忍者ブログ
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 未来を予知する事は大変難しい事ですが、もし未来を予知しようとした時一番容易く考えられる事が、未来に向かう特定の人を選び、その人の生体エネルギーを時間を経て感じていく事が出来れば、そこを通して未来予知が案外、容易く出来てきます。ただ未来を予測して例えば天の声を聞くとか、感性が研ぎ澄まされ感覚的に自分の脳の中に発生するとか、色々な形で未来予測をする人が現れてはいますが、あくまでも漠然とした理由であり、特別な能力をもった人がその様な事をしているとは考えにくいものです。
 未来予測というのは本当に難しいもので、霊的能力を持った人が、目の前に座ったその人の過去を当てるとかそれは容易く出来たとしても、その人の未来を現実からの予測ではなく、突拍子も無い方向性で見出すとするならば大変難しい出来事なのです。要するに未来予知という事は中々上手くいくものではありません。なのに誰もが未来を知りたがっています。
 しかしその一番知りたい未来がなぜ把握出来ないのかと言うと、未来という時間は方向性においては、360度といった無限に近い程の方向性を持っているからです。今という時間から全ての方向が未来を意味するからです。だからこそ角度が一つ違っただけで、未来は全く違った方向に進んでいくのです。
 朝起きて靴下を履こうとした時、いつもの癖で右足から履こうとした人が、靴下のマークを見たらそれが左足のものだった、仕方なく左足から靴下を履くたったそれだけの事で、時間的なロスとエネルギーの方向性そして自分の気持ちの変化、高々これだけの事で未来はどんなに変わったのでしょうか。
 俗に言う一杯茶は良くないという諺があります。朝出かける前に、もう一杯お茶を飲むゆとりを持ちなさいという教えですが、たったそれだけの事で未来は変わっていくのです。
 だから未来予知が外れても、決してその人を責めてはいけません。ただしその外れた未来で、暴利をむさぼる様な書物を発行したり、人を騙すような行為が無ければ良いのですが、皆さんが一番知りたいその未来、しかし確定している未来は何もないのです。核戦争が起こるかもしれないとしても、そこには人間が関与しその人の心がどう反映するか、そういった点を考えてみたら分かる様に、いつも心は揺れ動き絶対的な安定を図っているものではありません。
 よくあなたの波動に合わせますという言葉がありますが、人間の波動は365日24時間安定しているものではありません。朝起きるのにたった5分のロスをしただけで、どれだけ慌てふためいて一日の行動に心がどう反映するか、そんな事を考えただけでも分かる様に、5分として安定したその人の波動は、存在する事はないのです。いつも揺れ動きながら、安定する方向へと導いているに過ぎないのです。だからこそ、その人の波動に合わせるという事は大変難しい事であり、その人の未来予知をする事が出来たならば少しは可能となるのですが、中々それも難しいものと言えるでしょう。
 マヤ暦のカレンダーがどうのこうの騒いでいる人も居ますが、ただ人々に動揺を与えているに過ぎなく、それを楽しんでいる人達が、要するにジェットコースターに乗って恐怖を感じたり、お化け屋敷に入って怖がってみたいいという、そんな好奇心となんら変わらない考え方なのです。それを楽しんでいる人達は、そんな事をしながらただ楽しみたいだけなのです。逆に言ったら、この日本が平和すぎるのかもしれません。
 しかし未来予測をする中で、やはり誰もが知りたいというその望みは尽きる事はないでしょう。生体エネルギーという観点から考えるとそのエネルギーは、常に持続しながら、方向性を変えながら進んでいってはいるものの、切れたら終わりなので、切れる事なく繋がっています。同じとこをくるくる回りながら、明日という時間の方向へ進み、その角度は自由であり、もちろん早さも自由である、しかしそこに在るエネルギーは、常に現象をもたらしてきて、要するに他の物に影響を与えてくるその微弱なエネルギーを追いかけながら、未来を見ようとした時少しだけ未来を感じる事が出来ます。
 今この方法しか、未来を予知する方法はありません。誰かが行為的に何かを、仕掛ける日時を当てる事は容易く出来るかもしれませんが、偶然発生する出来事に対しては、非常に難しいものがあります。地球全体のエネルギーが把握できるならともかく、私達人間が、その様な莫大なエネルギーを理解する事は出来るはずもありません。自分と同等か、それ以下のものに照準を合わせるしかないのです。本当に未来を予測する事は大変難しい事と言えるでしょう。
 しかしそれを知りたいという人が大勢いる限り、不可思議な感性の中で生きる人達も多いのではないでしょうか。

PR

 毎日生活していく中で、私達は色々な不安と戦っていかなければいけません。物事を先へと考えるならば、必ずそこに付きまとうのが不安という言葉になります。明日の事を考えたりそこを真剣に考えたならば、飛行機に遅れたらどうしようとか電車に乗り遅れたらどうしようとか、今から考えてみても明日にならなければ分からない事に対して不安を感じてしまう事がよくあるのです。
 会社が倒産したらどうしようとか、突然別れが来たらどうしようとか、考えれば考える程、多くの不安が付きまとっていきます。そして未来の不安は、今の自分をどんどん悪い方向へと誘導してしまうのです。悲しみとか苦しみとか、そういった類の中で過去での間違った経験が未来の不安を作り出してくるのです。トラウマの様になって心の奥底に忍び込んでいる過去の苦い経験が、また忘れてしまっていたとしていても不都合な出来事が幾重にも重なり合って自分の心の奥底に残っているものなのです。
 だから必ず未来を考える時、不安から入り込みその解決方法をその日にならなければ対処出来ない事に対して、どうしようもない出来事に対する脱出方法を考え出してしまいます。従ってそれは大きな不安となり今の自分に圧力となり、身動き取れない程、苦しみの中に落とし込んでしまうのです。
 未来の不安は本当に今の自分を駄目にするだけで、良くする事はありません。転ばぬ先の杖の様に物質的な現象であるならば、それは可能な事です。例えば何か大きな災害が来る前に、懐中電灯を買っておこうとか、水を確保しておこうとか、あくまで備えられる事は物質的な出来事に対する準備という段階での行為に過ぎません。意識や心や観念や思いの中で、その準備をしておく事はとても難しい事と言えるでしょう。だからこそ不安という、自分を駄目にする出来事が存在してくるのです。
 そんな中でどうやってそれを解消し、より自由な自分へ導こうとしたならば、小さな事に対する小さな満足が必要となってきます。要するに小さな事への小さな満足の事を別の言葉で言うと、諦めるという言葉になります。そんな事は考えても仕方がないのでとりあえず諦めておく、諦める事は自分の心を納得させる最小レベルの満足の現象なのです。そういった中で発生するのが、自己満足という言葉に変わってくるのです。
 最大なる満足の中では、それは有効的に働く現象になるのかもしれませんが、往々にして自己満足は最小限の満足が結構領域を占めているのです。要するに自己満足する事により、私達は毎日の生活を納得したかの様に生きているのです。自分で自分を満足させる、仕方ないも、あのせいこのせいも、自己満足をする為の法則なのかもしれません。
 嫌な事を人のせいにする事により自分を満足させる、本当はその原因が自分にあったとしてもそんな事を言っても仕方ないという感じで諦めの環境の中から自分を満足させていく、自己満足とは考え方を一つ変えたならば、とても卑劣な行為であるはずなのに、未来の不安や現実の不安から逃れる為にはそれはとても自分にとって有利な法則なのです。上手く自己満足と付き合う事によりそれは新しい未来に対する心の豊かさともなるのですが、それを他人に向け自分の罪から逃れようとしたならば、そのしっぺ返しが大きなものとなってしまいます。
 ここを上手に使い、今の自分を心の豊かな方向へ導いたならば、未来の不安は解消される事でしょう。

 私達がこの世に生を持った時この日本では、餓鬼として始まると言われています。生まれたばかりの赤ちゃんはこの世の中には、自分と母親しか居ない様な、そういった感覚で日々を過ごします。目が見えるようになると、辺り一面に興味を持ち出し、自分達以外にも多くの人達が居ることに気付き始めます。よく三才子の魂百までとことわざにある様に、いくつに成っても子どもの頃の癖が抜けないのかもしれません。
 小さな子どもが、新幹線の中で大声で騒いでいます。自分のわがままが通らず泣き叫ぶ子も居ます。他の乗客から見たらとても迷惑な行為です。その子どもから見たら周りの乗客など全く関係なく、自分の思いを通そうとしているのです。もしここで他人に気を使うような子が居たとしたら、その親はかなり上手に子育てをしていることでしょう。
 しかしたいがいな親は、子どもの意思の強さに負け、上手く育てられないのが当たり前なのかもしれません。では一体人間の人格形成は、いつどこで作られるのでしようか。大人に成って小学校の同級生に会った時、もの凄く変わった人とあまり変化のない人と、またまるっきり別人の様に見た目も性格も変わってしまった、そんな人とも出会うことも出来ます。生きていく上で色んな人と出会い、色んな経験の中から自分を都合良く導く為には、自分を変えていくことが社会の法則でもあります。また自分の欲を満たそうとした時、自分を変えていかなければなりません。
 なぜならば二人以上の人が思惑を持ってこの世の中に存在する以上、相手の意識に合わせていくといった、その現象の中で人格は形成されていくのです。社会から意識がはずれればはずれる程、人格は社会性とは別の所に存在し、自己主張が強ければ尚一層人格は強調され、いつの間にか社会から離れて行ってしまうのです。
 要するに最初はわがままな自分から始まり、社会の荒波にもまれながら自分にとって、一番有効的な人格が形成されて行くのです。しかしそれが社会にとって、合理性が有るかどうかは別問題なのです。
 性格ともう一つ厄介な問題に癖と言うものが有ります。一度身に付いてしまうと、なかなか変える事は難しいのです。だからこそ一番大切な事は、最初にどう思うのか、その一番最初が意識の始まりであり、その癖や性格によりその後大きな損得の世界で苦労していくのです。初めのスタートの過ちが一生を左右するならば、慎重に初めを考えた方が良いのですが、たいがいの人が、やり始めて間違いに気付いたら直せば良いと考えています。 しかしその間違いに気付くならば良いのですが、気付かず生きてしまうこともあるのです。誰かが教えてくれれば良いのですが、世の中はそんなに甘くなくその結果、自分を苦しめることになります。人格を形成するのは基本的に自分であり自分の意識が全ての権利を持っている以上、自分で自分の性格や癖はコントロールは出来るはずなのです。
 だからこそ自分の人格は自分でどうにでもなる、その事を自覚して下さい。自分を変える事が出来るのは自分しかいないのです。一度勇気を持って挑戦してみてはいかがでしょうか。

 お盆になると日本の古い風習としてお墓に行ったり仏壇に手を合わせたり、これは今も続くお正月と同じ程の力を持った、日本のメインイベントではないでしょうか。先祖を供養するという事はとても素晴らしい事で、私達が今生かされているのはご先祖様がいらっしゃったからこそ、そんな考え方がこの日本の風習としてはとても素晴らしく思います。
 諸外国ではこの様な風習は余り見かける事はありません。日本人ならではの大変心温まる儀式ではないでしょうか。
 この様に私達が今生きている上で、非常に大切とされるのがご先祖様の存在です。何か悪い事が起こった時ふと心をよぎるのが、そういえばお墓参りしていなかったとか、最近仏壇に手を合わせていなかったとか、そんな風に考える事もよくあります。この日本では神道と仏教は一対のものであり、大変素晴らしい私達が生きる為の教えではないでしょうか。
 先祖を供養するというこういった考え方の中に、いつも私達は先祖と供に生きているんだという共存の考え方が存在しています。だからこそ、お盆は楽しいものでありまたお正月は神聖なものであったり、日本人は常に先祖や神々とともに生きて、自然を大切にして大地と共に生きた民族だったはずなのです。
 この様な考え方から、日本人がとても自然に親しみを持ち亡くなった方への尊敬の念も強く、生きているだけが人生ではなく、亡くなってからの過ごし方が問われる様な、逆に言ったならば肉体を持って生きていることが人間の全てではなく肉体が消えた後も霊体的な存在が生き続けている、そういう極めて特質的な考え方を持っているのでしょう。
 よく日本人以外の人達が切腹出来ないと言われています。なぜならば他の国の人達は肉体の消滅すなわち全ての終わり、そう考えているからでしょう。
 しかし日本人は死んで名を残すといった様な大義名分を持って、肉体を持って生きていることが全てではなく死後の世界へのプライドを強く持ち、肉体が消滅してからの生き様を非常に強く考えている民族なのです。こういった日本人の考え方は大変素晴らしい考え方と言えるでしょう。
 なぜならば死んだら全てが終わりという考え方がない為に、生き方が強く問われてくるのです。要するにまともな生き方をしなければ、死んでから苦労するといった考え方がそこには存在しているのです。そして死後の世界の恐怖の中で地獄に落とされるといった、極めて人間の心を反省の方向へ導く程の恐怖的な教えが存在しています。
 誰もが死んでからも苦労したくない、そんな考え方からどう生きたら良いのかというその現実を見極めた方向性をいかに正しい方向へと向けるか、日本人だけが持つこの考え方は今生きる私達にとって間違った道へと行かない、大変大きな教えではないでしょうか。死後の世界が存在することにより、生きている私達がどう生きたら良いのか逆に死んでからの苦労をしたくない為に今をどう生きるのか、そんな事を教えてくれるのがこういった現象からうかがえる事ではないでしょうか。
 今生きている自分を戒める様なそういった法律が存在するならば、それに従わなければなりませんが、自分に自分がどう関与するかによって自分の生き様を決めていく、なぜならば肉体が消滅した後も魂が生き続けるというそういった考え方は、人間は肉体が滅んでも霊的には滅ばないという、大変特殊な考え方の中から生まれてきたものであり、だからこそ日本人は争いを避け、出来るだけ和みの世界で生きようとするのではないでしょうか。
 死後の世界の存在は、生きる私達にどれ程の思いとそして生き方を学ばせてくれているのかもしれません。だからこそ今どう生きたら良いのか、精一杯生きる事がどんなに素晴らしい事なのかどうしたら社会に貢献出来るのか、罪を犯さず人に優しく、死んでからの自分の魂がどう浮かばれるかという事を念頭に置きながら、今を生きるこの素晴らしさをもう一度考えてみてはいかがでしょうか。

 生きている時の不安を死んでからも持ち続ける事は、大変不幸な事と言われていますが、死後の世界はその存在は誰もが知らない未知の世界である事も間違いないのです。
 この日本では、魂とか霊体とか肉体とか分けて考えられていますから、肉体の環境における辛さとか霊体の意識における辛さとか分けて考える事がよくあるのですが、なかなかそれは難しい考え方なのかもしれません。
 しかし死んでからも魂の存在があると考えたならば、死後の世界を安定させたいと考えるのは当たり前の事ではないでしょうか。要するに、生きている内は多少の苦労は構わないのですが、死んだら究極に楽をしたいその為に今何をしたら良いのか、そんな教えがあってもそれはそれで良いのではないでしょうか。
 死ぬ事が恐怖だという考え方はそれが一番の恐怖と考えたならば、死後の世界を色んな形で理解する事はとても大切な事ではないでしょうか。
 極楽浄土やはりこの言葉は、死後の世界では大変素晴らしい意味を持っている言葉ではないでしょうか。だからこそ今何をすべきなのか、どういう方向に向かっていけばいいのか、極楽浄土で生きる人達はどの様な人達なのか、仏教に熱心でそこを極めた人達が誰もが行ける世界とは限らないはずです。どうやったらその世界に行けるのでしょうか。そして又極楽の世界とはどんな世界なのでしょうか。苦しみも悩みもそういった意識の乱れは存在しなくて、毎日が平安でそして楽しく過ごせるのかもしれません。
 浦島太郎が行った竜宮城の様な所なのかもしれませんね。確かにあの話を聞いた以上、竜宮城は特に男性にとっては極楽浄土以上のものかもしれません。しかしその後、いきなり年をとってしまったのでは仕方がないのですがもしそれが、永遠に続いたならば生まれ変わってくるなど馬鹿げた事をする訳がありません。
 しかしこの生きている世界にも、極楽浄土以上の楽しみや喜びが存在しています。大変気の合う仲間と有意義な時間を過ごしたり、恋人同士が大変楽しい時間を過ごしたり、そういった環境の中では極楽浄土以上の快楽や娯楽やそれが同時に、そういう楽しみが出来るのも肉体が有るからではないでしょうか。肉体や魂や霊体が同時に楽しめたならば、そんな事がもし可能ならそれは生きている私達が得られる、唯一の法則ではないでしょうか。極楽浄土に生きるのは肉体ではありません。
 肉体を置いてその世界に行っても、快楽的な究極の楽しみは得る事が出来ません。この生きている社会において、肉体と共に過ごした日々の中で得た究極の楽しみが記憶に残り、その記憶を元に霊体が未来を構築したならば、要するに生きている間の全ての嫌な事を忘れ楽しかった、要するに究極に楽しかった事を連鎖的な意識を作り上げるその記憶が極楽という世界を作り上げていくのであって、極楽という世界に行くことによって極楽を得られるという事は違っているのです。
 要するに記憶から発生する出来事であり、楽しい経験のない人に何が楽しいのかそれを、理解する事は難しいからです。やはり美味しいという食べ物を食べたくなって初めて、美味しいという経験や記憶がそこに反映しているのではないでしょうか。極楽浄土の世界で本当にそれを極める為にはやはり、生きている間のそういった経験が非常に大切な事ではないでしょうか。だからこそ、この教えの中で私達は今をいかに大切にするのか、そして命や自然をどう大切にしていくのかそんな事を深く考えた上で、極楽浄土という世界をその世界に行ける自分を楽しんでみてはいかがでしょうか。
 そして記憶の中の素晴らしい出来事が大きく反映し、より素晴らしい浄土の世界が作り上げられたならば、大変素晴らしい出来事ではないでしょうか。

カレンダー
06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
オリハルコン
カウンター
ブログ内検索
メールフォーム
バーコード
プロフィール
HN:
デルファンドラ
性別:
非公開
自己紹介:
デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
忍者ブログ [PR]