の島のある神社に行った時、沢山綺麗に咲いていてとても新鮮に思いました。
 今は外国から飛んできた黄色いたんぽぽが、あっという間に日本中を制覇しました。進化の過程の中で植物達も、この地球という存在の中でもの凄い進化をとげてきたのでしょう。それぞれがこの環境の中で上手く生き様としたならば、この環境に適合しながら生きるしかないのです。
 強い物が生き残れるものではありません。たんぽぽはけして強いわけではありません。しかしこの地球ではまして日本では力強く生きている様に見えます。
 そこから多くを学び、自分の人生に生かしてみてはいかがでしょうか。

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