[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
この15年間、環境問題や水の科学の中で、そして新しい物理学、ゼロバランス理論や、自然界の法則について、広い分野で勉強会を開き、沢山の人と知り合いました。
そうすると、必ずその中には、考えの相違の中から、大きな矛盾が生まれてきます。
もし間違っているならば、それを正す勇気があれば、それだけで済んだはずなのです。
余りにも難しくて、ついてこられないのならば、分かる範囲で理解するだけでも良いのです。
沢山の話し合いの中で、多くの結論が出てきます。
そしてそれを実行するかどうかは、個人の自由なのです。
しかしながら、意見の相違の中で、それが正しいか間違いかという以前の問題の中で、勝手な解釈と間違った理解の中で、この場を去る人が沢山いらっしゃいました。
非常に残念なことですが、まだまだ道の途中で、これからという時に去っていくのです。
続けていれば、未来は開かれ、新しい考え方と共に、助け合うことが出来たはずなのに、自分のエゴを通す為に、そして自分の過去の過ちを隠す為に、この場を去っていくのです。
正しい考え方を持ち、その考え方を推し進め、そして成功した人は、去った人達の中には1人もいません。
なぜならば、自然界におけるこの科学は、余りにも当たり前過ぎる科学であり、否定することは根本から出来ないからです。
だからこそ、より深く知り、これからの未来を築き上げていかなければならなかったはずなのです。
去っていった人達が、類を集め、自然界理論の批判と共に堕ちていくことが、大変残念に思います。
どんなにそれを正当化しようとしても、この当たり前の理論の中では敵うはずがないのです。
もっと正直に、そして素直に、自分の非を認めれば、正しい方向へ進めたはずなのに、それは叶わない出来事となっていくのです。
なぜその様に、エゴ的な意識が、その人を駄目にしてしまうのでしょうか?
神々達は、なぜその様に人間を作ったのでしょうか?
正しいことを正しく理解し、ただ実行することが、その人にとってそれ程までに苦痛になるという考えは、過去の経験の中で築き上げられた現実を見失う行為に過ぎないのです。
要するに、自分が間違った過去の栄光を、間違いであったと認める勇気さえあれば、理論にそぐわない商品にすがったり嘘をつき続けたりするような、極めて自己滅亡的な意識の中で時を過ごすことは、かえって大変な事ではないでしょうか。
たった一言、「うんそうだよな」と、言えたならば、一緒に歩んでいけるのです。
正しいものを正しいという勇気は、中々それを言い切ることは難しいことかもしれません。
間違っているものを、はっきり間違っていると伝えたならば、それを伝えられた人達は自分の過去を否定されたということになるので、極めて反抗的な意識となってしまうのです。
間違ったことをしている人程、正しい意見に対して反論したがるのです。
そして、自分を確実に駄目にしていくことは間違いないのです。
その様な形で、去っていく人達を沢山、見てきました。
結果は、言うまでもありません。
間違いは、間違い以外の何物でもないからです。
認められない考え方の中で正当化を求めることは、絶対的に不可能な意識に過ぎません。
勇気を持って過去を清算し、正しい未来を築くように、自分を変えなければいけないのですが、自己否定する勇気はそこには存在していないのかもしれません。
やはり、この世の中はそういった人達が沢山、居るのかもしれません。
自己の欲望の中で、それを正当化する為に、幾つもの嘘をつかなければなりません。
そしてその騙し合いの中で、去り行く人達はうごめいているのです。
そして、ただ去っていくのなら、いつでも本流に戻ることは出来るのですが、その後に自分を正当化する為の、色々な波紋を広げ、自分を追い込んでしまうのです。
結果は分かっているはずなのに、それが出来ない自分が、そこには存在しているのでしょう。
とても悲しい出来事ですが、そんな人達に、神々は手を差し伸べてはくれないのでしょう。
観念の中から見た時、霊的な現象は、それは物質的に言い表すことは非常に難しいことと思われます。
確かに、唯物論者の中でこのような話をしても、何の理解を得ることも出来ないことでしょう。
霊的現象とは一体何を言い表すのか、非常に不可思議なことと思われます。
しかしながら世界中に、それを崇拝するような、神社仏閣・教会等が、数多くあるのも現実なのです。
否定出来ないこの事実の中で、霊的現象を物理学で表すとするならば、必ずそこには一つの法則が生まれてきます。
それは、現象とエネルギー、要するに、何のエネルギーを使い存在し、どういった現象を表すのかということです。
例えば霊に取り憑かれる場合、私達が持っている生体エネルギーも利用し、彼らは意識現象を上手く融合させながら、そこに絡み合ってくるのです。
今精神的に、非常に大きなダメージを持った方が沢山いらっしゃいますが、その中の大半に、霊が関与している可能性は否定出来ないのです。
私達人間は、大気中に存在する多くのエネルギーの現実を、まだ分かってはいません。
写真等でよく見る、白い丸い影のような玉は、俗にオーブと呼ばれていますが、何のエネルギーを利用し、何の情報を記憶し、何の為に存在しているのか、まだ何も分かっていないのが現実なのです。
よく神様に手を合わせ、商売繁盛や健康祈願をしたりしますが、確かに否定出来ないことが余りにも多いからなのでしょう。
しかしこれらのことを、物理学的には、情報とエネルギー、そして物質における共有性という形で、それを解き明かすことが出来ます。
ここを上手く利用しているのが、神頼みということになるのでしょう。
しかしながら、それが常に私達に有効的な方向に働くとは限らないのです。
空間エネルギーと物質エネルギー、情報エネルギーと次元間エネルギー、意識エネルギーと異次元エネルギー、そういったエネルギーは、至る所に存在しています。
空気中の水蒸気や窒素にも、そして酸素にも、その原子核の中には、常にエネルギーが存在しているのです。
そして電子がうごめきながら、情報を上手く転写し、共有化することにより、現象をもたらしています。
これは決して侮れない世界であり、その目に見えない世界に存在する情報は、エネルギーとの関係の中で、全ての生命に大きな影響を与えているのかもしれません。
私達は宇宙の法則の中に、現実の生命が存在し、そのプログラムの中で維持されています。
自由に意識しているかのように思われますが、免疫力や自然治癒力は、意識で管理できるものではありません。
そういったプログラムの中に、霊的現象が上手く関与したならば、こういった現実の中で人間は大いなる存在としてこの地球に君臨していることでしょう。
霊長類といわれる生命体の中でこれは表現されていますが、物理学上、極めて複雑な絡みの中で、情報とエネルギーが法則を乗り越え、存在しているのではないでしょうか。
突拍子もない出来事が突然起こったり、あっという間に危機を乗り越えたりすることも、決して珍しいことではありません。
正夢を見たり、見えないはずのものが見えたり、不可思議な現象は数多く存在していますが、私達の観念が余りにも領域が少なく、それを上手く意識出来ないだけなのです。
人間達は、現実の教育の中で、この社会現象は、観念と理想の中で繁栄を遂げてきましたが、そんな今だからこそ、この霊的現象を、そろそろ宗教的ではなく物理学的に表現し、理解出来る時代になってきたことは言うまでもありません。
全てのエネルギーは、原子、そしてそれを取り巻く環境の中に存在しています。
そして、そこに流れ込む波の中に、そして音の中に、大いなるエネルギーも存在しているのです。
情報は、確実にそれを捉え、その組み合わせの中で物質が存在するように、まだまだ、私達は理解出来ない、そういった存在が数多くあることは、否定出来ない現実なのです。
確かに、唯物論、そうなのかもしれません。
ただ私達は、まだその情報とエネルギーを捉えることが出来ず、ある特殊な物質として、理解出来ないだけのことなのです。
神はなぜ、人間を作ったのでしょうか?
果たしてこの地球にとって、人間は必要な存在なのでしょうか?
深く考えていくと、逆に人間が居ない方が、この地球はどんなに穏やかなのだろうかと思います。
でも、人間が地球に存在している以上、何らかの理由があるはずです。
そして、今こんなに意識が乱れていても、世界中が激動の渦の中にあったとしても、どんなに荒んだ心になったとしても、私達はここに生活し、生きていることには違いないのです。
沢山の命を食べて、そして環境を破壊し、壊し続けたこんな世界に、人類がなぜ必要だったのか、全く分からなくなってしまいます。
しかしここに生き続けている以上、その意味を深く知ることが、これから必要なこととなるでしょう。
今日までの人類は、地球にとって害虫以下の存在だったのかもしれませんが、人間には知恵があり、この優れた能力をもう一度地球の為に使おうとしたならば、全く方向性が変わってくるはずです。
誰もが皆、自分の為に、自分をいかに高めていくのか、そして自分をいかに有利に持っていくのか、そんな中で生き続けてきました。
あくまで人間の生活が中心であり、地球の思いが反映されていなかったのです。
それなのに、困った時だけは神にすがり、救いを求めていったのも、単なる人間達のエゴに過ぎないのでしょう。
今こそ、私達は地球という、大きな意識体と向き合い、私達人類が生まれた意味を深く知り、地球に何が出来るのか、自然にどう恩返しが出来るのか、生かされているという感動を自覚しながら、自分に出来る何かを見つけなければなりません。
いわゆる、役割探しが、私達にとってこれから最も重要な、生きる為の術なのでしょう。
なぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのか、そんなことを、誰もが一度は考えたことがあると思いますが、これからは自分の為の人生ではなく、自分達が生きられる為の環境作りがいかに大切かを知り、生かされているという自覚を持ち、前に進んでいかなければなりません。
この意味が理解出来ないと、本当に地球にとって必要でない人になってしまいます。
必要でない人達が、行き続けたならば、この地球は何の意味で宇宙を飛び続けているのか、本当にこの愚かな人類をなぜ乗せて旅立つのか、分からなくなってしまいます。
今こそ、一人ひとりが役割を見つけ、しかもその役割が私達人類に直接向かず、間接的に人類の為になるならば、それが一番正しい行為と思われます。
生かされている私達が、生かしてくれる彼らと意識を共有し、彼らの役に立つことが、最大なる役割ではないでしょうか?
それが物質的であっても、また意識的であっても、私達人類にはそれを理解する能力も備わっているはずなのです。
見ようとする力、そして、そこから何を見出すかは、私達人間がこの地球で生きる上で必要不可欠なこととなるでしょう。
役割を人類以外の彼らの為に使い、思いを共有したならば、必ず人類は救われるでしょう。
まだ私達は見捨てられてはいません。
地球という意識にとって、私達人類は最初の一歩を歩き出そうとしています。
役割を認識出来たならば、必ずそこからは、未来が拓かれることでしょう。
人間はなぜ、ここに居るのか、そして地球に必要とされているのか、人間の持つ本当の能力とは何か、それを早くに知るべきです。
限られた時間の中で、人間が持つ本来の能力に目覚め、この地球と共に生き続けなければならないのです。
まだ手遅れではないのです。
自分の役割を、早く探して下さい。
一般的にも、水は色んな情報を記憶していると言われています。
そしてその水にも、感情や意識が存在するとも言われています。
確かに、そういった現象により、結晶が変わる等の現実味を帯びたデータもありますが、まだまだその分野においては確立されたものではありません。
しかしながら、全ての生命体に水が共通して存在する以上、その水の役割を考えたならば、そういった考えは当然のことと思われます。
果たして水とは、私達生命体にとってどのような関わりを持っているのか、計り知れないものがあります。
また逆に、水のどこにそんな能力があるのか、私達はまだ情報科学の面からみても、その領域には達成していないのです。
しかしその水の記憶が、私達の日常生活に大きく関わることは間違いないはずなのです。
このことを踏まえながら水の性質を考えてみると、水は酸素と水素の化合物であります。
そして、酸素と水素のどちらにそのような能力があるのか、また逆に、この2つの結合に何らかの法則が生まれ、そしてその記憶が保たれているのかもしれません。
入り口は水素、という可能性は非常に大きいと思われます。
なぜならば、水素の方が数が多く、魚の取る網を広げた時に、大きい網の方が沢山、魚を捕まえることが出来るからです。
そして、捕まえた魚を収容するには生簀が必要となりますが、その生簀の大きさは網の大きさから比べたらかなり小さなものとなることでしょう。
当たり前のことですが、こんなことからも推測出来るように、水素で捕まえた情報を酸素が管理していると考えると、非常にそれは辻褄の合う出来事となります。
もちろん、酸素は8番目の元素ですから、水素と比べたら桁違いの電子や陽子、中性子を持っています。
しかも、その種類もいくつあるのかは未だ解明されていませんが、炭素60がダイヤモンドのように、炭素の種類でさえも80以上あると言われていますので、そうなってくると酸素の数は100を越えることは間違いないと思われます。
そんな中で、酸素と水素の関わりは大きく反映され、情報の収集と伝達、記憶と管理といった役割が、別に存在してくると考えた方が辻褄が合うでしょう。
水素に全ての責任を負わせるような考え方では、水における記憶の能力の全てを言い表すことは出来ません。
また水素の陽子や中性子、電子といった限られた中での役割分担を想定しても、それは水という領域の中で考えるとするならば、余りにも単純すぎることと思われます。
やはり、酸素と水素、両方の密接な関係の中に、記憶する能力と、記憶を伝達する能力と、情報を収集する能力が上手く絡み合いながら存在しているからこそ、水でなければならない定義付けがあるのです。
そしてこの酸素の持つ大きな役割は、やはり情報の記憶の容量と、管理における安定性だと思われます。
要するに、酸素だけでもその能力は発揮されず、水素だけでも駄目ということになります。
この酸素と水素における水という質量を持った物質が、情報をどのように管理しているか等については、まだまだ未知の領域に過ぎませんが、コンピューター社会になり、CDやDVD等に沢山の情報が記憶されるように、電子と物質の関わりはこれから大きく変化していくものと思われます。
私達は、情報を記憶出来る色々な物質と、また、その情報を引き出すコンピューターの凄さを確実に今、目の前にしています。
これが、水の中で自由に行われているとしても、決して不思議な訳ではないのです。
ただ唯一の欠点は、私達が作り出したいくつもの機器の中で、水からの情報を読み取ることが出来ないということに過ぎないのです。
CDから情報が読み取れるように、水からの情報がもし読み取ることが出来たならば、世界は画期的に変わることでしょう。
私達は、神から頂いた五つの分け魂(みたま)と、それに伴う七つの霊体を持っています。
よく、なくて七癖と言われますけども、その通り人間には沢山の癖があります。
そして、意識も色々で、バイオリズムのように上がったり下がったり、一日の中でも、本当に猫の目のように変化することもあるのです。
一日同じ気持ちでいられたなら良いのかもしれませんが、時間に追われ、ちょっとした出来事に左右され、意識や気持ちは常に変化していくものでもあるのです。
こんな不安定な意識の中で、私達は日常生活を営んでいるのです。
たった一言で傷ついて、些細な出来事に悲しんで、ちょっとした間違いに怒りが生まれたりします。
一日の中でどれだけ、意識や心は変化していくのでしょうか?
朝起きて寝るまでの間に、何度そういった現象に遭遇するのでしょうか?
そして、それだけではなく、私達には思考能力があります。
物事を考えようとする力は、ある面、素晴らしいのですが、向上しようとする考え方があるとするならば、それを否定しようとする意識も存在してくるのです。
常に自己の中で、その戦いは繰り広げられているのです。
なぜこのように、プラスの面とマイナスの面を持ち合わせているのでしょうか。
そして、肯定と否定が同時に存在したり、訳が分からない程この仕組みは謎めいているのです。
考え方に一方向性を与え、その方向に有利性が認められるならば、そちらに向かうべきなのに、あえてそれを否定し、間違った方向、また不利益な方向へと自分を進めることもあるのです。
分かっていながら、そのマイナスの方向へ自分を導いてしまうのです。
いやそれ以上に、悲劇の主人公を演じるかのように、それが好きでたまらないのかもしれません。
そして自分を追い込み、自分を傷つけ、自分の判断の誠実性のなさに、自分を存在させ、そして駄目にしていくのです。
階段を転げ落ちるように、人生は狂いを見せ、楽な方向へと、それがどんなに間違っていたとしても、進んでいってしまうのです。
こんなことが起こるのも、私達の心には自己滅亡という恐ろしい悪魔が住んでいるからなのです。
この悪魔は、常に間違った方向性を示し、意識と肉体が滅びる方向へと向かうことを目的としているのです。
私達は、常に戦っています。
自分の中にいるこの恐ろしい悪魔と。
なぜ、神は、私達人間をこのような意識の下に作り上げたのでしょうか?
この誘惑してくる悪魔に、どう打ち勝てばいいのか、それを教える為だとするならば、残酷すぎる出来事といえるでしょう。
しかし、この悪魔がいることにより、この悪魔を上手く利用することよって、暴利をむさぼっている人も存在しているのです。
正しい方向へと進もうとすれば、必ずそこに妨害が現れてきます。
しかも、それも自分で、他人ではないのです。
このように、私達は意識との戦いの中で、日常生活を送っているのです。
しかしながら、悪魔だけではなく、実は天使も存在しているのです。
ところがこの天使は、悪魔よりかは気が弱く、小さな存在なのです。
でも、この小さな存在を認めることにより、その天使との会話により、私達は悪魔を退治する鍵を握ることが出来るのです。
天使はいつも、小さな扉の鍵を持っています。
その扉の鍵を開けると、そこには穏やかな自分の姿が見えるはずです。
そして、その自分は、悪魔に打ち勝つ能力を持った自分であることを認識することでしょう。