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私達は生まれてくるときに、神様から分け魂(みたま)を頂き、この世に生まれてきます。
そして、なくて七癖と言われるように、誰にも七つの癖が存在するといわれています。
それは、七つの霊体が自分の中に生まれているからだと言われているのです。
神様からお預かりした魂に付随する霊体や、また、両親から頂いてきた霊体に依存する、そういった現象の中で、七つの霊体を持つと言われています。
その為に人間は、亡くなると七つの霊体の色んな審議を受け、そのかかる日数が七日と言われ、その時に行われる行為が、初七日の法要と言われています。
その後、その七つの霊体は、閻魔大王とそこに携わる神々から、生きていた時どうだったのか、七つの霊体一つ一つが呼び出され、審議を受けると言われています。
そしてその審議が受けられ、やっと成仏という形で、先祖に導かれ、仏様となっていくのです。
そしてその時に行われる法要が、7×7の、四十九日の法要と言われるのです。
亡くなってから霊体が苦労するのは、とても辛いことと考えた人々は、生きている内に沢山の苦労をし、亡くなってからは苦労したくないという思いが強く、そんなことから、極楽の世界に生きたいなと、多くの人が望んだそうです。
確かに、亡くなってからも苦労するなんて、あまりしたくないと思いますが、生きている内の苦労も、そんなにしたいとは思わないのも現実でしょう。
誰にも七つの霊体が存在するなら、その七つの霊体は、人間の心を上手く表現してくれているのでしょう。
気分が良かったり悪かったり、優しかったり強かったり、思いやりがあったり意地悪だったり、確かに自分のことを考えてみると、いろんな自分が存在していることは事実です。
 上手く人間関係を作る為に、嘘の自分を作り上げていることもよくありますが、気の合う仲間と楽しい時間を過ごすことは、とても心が喜ぶ出来事と思います。
気が合う合わないとか、そういう言葉が生まれてくる以上、気の問題と霊的現象は、切り離しの出来ないことかもしれません。
自分の中で、七つの霊体が、今日は誰が現れてくるのか、一日の中で、七回も変化していくのか、そんなことを考えたならば、逆に楽しい毎日が過ごせるのかもしれません。
七つもの霊体が、七つの法則と融合したならば、未知数的に考えられる出会いが待っているのかもしれません。
自分に七つの霊体がある以上、自分の回りにいる人達にも七つの霊体が存在するのです。
そんな霊体同士が力を合わせることがあったならば、大変素晴らしい世界が築かれるのかもしれません。
そんな風に起こっている現象を、悪い方にではなく、少しでも良い方向へと考えたならば、七つの霊体があることが、決して悪いことではないでしょう。
逆にもし、霊体が一つしかなかったとしたならば、その一つの霊体は、色んな出会いの中で、大きな傷を負い、疲れてしまうのかもしれません。
意地の悪い霊体が居ることによって、その悩みを解決してくれたり、自分を癒してくれたりすることもあるのです。
また優しい霊体は、人と人との絆をつくってくれたり、新しい出会いをもたらしてくれたりするならば、それはそれで素晴らしいものです。
霊的な現象の中で繰り広げられる、この大いなる現象は、七つあることから起こる、大変素晴らしい、癒しの世界を作り上げているのかもしれません。
意地の悪い自分が、そして人に優しい自分が居て、愛情たっぷりに猫や犬をかわいがったり、野山の花々を美しいと感じたり、蝉の鳴き声がうるさいと感じたり、鳥の鳴き声が朝の心地よい目覚めを誘ってくれたり、七つの霊体の組み合わせの中で私達は、大変幅の広い心を持つことが出来るのです。
七つあるこの組み合わせは、大変大きな感情を作り上げてくれるでしょう。
そのことを思いながら、明日の自分を、また今の自分を見つめてみてはいかがでしょうか?

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何か見栄を張ったり、世間体ばかり気にしたり、未来の不安に怯えたり、ツキが全くなかったり、不安の中で過ごす日がとても多かったりすると、何か自分を変えたいと思いませんか?
しかし、どんなに自分を変えようとしても、中々それは上手くいくとは限りません。
何かのセミナーに参加したり、本を読んだり、自分以外の発想の中で、その協力的な法則を求めようとしても、必ず元に戻ってしまいます。
自分を変えることは、大変難しい、法則の中に存在しているのです。
正しい意見を言われた時に、腹が立ってしまいます。
それは正しいから腹が立つのであって、正しくなかったら、聞き流せばいいのであり、また間違いであったならば、否定して正しい答えを出せばいいだけのことなのです。
腹が立つ場合にはもう一つ、自分の意見が通らない場合があります。
何か運命のようなものを感じながら、どうしてこんなに運が悪いのだろうかと考えます。
マイナスにばかり考えていても、何の答えも見出すことは出来ません。
誰もが一度、自分を変えようと思っても、変えられた人は中々いないのが現実です。

実際自分を変えるには、一番簡単な方法として、全ての環境を一変させるのが良いのかもしれません。
しかしそのようなことは、容易く出来るようなものではありません。
過去の全てを捨てることに成功したとしても、それは社会的な現象の中でしか起こらない、わずかな出来事に過ぎないのです。
本質の所は何も変わらないのです。
対人に対しての意識は、繕いでまかなうことが出来ますが、俗に言う、猫を被ったり、カマトトになったりということです。
自分に嘘をつきながら、社会生活の中で繕ってみても、それは自分を変えたことにはなりません。
環境をどんなに変えても、自分の意識が変わらなければ、かえって苦痛な出来事になってしまいます。
自分を変えることは本当に難しい、そう考えなければいけません。
例え記憶喪失になったとしても、性格まで変えることは、非常に難しいのです。
そういった面から考えると、自分を変える法則は、どこか別の次元にあるように思われます。
人生は、演技の連続であり、一人芝居を続けているに過ぎません。
その中で少しだけ自我を組み込み、自分を有利にしながら、自分の意識を伝えようとし、人間環境を繕いながら、悪くも良くもしているのです。
人々は皆、そういった生き方をしています。
そこに複数の意見が存在する以上、その意見の中に自分を置く以外に、二人以上の人が生活する方法はないのです。

自分を変えるということは、この環境の中で、自分にとって有意義な時間の過ごし方をする方向へ、自分を導こうとすることが、最大なる望みとなることでしょう。
要するに、なぜ変えたいのかというと、現実からの脱出であり、新しい未来の構築であり、運気的な考え方を、良い方向へと導くことが、一番の望みだと思われます。
誰もが自分を変えたいと、その時に、何をどのように変えたいのか、より具体的に文章にし、そして、その法則の中で、叶うことと叶わないことを見出し、出来るだけそれに沿った方向で、物事を整理していく必要があるのです。
ただ漠然と、自分を変えようと思っては駄目です。
どこをどのように変えたいのか、具体化しなければ、答えは出てきません。
自分を変えるには、自分にとって甘えがあっては、それは現実のものとはなりません。
いかに自分に厳しく、そして具体的に変えたい部分を新しい方向へ実行しなければなりません。
考えているだけでは、何にも解決の方向は見出せません。
いかに現実の中で実行するか、それしかないのです。
自分の心をコントロールし、そして最大なる敵、甘えをコントロールし、またこの社会への不満は、何の意味もありません。
 なぜならば、この社会性の中で、いかに自分を優位的な方向へもたらすかが問われているわけですから、社会を批判しては何も始まらないのです。

相手を批判しても、何も始まりません。
人が人を変えることは出来ないのです。
一番難しいと言われていた、自分を変えることの方が、自分の中で行われる原則ですから、本来ならば容易いはずなのです。
自分を変えるということは、人を変えることではありません。
自分自身が、どう変わるか、そして、環境をどう適合させていくか、そこを箇条書きにしながら、実行する、ただそれだけで、自分を容易く変えることが出来るのです。

毎日を繕いながら生きていたら、疲れませんか?
自分を隠して生きていても、繕っていても、何かそこに意味があると考えるならば、それは無意味という、その言葉に置き換えた方が良いでしょう。
とても優しい人と出会いました。
ニコニコしながら、何でも許してくれそうな、優しい出会いでした。
なんて良い人なんだろうと、誰もが感じることでしょう。
人は、最初は、繕いながら、本性を隠して生きているのです。
いつかその本性が現れることは、その時は考えていないのです。
がさつに見えたり、荒々しく見えたり、何かがたいの大きな人が、顔を見ただけで怖いと思うような人が、お付き合いしてみたら、「いやだ良い人じゃない」と、そんな経験をしたことがあります。
逆に、ニコニコして、優しくて、思いやりがあって、親切で、言葉にとげがなくて、そんな笑顔の人が、突然怒り出したり、自分の意見を通そうとした時、「いやだこれが本性なんじゃない」と、そんな経験をしたこともあります。
人間とは一体どんな生命体なのでしょうか?
本性は、清いのでしょうか?
それとも、悪魔なのでしょうか?
みんな繕いながら、隠し続けて生きているのでしょうか?
本性をむき出しで生きられたら、そしてそれが、社会にとって悪的ではなく、有効的に思われたならば、そんな生き方が出来たら、とても素晴らしいと思います。
確かに、なくて七癖といいます。
ある一つの現場を見て、その人を判断したならば、その1点だけを見て、その人を判断したならば、絶対に間違うことの方が多いでしょう。
人間は毎日、心が入れ代わり、猫の目や、山の天気よりも、早く変わることが多いのです。
ちょっとしたきっかけが、その心を傷つけ、ちょっとした別れが、その寂しさを繕う為に、何かを攻撃したり、時に気晴らしに、ゴミ箱を蹴飛ばしてみたり、そんな人が居ても、決してそれを攻める権利は誰にもないのです。
人は見かけによらないという諺があります。
また、人を見たら泥棒と思えという諺もあります。
何か人を、良い方向に現す諺よりも、このように、人を信用するなという諺のほうが横行しているのは何故なのでしょうか?
やはり人は、豹変するのです。
何年か前、そういった豹変の人と出会いました。
最初はとても良い人でしたが、反旗を翻すと、悪魔のように思える人に変わっていました。
自分だけの思いでは気が済まないのか、他人をも巻き込もうとしながら、その悪的な本性は、次第に大きなものとなっていきました。
とても残念に思えて仕方ありませんでしたが、やはり本性という世界では、人間は、我慢出来ないのでしょう。
本性が一つであるのか、また二つであるのかは、余り良く理解出来ませんが、やはりなくて七癖というように、七つの霊体が、七つの意識を持ち、良いも悪いも含め、自分の心の中に存在して居ることは間違いないのでしょう。
どれが本性なのか、非常に分かりにくい面がありますが、自分を繕い、自分を隠し、そこにもし、営利が絡むとするならば、とっても悪人のように思われます。
 なぜならば、悪いことをし、荒稼ぎしようとしたならば、良い人を装わなければ、それは不可能だということなのです。
がさつな荒々しい人に、人々は寄ってくることはありません。
 良い人を演技し続けてこそ、そこに利益が生まれるのです。
騙しのテクニックは、そこに大きな意味を持つのです。
目的が何なのか、その目的が見えた時、現実と照らし合わせ、確認しあった結果、それは演技であったことに気付くのです。
営利を目的にしない場合、本当のことを言う人の方が多いのです。
お世辞を言ったり、人を喜ばせたりした中で、そこに利害関係が存在し、何かの利益を得る為に、言葉を選び、相手の意識を手中に収めるのです。
そこに、営利が生まれ、大いなる収入となるのです。
それが金銭的なものであったり、意識的なものであったり、その場に応じて結果は違ってきます。
それは差ほど大きな問題ではないのです。
やはり利益の為に、演技し続ける人が多いことを、諺は言い表しているのでしょう。

いよいよ、その日に備え、私達が変わろうとする、極めて危機的な状態の中で、意識だけが先行し、現実と伴わない理論や、言葉の綾に惑わされ、進むべき道を見失い、見えているはずのものが何も具体化せず、言葉だけが先走り、一体何をどうしたいのか、アセンションも高次元化も、こんなことの意味を、本当に知っている人はいるのでしょうか?
確かに、進化の時期を迎えてきたといっても過言ではありませんが、これから起こる様々な現象の中で、地球や宇宙が一体化しながら、ある方向へと、何かの糸に引かれ、導かれようとしています。
未来予測は非常に難しく、誰もが早く知りたいと思っていますが、あくまで未来のことであり、確認の取れないことが現実に起こっています。
光の身体になり、水晶の中に入り込むとか、ばかげた理論が横行する中、そういったことを信じる人も、大勢いることも現実なのですが、なぜそのような単純な誘惑の中に陥ってしまうのか、なぜ現実を見失おうとするのか、スピリチュアル系のセミナーが多く開かれていますが、その講師を務める方々が、具体性を持って話をする人は、また確認の取れる話をする人は、全くといっていいほど居ないのです。
意識を宗教的な観念から、そこを理解させ、そして誘導し、観念を覆しながら、新しい理論のごとく見せかけ、また、さもその人に能力があるかのように見せかけ、何の現実性も見えない中で、マインドコントロールすることが、そのテクニックだけが横行し、分かりやすく言うと、そこに通う人達が、単純な罠に引っかかり、騙され、そして彼らは高額な利益を得ているのです。
心地良さの中に、そんなことを信じ、現実を見失うことにより、未来が拓かれたと勘違いします。
この物質的な社会では、起こりうるはずのない現実を、さも本当のように説明し、そこに理解と喜びが得られるよう、誘導してしまうのです。
未来の予測の中で、正しい現実を正しく表現する人は、今の現実では非常に厳しいと言えるでしょう。
 なぜならば、未来は常に変わりつつあり、また、大いなる変化の中で、そこに現実が現れ、未来を構築していくのです。
あくまで、今から始まる今が全てであり、その延長線上に、不可思議な、もちろん、物質という観念を超えた、そういった現実が現れることは、完全に不可能な現象なのです。
理解することの出来ない、また触ることの出来ない、もちろん確認することも出来ない現実を、さも心が安らぐかのごとく、言葉巧みに、そのものの中に意識を置かせてしまうことは、危険な未来の始まりと言えるでしょう。
もう一度現実を取り戻し、原点に返り、この三次元の在り方を、再確認して下さい。
今いる私達のこの現実が、いかに素晴らしく、そしてこの物質社会が、私達の意識を作り上げる、エネルギー源であることを、再確認して下さい。
意識や思いは、三次元という、物質社会のエネルギーに依存し、存在していることを忘れてはいけません。
新しいエネルギーが、次元を超えた世界に存在するならば、それは大変素晴らしいことと言えるのですが、私達はまだそのエネルギーに依存してはいません。
やっとゼロ次元という、そういった観念の中から、入り口を見つけたに過ぎないのです。
今私達に望まれる、一番正しい行為は、本人が持つその感性を研ぎ澄まし、大宇宙の音を聞くことです。
全ては音から始まりました。
そして、光のエネルギーを得ながら、物質社会は作られてきたのです。
研ぎ澄まされた感性の中で、新しい意識に目覚めることは、今後大きな課題となり、私達はそういった、新しい感覚の中で、思いを確定させていくよう、今急がれているのです。
教えてくれるのは、人間ではありません。
私達人間は、今共通のレベルの中で存在しています。
誰かが特別に高い能力を持っているわけではないのです。
想像で、物事を現実化してはいけません。
想像はあくまで想像であり、現実になる可能性は、その想像が不可思議であればある程、それは現実化しない現象と言えるでしょう。
今はまだ、物質を超えた世界で、私達に与えられた能力は、意識という世界と、感性という、言葉では言い表すことの出来ない、その無限大の能力を、どう生かすかが問われているのです。
そのことを早く理解し、惑わされないで下さい。
全ての発想は、自分の中から生まれるものです。
誰かに尋ねても、その答えは生まれてきません。
正しい答えは、自分の中に存在しています。

『ある時、運命の出会いを感じた』
そんな出来事がよくあります。
『あなたと私は出会うべくして出会ったのよ』
確かにそういったこともよくあります。
このことをもう少し深く考えてみたら、渋谷の交差点で、何度も出会っていても、そこにエネルギーを感じることもないし、そこに必然性は生まれてきません。
例えそれが、運命の出会いの人であったとしても、その時間、その場所、それが、運命という、そういったエネルギーを作り上げていくことは、中々難しい出来事なのです。
もし前世からの記憶があり、生まれてくる時に、こういう人と出会い、こんなことを経験しながらこう生きるんだという、前世における神々との約束という理論がありますが、それは、生きている人間が考えた、一つの空想でしかありません。
その時間、その瞬間、その環境、私達は、常に、道を選び、右と左の足を交互に出しながら、定められた方向は、存在しているとはいえません。
神は、こっちおいでよと、道しるべを立ててくれますが、子ども達もそうです。
お母さんが、こっちで早くおいでと手を振っていても、あっちに寄り道、こっちに寄り道、カブトムシを見つけたならば、そこから離れようとはしません。
親の言うことなど聞かないのが、子どもの本能なのです。
こんなことからも、必然的理論や引き合い的理論は、非常に困難を要する、そういった出来事のように思われます。
たった0.1秒のタイミングをずらしただけで、出会いは起こってこないのです。

引き合うことは、必ずそこにはエネルギーが存在し、お互いの関係が明らかな中で行われる行為なのです。
殺す人と殺される人は、引き合っていたという考えがありますが、そんなことは絶対的に不可能な出来事なのです。
 なぜならば、エネルギーそして物質、そういった相対性の関係の中で、引き合うという行為が生まれるのであり、存在が明らかでない状態の中で、引き合うことはないのが、宇宙理論であり、意識という世界は、求める行為は、引き寄せるエネルギーであり、相手を意識した時に物質的に存在しているエネルギーに変換されるのです。
もっと分かりやすく言うと、出会ってから、出会う前の観念を変換させるのです。
要するに、出会うまでは何の因果関係もなく、何のエネルギーも存在していません。
そこには必然的な法則も存在しません。
しかし出会ってから、お互いの魂や意識が、非常に強い融合関係を持った時、そして、出会わせてくれた神様に感謝した時、必然理論や引き合い理論が、過去にさかのぼって生まれてくるものなのです。
『あなたと私は、出会うようになっていたんだよ』
そういった意識になった時、それはとても素晴らしい結果を生み出すことに違いありません。
全ての出来事は、起こってから始まるのです。
その起こるという行為があって初めて、物質的なエネルギーや、意識的なエネルギーが、過去と未来を超越しながら、そこにわずかな理論を組み合わせ、そういった意識を、現実のものとさせるのです。
全ての偶然を科学する神々達は、彼らの意図する方向性の中で、私達はただ、泳ぎまわっているに過ぎないのです。
必然理論や引き合い理論は、実際には存在しなく、起こってからそれを意識した時、今までないような強いエネルギーが生まれてくるのです。

だからこそ、そういった考え方を重要視しても、決して罪なことではありません。
逆に、そのように理解した方が、お互いの関係がより上手く進み、より深いものとなるでしょう。
この時に、一つの条件を満たすことが、とても大切なこととなります。
要するに、お互いの中に、合理性が見出せた時に限る理論なのです。
多くの亡くなった人達が、必要でないから死んだわけではないのです。
必要な人だけが生かされたわけでもないのです。
殺された人が、殺す人を引き寄せたわけではないのです。
この引き合い理論や必然理論の中では、合理性により生み出された、友好関係が作られる世界のみ、こういった考えを持ってもかまわないと思われます。
それを全ての出来事に置き換えることは、大変危険な考えを持つことになるでしょう。
交通事故を起こした車同士が、引き合っているわけではないのです。
亡くなった人に、役割がなかったわけでもないのです。
もっともっと自然に、物事を捉え、季節の中で、当たり前に起こる現象を定義付けすることなど、本当は必要のない出来事なのです。
もっと素直に、時間と現実を見つめ、理屈や屁理屈を、そして理論付けなど、本来は必要ありません。
出会いの中から、何を求めるかが、お互いにとって、それから発する意識が、最も大切な未来へと進む力となるのです。

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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