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小さい頃、よく親に言われました。
「行儀が悪いわね」
そして
「作法を学びなさい」
何のことか、よく分からなかったときもありましたが、今になって、その親の口癖のような言葉が理解出来るようになってきました。
秩序が乱れ、何が正しくて何が間違いなのか分からない、そんな入り乱れた社会の中で、一体行儀とは何のことなのでしょうか
?
お寺で住職さんの話を聞く時に、足を動かしたり手を動かしたりするだけでも、叱られたものです。
ご飯を食べる時に、箸の持ち方や、おかずを自分の好きなものだけ選んで食べたりすると、常に行儀が悪いと言われました。
最近の大人の社会生活の中で、色々な人と話をしたり、酒を飲んだり、食事をしたりしていますが、なるほどと言っていい程、皆行儀が悪いものです。
行儀作法を学ぶことが、これから必要になるのかもしれません。
お茶を点てるときの作法や、花を生ける時の作法、また挨拶回りする時などの作法、目上の人や、地位や名誉や資格のある人との接し方や、作法的なことではこの日本は極めて厳しい掟(おきて)の中に存在しているのでしょう。
全てが平等という、素晴らしい考え方もありますが、親しき仲にも礼儀ありという諺もあります。
この礼儀とか、行儀の儀は、人の義と書きます。
この義とは、もちろん正義とか、沢山の義がありますが、この義を重んじる、これが日本人の最も優れた能力の一つと言えるでしょう。
義理の社会、義理を欠いてはどうにもなりません。
いかに義を大切にし、義の中で生かされるのかは、私達日本人だからこそ、それを理解することが出来るのです。
本当に、義を使った言葉があまりにも多いことに、驚かされます。
子どもの頃からよく言われた、
「行儀を良くしなさい」
今になって、その親のありがたみを感じています。
それなくして、品位や品格は表れてこないのです。
1人の人間として、この社会で認められていく為には、やはり義を重んじなければならないのです。
そして人間として、生きていく為の法則、そしてそれが社会に認められていく法則が、作法という言葉で置き換えられるのでしょう。
何かをする時、言葉であっても行動であったとしても、必ず法則が存在することを意味しています。
この作法という、この極めて素朴であり、また現実的である法則の中に、日本人の心が生きているに違いありません。
今、多くの人達が忘れてしまっている、この行儀作法の定義を求め、もう一度日本人としての誇りや役割を考えてみてはいかがでしょうか?
もしこの行儀作法がある程度整ってきたならば、そこには争いもなく、しかもレベルの高い社会生活が営まれるはずでしょう。
義の世界は、そして法の世界は、日本人の生き方そのものを意味しています。
そこさえ理解出来れば、私達は平和な社会生活を営めるはずなのです。
今一番忘れ去られている所が、その辺なのかもしれません。
言葉では知っていても、何をどの様にすれば良いのか分からずにいた、この現実から一歩踏み込んで、行儀作法を自分の中で、確立してみてはいかがでしょうか?
きっと品位と品格が生まれ、より高いレベルの人達と出会うことが可能となります。
日本には、身分制度がありませんが、現実には品位と品格の差が、大きく作用することは間違いないのです。
行儀作法を忘れないように生きていけたならば、もう一つ違った未来が作られることでしょう。
社会生活を営む中で、私達はいつも、2人以上の人間関係の中で、意見の食い違いや思想の違いがあり、ささやかなトラブルを起こすことがよくあります。
自分の意見を通そうとすると、それが上手くいけば良いのですが、いつも上手くいくとは限りません。
相手にも色々な考え方があり、一致するかどうかは、分からないからです。
そして、エゴ的に自分の意見を通そうとすると、そこにひずみが生まれ、人間関係が悪くなっていくことがあります。
そしてそれが、その人を恨む行為になってしまったり、逆に恨みを買ってしまったりという結果になってしまうこともあるのです。
恨みや憎しみを、ただ感じるだけならば、さほど大きな問題となりませんが、そこに悔しさがプラスされ、なんとかしたいという思いが強くなった時、人間達は知らず知らずの内に、悪魔と取引しているのです。
無理難題を通そうとすることは、そこには必ず悪魔が存在し、真っ先に悪魔との取引を成立させなければいけないということなのです。
悔しさの余り、憎んだり激しくぶつかったりする中で、そのエネルギーを必要とする悪魔は、必ずそこに存在します。
そして、それが逆恨みだった場合には、その悪魔のエネルギーを、聖なる力は逆利用することが出来るのです。
正しい考えの下で呪いをかけるなら、悪魔との取引の中に大きな問題は起こりませんが、自分のエゴや欲望からそういった行為をしたならば、逆呪いをかけられ、その人が送り込んだ悪魔を、呪われた側が利用する方法があるのです。
この世界は、現実と非常に上手く絡み合っています。
肩が重くなったり、頭痛がしたり、腰の辺りに風が吹いたり、そんな寒気がするような出来事が沢山ありますが、悪魔との取引によって、そういった行為を起こしている人達も居ることは事実なのです。
それを意識的に行っている人も居ますが、逆に無意識の中でそういった行為が行われることも、よくあるのです。
人間は欲をかきます。
ああしたい、こうしたい、自分の能力を不可思議的な方向に高めたい、簡単に言うと、霊的能力を持ちたいとする人達が沢山いますが、そういった中で一番簡単にその能力を持つ方法が、悪魔との取引なのです。
確かに霊的能力は、未来を予知したり、その人を読んだり、過去を見たりすることなど、沢山の不可思議なことが出来ますが、その能力をエゴと欲望で満たそうとするならば、必ずそこに悪魔が存在してきます。
そして、神に祈っているつもりが、実は神ではなくて、悪魔との取引になってしまっているのです。
時には霊的感性を得られることもありますが、それを彼らは笑いながら、その欲望を満たす為に、力を持つ動物霊を送り込むのです。
そのことを知らずに、その能力を使い込んでしまったならば、やがてその罰は、全て自分に向けられ、自己滅亡の法則へと変わることでしょう。
悪魔との取引が、自らそれを知って行っている場合は、逆にそれが妖怪化することもありますが、知らず知らずにやった場合には、そのしっぺ返しは大きいものと思われます。
私に神が降りた、などと、そしてこう教えられたとか言う人が居ますが、ほとんどの場合がそれは悪魔が降りてその人に取り憑いているのです。
それを神と勘違いし、やがて自己を破壊してしまうのです。
神が、そう簡単に人間に降りてきたり、その人を正しく明るい方向へ導いたりすることは、大変難しいのです。
倭民族における大切な儀式の中に、系図下ろしという儀式があります。
神の許可を得て、その系図を認識された人達だけが、それを可能とするのです。
私に神が降りたと言っている人のほとんどが、まやかしであり、悪魔との取引に過ぎないのです。
知識をひけらかし、霊的現象と相手が勘違いするように、そんなビジネスが存在していることも事実ですが、やがてそのしっぺ返しが、何倍にもなって自分に返ってくることでしょう。
最初は優しく入り込んでくる悪魔達は、決して自分を悪魔と気付かせることはないのです。
神のふりをし、その望みを叶える方向で、取引が成立していくのです。
安易に必要以外の能力を身につけようとしない方が、安心して暮らせる条件となるでしょう。
誰もがあまり聞きなれない言葉かもしれませんが、覚り屋という、そんな特殊能力を持った人達が、時々存在しています。
人は皆、自分の心を隠し、観念と理想の中で、いかに弱みを握られないように隠し続けるかという自分と、社会生活を営む人間関係を、矛盾と現実の中で過ごしています。
自分の本当の心を知られることは、非常に厄介なものとなることでしょうが、時々それが確実に見えてしまうような、そんな特殊な人がいるのです。
黙っていても、その人の奥に潜む自我との会話の中で、その人が、またその人自身が忘れてしまっているような、過去の記憶までも呼び戻し、俗に言うトラウマを解決出来るような、そんな現象を起こすことも出来るのです。
人の心を覚ることは、容易く出来ることではありません。
誰もが上手く自分を繕い、外見を飾りつけ、ごまかしと嘘の中で生き続けているのですから、その本心を見抜き、またその人の性格を見抜き、その人自信が隠し続けてきた過去を暴くことは、その人の恐怖でもあり、またそこに霊的現象が絡んでいたとするならば、その閉ざしていた扉を開くことにより、そこからあらゆる憎悪の念が浮上するかは、理解を超えてしまう可能性があるのです。
まだまだ人間達は、見えない世界の全てを知っている訳ではありません。
自分で、自分という人間をどこまで理解出来ているのか、また自分に取り憑く霊的現象を、どう理解しているのか、そんなことを言い出したならば、全く理解の出来ない現実が見えてきます。
そう、誰もが自分のことを知りたいと思いながら、自分のことを知ることが一番難しいのが現実なのです。
そんな中で、占いを信じたり、どこかの霊能者に見てもらったり、何かの宗教に依存したり、心の迷いの中で、その結論を出そうとする意識が、逆に悪い方向に進むことすらあるのです。
未来の不安を消す為に、占いを信じ、自分の名前に隠された画数や文字魂の中に、未来の結果を想像していくことは、ある面非常に怖い事柄と思われます。
確かに未来は不安なものです。
その不安は、過去における自分の過ちや、隠れた自分の性格の中に存在し、自分で作ってしまった不安がその自分を押しつぶし、そしてその解決方法が、不可思議な世界への遭遇であったりします。
それが正しい方向に導いてくれるならともかく、今この日本における、いわゆる霊能者といわれる人達や占い師ならば、当たるも八卦あたらぬも八卦といわれるように、あくまでパフォーマンスに過ぎないので、それは許される範囲でありますが、霊能者は、一回のミスはその人の人生全ての終わりを示します。
なぜなら、霊能者は一回のミスも許されないのです。
それ程、厳しい霊的現象を見抜く程の力を持った人間は、さほど多くはいません。
今存在している、にわか霊能者が、暴利をむさぼりながら、獲物を探している現実は、残念でなりません。
また本物が現れてきた時に、その本物の皆さんに迷惑をかけているのが、彼らなのです。
この、見えない世界と現実、そこに絡み合うような、人間の心や観念、そして嘘と騙しの中で、人間達は生き続けています。
一つの肉体であっても、そこに幾重にも重なり合って、1人の人間とし、この地上で生きているのです。
意識は常に変化し、未来へと進んでいきますが、そこに霊的現象が被さるように存在し、毎日の生活を良くも悪くもしているのです。
これからの未来は覚り屋に託され、この社会の現実と全世界の未来は、彼らの手に委ねられることは、間違いないのです。
なぜならば、現実を完璧に理解しなければ、そこから始まる未来は、想像がつかないからです。
逆に未来を知ることが出来たならば、現実の中で、今を変えることが出来るのです。
そして今を変えることが出来たならば、確実に未来は変わるのです。
それは未来を見ることの出来る人達だけに与えられた権利であり、義務なのです。
全ての霊長類の中で、いやそれ以外に、全ての命の中で、この霊的現象を含め、不可思議な現象は起こっているのです。
植物でさえ、大いなる意識を持ちこの地球で生きていることを知ったならば、自然の中に意識を共有させ、未来を変える勇気を持ち、全てを覚り、そして、未来へと導かなければならないのです。
人間が生まれてきて、この地球上で、社会生活を営みながら、いろんな活動をしています。
そして、日本人は特に霊的意識が強く、全てを神として崇め、高い意識の中で生活を営んでいます。
多くの言葉の中に多くの意味が存在し、宇宙そのものをも明快に言葉に言い表し、もちろん、見えない世界や感性でしか得られないような出来事の中でも、日本語が上手くそれを表現してくれているのです。
言霊という言葉がありますが、これは日本語だけに与えられた権利のようなものでもあるのです。
そして、生まれるとまずはお宮参りという形で、神様に挨拶に行きます。
その時、今でいう、戸籍謄本が作られるのです。
そして、倭民族の一員となり、神様からもらった分け魂(みたま)が動き出すのも、このことがきっかけとなるのです。
例えば、お寺の住職さん達が、細長い棒を持って、おでこのところにちょんとします。
これはお加持棒であり、魂の確認でもあるのです。
中々運に恵まれず、不幸なことが起こったときなど、何か他のものに対して、不安を感じてしまうことがあります。
俗にいう、守護霊がついているのかどうか、そんなことも考えてしまうこともあるのです。
人間は生まれてから一生の間に、魂の入れ替えが3回出来るという話が存在しています。
子どもの頃、そして成人、社会人、そして老いていく人生の中で、必要な時に、必要な霊的現象を含めた、魂との遭遇が存在しているのです。
前に述べたように、私達人間は、三次元の肉体を持ち、六次元の7つの霊体を持ち、九次元の5つの分け魂を得ることが出来ています。
このように複雑に絡み合った、人間という存在は、倭民族だからこそ分かり得る、独特のスタイルといえるでしょう。
その中でも、神々から預かった5つの魂が、それぞれ大きな意味を持ちながら、人生の中でうごめくことでしょうが、その5つの中の3つを、自分の人生の中の絶対的な権利として、また社会貢献をする為の法則として、入れ替えることが可能なのです。
誰もが皆、そうしなければいけないということでもないのですが、何気なく生きてきた人生の中で、急激な転換期を迎えることがあります。
その転換期に合わせ、考え方やスピードや、意識の高さが、変化を必要とした時に、神々達はその為の魂を3つ用意し、高次元化してくる意識を待っているのです。
初めからそのように、レベルの高い魂を入れてしまったならば、霊的にも肉体的にも、融合性が持てなくなり、かえって気の動転を招いてしまいます。
やはり段階があり、その段階の中で、未来に向かい、新しい意識を育む必要があるのです。
誰もがその権利を持ち、生きているのです。
今このような危機的な時を迎え、生まれながら神々から預かった魂では乗り越えることが出来ない程の時代を迎えています。
今こそ、魂の入れ替えをし、来るべき未来に備えなければなりません。
単純に高次元化とか、アセンションとか、勝手なことを言う人が非常に多いですが、その為には私達の霊的現象にまつわる、5つの魂の新しい時代を迎えることが絶対的な条件になるのです。
高い次元の魂を習得出来なければ、全てにおける高次元化は、不可能なこととなるでしょう。
意識を高める為には、やはり神々達との密接な融合関係が必要なのです。
神に委ねられた未来は、人間達によって築き上げられます。
なぜなら私達は、肉体を持ち、霊的感性の中で、正しい方向を見つけることが、そして活動することが出来るからなのです。
その為には、突拍子もなくかけ離れた程の、高い次元に上がる必要があるのです。
なぜなら、上から下は見えても、下からは上が見えないからです。
やはり、神々との融合が、未来へと進む架け橋となることは間違いないでしょう。
日常生活の中で、嘘をついてしまうことがよくあります。
自分を誤魔化す為や、逆に人を傷つけない為にも、嘘を上手に使うことによって、社会生活をより豊かにしたり、また過ごしやすくしたり、嘘というものは、使い方さえ間違えなければ、決して悪いものではないと思います。
しかしながら、嘘ではなく、それが騙しになってしまった時、被害者を作ってしまうことになるのです。
また、相手が勝手に勘違いしてしまったり、例えば、リップサービスのような口からちょっと出てしまった、思いつきの事柄が、とんでもない方向に進んでしまったりすることもよくあります。
自分では情報を操作しているつもりがなくても、何気なく出てしまった一言が、それを捉える人の側から見たら、その人に関係する色々な出来事と上手く絡み合った時に、その反応が良いか悪いか、全く発する側の人とは違う方向に進んでしまうこともよくあるのです。
自分では決して悪いことをしているつもりがなくても、その何気ない一言が、多くの人を傷つけることすらあるのです。
それは、決して騙しではないとしても、被害者が出てしまった時は、罪を持つことになってしまいます。
私達日本人は、沢山の言葉を持っています。
良いか悪いかで、要するに、イエスかノーかで判断出来ない出来事が、余りにも多いのです。
人を傷つけないように、そんな気の使い方の中に、嘘も方便という言葉もありますが、上手について相手を傷つけなければ、それは優しさの中の一環なのかもしれませんが、相手の捉え方一つで、なぜ本当のことを言ってくれないのと責められたならば、逆に罪を犯すことになってしまうこともあるのです。
要するに、嘘と騙しの定義付けは非常に難しく、自分だけで解決出来ない問題が余りにも多いからなのでしょう。
相手の考え方を理解出来るかどうかは、要するに、相手がどう思うかは、中々それを考えた上で何かを話そうとしたならば、非常に難しいものがあります。
自分では何の悪気もなく、むしろその人を楽しませようとしていった嘘が、日が経つうちに大きな出来事に変わってしまう場合もあるのです。
ただちょっと自分を庇っただけの言葉が、そしてたった一つの嘘が、それを正当化する為に、次々と嘘をつき続けなければならなくなってしまうのです。
中には自分を洗脳し、嘘を正当化する自己暗示法則の中に自分を置きながら、活動している人もいらっしゃいます。
スピリチュアル系といわれる中で、自己暗示をかけようとして、そこに到達出来ず、知識の中でごまかそうとしているならば、とても残念な結果に陥ってしまいます。
しかしながら、そのようなテクニックは、本来は必要なものではないのです。
やがてその嘘は公の場に晒され、人々からは「騙したのね」と言われてしまうことになるのです。
今そういった方々が、本当の能力を持ち、本当の力を身につけることの方が重要ではないでしょうか。
ここに提案するとするならば、そういう高い意識を持ちたい人ならば、前に述べたような、チャクラについて、もう一度関心を持って、そこに触れてみてはいかがでしょうか。
きっと道は開かれるはずです。
人間達はいつも迷いの中で言葉を選んでいますが、それがあだになることが余りにも多いことに、驚かされることもあるのです。
嘘も上手に使えば、社会生活は円満に、人間関係は穏やかに、過ごせるのかもしれませんね。