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ギリシャ神話の中で最も馴染みの深いものに、パンドラの箱の伝説があります。
パンドラという娘が、ある日小さな壷をもらい、絶対に封を開けないでと言われたにもかかわらず、開けてしまったのです。
今ではその壷が箱に変わってはいますが、それはさほど大きな問題ではありません。
神は何故、パンドラという女の子にその箱を渡したのかが未だに謎です。
パンドラは好奇心が旺盛で、我慢出来ずその箱を開けてしまいました。
その日から人間界に、悲しみや苦しみや怒りや騙しや、今私達の社会で繰り広げられている様々な出来事が起こるようになり、そしてそれは私達人間の心を大いに傷つけるものであります。
 なぜ、どうして、開けると分かっていながら、パンドラに箱を渡したのでしょうか?
これは仕組まれた大いなる罠の始まりなのです。
しかも、パンドラにその箱を渡した神の名は、この大宇宙を作り上げていった、偉大なる宇宙創世の神、ゼウスであったことが余りにも皮肉めいています。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)が、悟りを開かれる中で、一番心を痛く悲しまれた出来事の中に、こんな言葉があります。
「人は、なぜ争うのですか?」
彼はこのことを追求しながら、浄土真宗という法則を悟りの中から開かれたのです。
本当に、どうして人は争うのでしょうか?
その原因が、パンドラの開けた箱のせいだなんて、親鸞聖人でさえも思いつくことはなかったでしょう。
パンドラはあわててその箱を閉めましたが、間に合いませんでした。
そしてもっと悲劇的なことがそこで起こります。
それは、足の遅い希望だけが取り残され、閉めた箱の中で長い時を過ごすことになるのです。
今こそもう一度、パンドラはその閉めた箱のふたを開けなければなりません。
その第二のパンドラの箱を開けることにより、真っ先に飛び出してくるのがきっと、希望という未来に向かう光の渦なのではないでしょうか?

私達は希望することに、大いなる意味を持ちます。
そして希望を具体化することにより、その願いはきっと叶うに違いありません。
 なぜなら希望とは、そうあることを望むこと。
昔の神は、自然が豊かでありますように、お米が沢山取れますようにと、常に希望していました。
具体的な思いを希望という船に乗せ、現実化させることは、決して難しいことではないのです。
パンドラがばら撒いた憎悪の念も、希望により排除することが可能となることでしょう。

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何人かが集まって、色んな会話をします。
そして相手の意見を尊重し、そうだよねそうだよね、と、さも肯定するかのように会話を進めています。
そんな中で、よく使われる言葉の中に、「でも」があります。
「でも」が入ってしまうと、そこから話は、全く違う方向に進んでいきます。
今まで肯定していた話が、瞬間にしてひっくり返る、見事な言葉なのです。
しかしそこに気付くこともなく、会話は進んでいくのです。
「でも」というのは、なんて都合の良い言葉なのでしょうか。
この「でも」という言葉がある限り、日本人の性格がよく表れ、肯定と否定がいとも簡単に覆されていくのです。
否定する言葉の中でさえも、「でも」を使えば肯定になり、また肯定される現象の中で、「でも」という言葉を使うことにより、それはまた否定に変わることもあるのです。
どちらともつかない言葉の中に、それ「でも」私は頑張るとか、言葉だけ「でも」そうしたいとか、食べ物だけ「でも」それを食べたいとか、少数的な納得の中で、限定された微量的な意識と物を表す為にもよく使われます。
ひっくり返す為のもの「でも」あるのです。
この「でも」という言葉を、日本人は本当によく使います。
しかしながらこれは、英語に訳せない、日本人独特の法則の中にあるのです。
 上手く使えば、こんなに人を傷つけず自分の意見を通す簡単な方法はないでしょう。
全否定せず、少しだけ残す時に、「でも」が使われることも多いのです。
全部が否定されない為に「でも」があり、相手を尊重し、自分の意見を述べる為にも「でも」が使われます。
この使い勝手の良さが、あまりにも日本人的であり、これは優しさの一環と言えるでしょう。

もしこの「でも」という言葉がなかったとしたならば、私達はどんな形で人との会話を進めていったらいいのでしょうか?
「でも」を使わず人と話したならば、そこに争いごとが生まれる可能性が非常に大きいのです。
肯定と否定を繰り返しながら物事は進んでいき、分かったような気がしますが逆に何の結論も出ません。
「ああした方が良いの。でもこうした方が良いんじゃない?」
何を言いたいのか分かりません。
外国人ならば。
日本人ならこれを、本能的に理解し、そして分かり合えるのです。
こんなに素晴らしい国民性、そして思いやりの心、争わない日本人だからこそ、こんなことが出来るのです。
倭民族は、初めから争うことを一番嫌ったのです。
そこにある種の、外国人的な意識が入り込み、やがてその力は神となりました。
 なぜならば、神が人を裁き、神が人を殺す、そして神が人を作り出す、神だけがなせる業が、そこにあったからです。
倭民族は、人を殺すことを知りませんでした。
もちろん、琉球も、アイヌも、人を殺すことを知りませんでした。
だからこそ、神を信じ、神に従い、神を怖がり、また神に頼り、全てが神の意識の下で、司られていたのです。
「でも」の持つ意味が、ここで大きく私達に関わってくる意味が、理解出来たことでしょう。
 上手く使うことが出来たならば、人間関係は壊れることはないでしょう。

一般的によくいわれるように、エネルギーは高い方から低い方へと流れていきます。
常に高い方が主導権を握り、弱い方へと流れ込んでそれを支配しようとしているように見えますが、あくまでエネルギーと情報は分けて考えなければなりません。
確かにエネルギーは高い方から低い方へ流れます。
しかしエネルギーの高い方が強い情報を持っているという考え方は間違いです。
エネルギーがなくても、情報的には非常に力のある物質はいくらでも存在します。
また水に関しても、エネルギーの高い水を作ろうと研究なさった方も沢山、居らっしゃいますが、結局のところ全員失敗しています。
水におけるエネルギーの強弱は、表す単位が存在しません。
初めから存在しない理論なのです。
たかだか酸化還元電位や、クラスターの大小により、水の特性を語ることは非常に困難を要することになります。
まだ人間達は、水の本質を捉えてはいないのです。
だから磁石を使ったり、電気を使ったり、その在り方を変えようと必死になっていますが、それは逆に水が持つ情報を破壊しているに過ぎません。

大昔の水が強いエネルギーと情報を持ち、転写することにより目の前の水を変えるがごとくの説明をする人が居ますが、そんなこと果たして可能でしょうか?
目の前の水にも、太古の水の情報はすでに記憶されているのです。
その情報よりもはるかに強い情報が書き込まれ、現在のような不合理性を持った水、要するに私達にとって都合の悪い水になっているのです。
もっと分かりやすくいうと、塩素により殺菌された水に、どんなに優れた能力を持った水を転写したとしても、何の効果も得ることは出来ません。
塩素という情報とエネルギーは、水の持つ情報を上手く利用しながら、水の中にその存在を明らかにしながら、能力を発揮しているのです。
だからこそ、殺菌能力を持っているのです。
引き算の科学では、それを取り除き、そう、物質的にも取り除き、また情報的にも取り除きます。
そうすることによって、塩素の能力は、要するにエネルギーと情報は消え去るのですが、足し算の科学ではどんな情報をインストールしても、塩素の能力にかなうことはありません。
こんな単純な情報とエネルギーの関係は、中学生レベルで理解出来るはずなのです。
エネルギーの関係と水における情報的な関係は、法則が全く違うのです。

勘違いしないで下さい。
水は常にゼロバランスに保つことにより安定しようとしています。
逆にこの判定を破壊するような出来事があるとするならば、地球上から水が消える、もしくは私達が飲めない水になってしまいます。
情報の転写は、初めからあり得ない理論です。
 なぜなら水は勝手に、あらゆる情報を吸収し、現実のものとなっているからです。
要するに、水そのものがメモリーディスクであり、地球の全てを記憶しているはずなのです。
よって私達は、その情報と記憶の中で、上手く付き合っていく必要があるのです。
そしてなおかつ、今急がれていることは、水の持つ記憶情報システムのメモリーを拡張し、より多くの情報を記憶・管理する方向に導くことです。
その為の方法として、必要でない情報をいかに消し去るかが重要視されてきます。
その為には、メモリー容量の拡張が必要不可欠なのです。
すなわち、フォーマットウォーターは記憶容量の非常に大きな水でなければならないのです。
しかも勝手に行動し、勝手に人類を未来へと導いてくれます。
 なぜそれが可能かというと、デルファトラの科学は水が作られた時、すでに彼らに自由発想を認める、プログラムを組み込ませているからです。
人間はまだ、その科学に追いついてはいません。

何人かの人が集まってくると、差し支えのない笑い話をすることが、お互いを傷つけない法則の一つでもあります。
また、居ない人の悪口を言う、これも特徴の一つです。
 なぜならお互いのことを言い合ってしまったならば、それが例え噂話であったとしても、そこに集まった人達の関係を壊してしまうからです。
しかしながら、この噂話で、全く会ったことのない人達や、経験のない出来事に対して、さもその場にいたように話をする人がよく居ます。
こんなことで喜んでいるのも、世の中が平和であるからなのでしょう。
しかしながら、これからの世の中は、このような話が逆に通らないような時代になってきました。
 なぜならば、この日本も、アメリカ並に法律を利用しようとする人達が増えたからです。
要するに、ちょっとした一言で、名誉毀損になったり営業妨害になったりする、そして訴えられるという、そういった現象が起こりかねない人間関係が、今発生しているのです。

一昔前ならば、良いじゃないそれぐらいのことなんか、といって聞き流していたことも、今の世知辛い時代では、それが余りにも卑劣な行為として受け取られることが、とても多いのです。
例えば、「あの人がこの人のことをこんな風に言っていた」とか、「そう、誰々さんもまたこんな風に言っていたから、私達も注意しようね」といったような会話がありますが、この中で一つ分かることは、その本人はその人と会っていないという事実、また会っていたとしても、自分が直接受けた被害でない話をしているに過ぎないのです。
それを聞いた人も、「え、本当?」と言って、それを鵜呑みにし、確認作業を怠ることが非常に多いのです。
結果、噂話が一人歩きし、当事者を傷つけ、逆に訴えられてしまうことすら起こりかねないのです。
ちょっとそこで立ち止まり、確認してから他の人に話すべきではないでしょうか?
今の日本社会の中で、こんなことをし、楽しんでいる人達も、沢山いるのです。

また、自分が正道から外れてしまった時、自分を正当化させる為に、多くの人に連絡を取り、言い訳話と悪口を言い続ける人がよく居ます。
ひどい場合は、その人の所まで出かけていき、わざわざ自分を正当化するでっち上げ話をする人さえいるのです。
必ず、自分が道を外れると、それがもし間違っていたならば、言い訳を言ったり、多くの人から賛同を得たりする必要が生まれてくるのです。
これ程、惨めなことはありません。
そんなことにも気が付かず、あちこち連絡を取り、自分を滅亡への方向へと導いてしまうのです。
賛同を得ることは、正しいことをしているならば、全く必要のない行為なのです。
ただしこの場合に限りますが、この本当に世知辛い時代になり、面白おかしな噂話をそのまま信じ、人に伝えたとしたならば、それはれっきとした、犯罪となるのです。
自分では全く気付かない内に、こういった罪を犯している人が、どれ程、多いでしょうか。
大変残念なことですが、そういった人達が余りにも多いのです。
自分が直接被害を受けたならば、それは当然のことであったとしても、そうでない話の中に人を陥れていくのは、逆に自分に返ってくる、とても危険な行為でもあるのです。
そういったことをする人達は、必ず自分がいつか、そうされる立場になってしまうのです。
人から聞いた話を、それが良い話ならともかく、人を傷つけてしまうような出来事であるならば、それを次の人に伝えない方が、自分の為でもあるのです。
そういった仲間の連鎖は、確実に自分に降りかかってくる現実となるでしょう。
確認出来ない噂話に振り回されることなく、自分の耳で、そして自分の目で、確かめてみてはいかがでしょうか?

ある時こんなこともありました。
「散々あなたの悪口を聞いてきたけど、会ってみたら、やだ良い人なんじゃない」
こんなことを聞いたことをありますが、確かにそういうことが多いと思われます。
自分が受けた直接の行為でなければ、それを鵜呑みにすることは、自分を駄目にしてしまうことになりかねないので、注意したいものです。

――今人類は危機的な時を迎えている。
そんな恐怖を感じる今日この頃ですが、何故こんな風に人類は、愚かな旅を続けているのでしょうか?
人間達の欲望は限界を超え、地位や名誉や、そして大いなる欲の世界で、今危機的な時を迎えていることでしょう。
原子力のエネルギーは、豊かさと恐怖を同時に与えてくれました。
医薬品や医学も、老人が長生き出来たり、子ども達の死亡率を極限にまで減らしたりすることになりましたが、一つ失ったものがあるとするならば、人を思いやる豊かな心かもしれません。
自分さえ良ければのその世界で、人間達はその欲望の中で、未来のことなど考えないで進んできました。
そして、ヨーロッパの大暴動や、やがてこれはアジアやアメリカ大陸にまで広がることでしょう。
そしてアフリカの危機が、全世界の恐怖へと導かれることも、そんなに遠くない出来事といえるでしょう。
その後、人類は穏やかさを取り戻すことになると思いますが、その未来の地球では、わずかな人しか生き残っていません。
生き残る側へのチャンスは、どの様にしたら得られるのでしょうか?
生かされる人、生かされない人、その草分けは、どこにあるのでしょうか?

神はいいました。
『気付かない人を気付かせることは出来ません。
 分からない人を分からせることも出来ません 。人の心を変えるなんて、そんな大それたことは、考えなくていいんですよ。
 人が人を変えるなんて、余りにも不可能な出来事ですよ』と。
自己満足を得る為に存在し、自己警護能力が勝ることにより、穏やかなふりをしたり、分かったふりをしたり、理解し未来へ進もうというふりをしているだけなのです。
あくまでそれはふりであり、真実の世界ではありません。
 分かったふりをし、そこにいるだけです。
話を聞いて、本を読んで、納得したかのように見えても、自己に戻った瞬間、その思いは消え去り、日常生活の中で、自分を守る為、そして自分を高める為、分かったふりをするに違いありません。
いくら神が警鐘を鳴らそうが、人類は中々気付くことはありません。
欲望を満たす為に、どこまでもずるい精神の中で、騙し合いが続いているのです。
この騙し合いの中からは、真実の扉は開かれることはありません。
繕いや装いの中で、人類は何をやっているのでしょうか。
そんなことをしても何の意味もないことに、早く気付くべきではないでしょうか。

今ここで、どういった人が生き残れるのか、その人を選ぶことは出来ません。
しかし、草分けは始まっています。
生き残れる人達は、生き残る価値と、その意味を理解していることでしょう。
生き残る人を選ぶことは出来ません。
自ら選ばれる方向へと進むしかないのです。
どうしたら選ばれるのかではなく、私を選んで下さいという、そういった自分への導きが、最も大切なことと言えるでしょう。
自分の役割を、自分の為ではなく、人類や地球や全ての生命を平等と考え、そこにどう生きるかが、大いなる問題となることでしょう。
決して甘えないで下さい。
自分の為に生きたならば、確実に自己滅亡の方向へと進むことは間違いありません。
自分以外の命を生かす方向へと、自分の意識を向けたならば、彼らの力により、逆に自分は生かされることとなるのです。
間違えないで下さい。
私達は常に生かされているのです。
その理解がない限り、選ばれることはないでしょう。
 沢山の命を食べて生きてきた以上、その沢山の命に、どう感謝し、その命が永遠に続くことを願い、導かなければならないのです。

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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