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私達は日常生活の中で、例えば、髪形や服装を選ぶときも、自分以外の意識にどう反応するか、そのことによって自分はどう変われるかなど、自分以外の意識に対して非常に大きく左右されている現実が存在しています。
俗に言う世間体です。
本当の気持ちを隠し、繕いで言葉を作ったり、お世辞を言ったり、本来必要でない事柄が余りにも多く存在しているのが、自分と相対する相手側の意識なのです。
生きる上で仕方ないことかもしれませんけれども、自由に発想し、人から何か言われても気にもせず、自分の好きな格好で生きていけたならば、本来ならそれが当たり前のことなのですが、こういったらあの人はどう思うだろうとか、こそこそ隠れるようにお付き合いをするとか、お茶を飲むとか、誰かにばれないように内緒の話をするとか、挙げたらきりがありませんが、そこから生まれるものは何もないのです。
逆にそこへのこだわりが、自分の心を萎縮させてしまったり、正直になれなかったり、世間体を気にする余り、自分が小さくなってしまうことがあるのです。
このようなことから逃れなければ、未来の地球で生きることは出来ません。
繕いや世間体は、何も有効性をもたらしてくれません。
自分が好きなように生きることの方が、よほど生命にとって純粋であり、当たり前の行為なのですが、ただ一つ、人に迷惑をかけなければ、それでいいのではないでしょうか。
格好つけたり、大ボラを吹いたり、人目を気にして町を自由に歩けなかったり、あの人からどう思われているのかとか、そんなことばかり考えていると、自分を駄目にしてしまいます。
未来の地球では、それぞれが自由で、自分の考えで、好きな花を見たらきれいだねと素直に思い、その花を他の人がどう思うかなんて、関係ないことなのです。
自由に野山を駆け巡り、自由発想のもとで自分の服装を決め、それが自分にふさわしいかどうかという、他人の判断に委ねることはないのです。
本当の自由は、そんなところから生まれるはずなのに、自由を要求する現実の中で、余りにも多くの人が世間体に囚われ、人目を気にし、生きていることが、現代社会において一番悲しい出来事といえるでしょう。
今から未来に向かう為に一番大切なことは、自分の心の自由です。
もちろんそこには、人を好きになったり、大切なものを大事に思ったり、音楽でも絵でも、自分の心が繁栄し、豊かになれば、それだけでいいのではないでしょうか。
今からでも遅くないのです。
世間体に囚われず、心に自由を与えて下さい。
思いに制限しないで下さい。
本人が思うほど、世間はあなたを気にしていません。
そんなに見られてはいないのですよ。
みんな生きることで精一杯で、あなたの行動やあなたの服装に、興味などさほどないという現実が存在するのです。
なら、やっぱり、自由であることの重要性を認識した方が得ではないでしょうか。
本当に、世間体は人を駄目にすることはあっても、救ってくれることはないのです。
その部分においては、気にせず自由に、生きていけたらと思います。
欲をかくことが人を駄目にするとか、欲はかかない方がいいとか、色んな事が言われていますが、その欲にも色々なものがありますよね。
かいていい欲だって、沢山あるはずなのです。
かいていけない欲の中には、地位欲とか、名誉欲とか、金銭欲とか、支配欲とかがあると言われていますが、これらを総称して、相手があって存在する欲を比較欲と呼んだ方が分かりやすいのではないでしょうか?
隣の芝生が青いという諺(ことわざ)があるように、人の持っているものの方が立派に見えることがあるのです。
そしてそれを欲しがるのです。
あくまで自分と比較して、現れてくる現象です。
そしてその比較欲が進んでくると、独占欲に変わり、自分だけのものにしたくなるのです。
そして独占欲がより強くなると、地位欲や名誉欲、支配欲と言った形にどんどんそれが膨らみ、自分以外の人達を巻き込みながら、自分の立場を確立していくのです。
この世の中で起こっている比較欲の中には、テストでいい点数をとるとか、これも比較がないと見えない世界なのです。
また運動会で一等賞になるとか、これも比較があって始まる、欲の原点なのです。
スポーツや、科学的な技術であったとしても、対象となる存在があって、それよりも上を目指す思いが欲となって、そこに気付かぬ内に、私達の体に染み付いていくのです。
ここにまた、かいていい欲の中に、対象者を存在させない個人欲があるのです。
自分の中の意識を高め、人を巻き込まない、そんな個人欲は、決して悪いことではないのです。
あくまで、比較欲の全てが悪いと言っているわけではないのです。
自分を高めようとする意志や思いは、比較対象物があったとしても、それは個人欲として反映することが出来ることの方が多いこともあります。
そして個人欲の中に自己を置き、比較しない条件の中で伸びていくことは、とても素晴らしいことのように思います。
ある種突拍子もない考えの中で、その考えを推し進め、努力し、色々なものが作られます。
コツコツと、丁寧に、一つのものを育てながら、新しい発見をしていく、それが個人欲の中で上手く育まれ、世の中の為になることもあるのです。
今まで大いなる発明は、個人欲の中から生まれ、社会に上手く反映してきました。
しかしながら、心の持ちようで、それは社会欲の中に潜んでしまうこともあるのです。
何がよくて悪いのか、そんな中で一つの定義として、こんな風に考えてみたら、自分がこれから生きようとする道が見えてくることでしょう。
個人の努力は、必要なのです。
思いを貫くことも、そしてそれを社会に反映させることも、欲の言葉で言い表せたとしても、決して悪いことではないのです。
上下関係の格差を求めることが、自分の中で生まれた時には、比較欲の最も悪い方向へと進むことでしょうが、己の中の上を目指すことは、他人を巻き込まない個人欲の一番素晴らしい出来事となるでしょう。
そして、未来の地球で、それが上手く反映されたならば、平等な豊かな環境が、そこから生まれることでしょう。
夜寝る前に『明日になったらああしてこうして…』そんな風に、沢山の予定を立てることがあります。
未知的な明日に対して、そこには現実性が伴わない為、色んな予定がスムーズに立てられるのです。
これから自分に向かってくる時間は、安らかな眠りの中にあるのです。
明日という時間は、その後訪れる時間の、観念の中に存在しています。
目の前に明日は存在していないのです。
でも私達は、時間はずーっと繋がっていると考えています。
だから、今計画を立てれば、目覚めた後の新しい1日の中で、それは実行されると考えます。
しかしながら、朝目を覚ますと、夕べ立てた計画がことごとく崩れ落ちてきます。
未来の予測の中で、自分の意識がそのまま平行移動し朝に至るという考え方が、実は間違っているのです。
その為、朝になると考えが変わり、ましてや晴れと予測したのに雨だったならば、計画の立て直しが必要となることでしょう。
そして夕べ立てた計画に対して、言い訳や反論を繰り返す自分がそこに存在するのです。
何の為にこんなことが起こるのでしょうか。
寝ている間に、沢山の夢を見たとしましょう。
でも朝になったら、何の夢を見たのかわからなくなってしまうこともよくあります。
どうしてこのようなことが起こるのか、それは私達人間の中に、時間的観念がアナログ回線のようなシステムであるという、勘違いが存在するからなのです。
全ての時間は、デジタル的に一つ一つが分かれています。
流しそうめんのように繋がっていたならば、誰かがそうめんに手をかけた時位に全てのそうめんに影響を及ぼしてしまいますが、坂道を沢山の大豆が転がっている時に一つの大豆が小石にはじかれても、他の大豆にはさほど影響しません。
時間もそのように、大豆が流れていくように考えると、非常に分かりやすいと思います。
だからこそ、繋がっていない時間の中に繋がりを求めるから、方向性が変わったり、計画の立て直しが必要となったりするのです。
あくまで時間はデジタルであり、繋がっていないのです。
このことをもう少し大きく考えると、昨日と今日は別の時間、別の一日なのです。
昨日の延長線上の中に、今日は存在しないのです。
今日の未来に、時間的な明日があるわけではないのです。
字を見ても分かるように、今日という字も明日という字も、昨日の続きとは書いてありません。
しかしながら、過去に向かう時間は、昨日と一昨日(おととい)は、そして一昨昨日(さきおととい)は繋がっているのです。
何故ならば、過去の記憶は保存され、繋がりがあるからです。
漢字とは、ものすごくよく出来ていると思いませんか?
私達は、その過去の結果を未来に導こうとした時、そして未来を変えようとした時、時間がデジタルであり、繋がっていないことが認識できたならば、全く新しい明日を築くことが出来るのです。
だからこそ、明日という字は明るい日と書くのです。
未来は、何も決まっていないのです。
時間がデジタルという認識になった途端、必然的理論は打ち消され、偶然的な理論に置き換えられることでしょう。
全てがそうなる訳ではありません。
観念的な繋がりが、そして心という思いが、望みという思いが、時間と時間の間を埋めることも出来るのです。
しかしながら、それも容易く切ることが出来ます。
人と人との別れや、考え方の相違により、同じ時間を共有しなくなることはいくらでもあることなのです。
忘れることが出来るのも、穏やかでいられることも、デジタル的な時間の中に、意識が委ねられているからなのです。
この地球が出来て、45億年の歳月が経ったとされています。
最初の地球には、水は存在していませんでした。
やがて隕石やその他の複合的な化学反応により、このような豊かな水に覆われた地球となってきました。
これは偶然ではなく、緻密に計算され、法則的にこの地球に繰り広げられた出来事なのです。
この地球に大宇宙を管理するスペースコアを収納させ、大宇宙の法則に則り、この豊かな地球は作られてきました。
水の出現により、命が育まれ、そのプログラムの中に逆に命が存在します。
これ程、緻密に計算されたプログラムは、デルファトラの最高の科学の集大成なのです。
しかし、この地球も幾度となく危機的な状況を迎えることになり、やがてこの地球の水も劣化していくことになります。
しかしながら水の役割は大きく、この地球に起こった全ての情報を記憶するメモリーディスクとしての役割は果たしてきましたが、最後第5次文明の人間達による、メモリー能力を超えた情報に、そのプログラムは誤作動を起こしかねない程、危機的になってきました。
分かりやすくいうと、今私達の犯した物質的な汚染と情報的な汚染のことであります。
特に水においては情報的な汚染が著しく、地球最後の水といわれる海洋深層水にまでも情報汚染は広がってしまったのです。
雨が降り、農薬を撒き、化学物質の乱用により水に書き込まれた情報は、もうコントロール不能なぐらいの汚染の窮地に立たされています。
このような水の中では、生命体もそのものが持つ能力を発揮出来ず、劣化の一途をたどり、もう豊かだった地球はどこにもありません。
しかしながら、私達の目の前にある水は、地球の過去の歴史を記憶しています。
そこに新たに、穢れを持たずに地球の情報を、そして生命にとって都合のいい情報を記憶し続けた物質が存在します。
いわゆるロッククリスタルといわれる、結晶構造を持つ水晶のことです。
上手く双方の情報をリンクさせることにより、本来ある水の姿に戻すことは可能なのですが、その方法論の中でその前にしなければならないことがあります。
それが水における、そして水の情報における、不必要なものを打ち消す為のゼロバランスフォーマットという、デルファトラ最高の科学を使い、いわれる行為なのです。
そして新しく生命にとって都合のいい情報を書き込むことにより、またそれを情報的に・物質的に安定させる為に、ゼロバランスに誘導するエネルギーを持たせなければなりません。
そして、そこから生まれたものが、ゼロバランスフォーマットウォーターなのです。
この地球を、そして未来を、構築できる水となることでしょう。
水は全ての情報を共有し合い、この地球に存在している中で、ゼロバランスフォーマットウォーターという法則とエネルギーを持った水でないと、他の水を媒体とし、誘導することは出来ません。
より多くの人が、この水を使い、地球の全ての水が蘇らんことを願っています。
小さな女の子が、来年小学校に上がります。
あちこちで運動会が開かれていて、彼女がそこに参加してきました。
そう、旗拾いをしてきたのです。
ほとんどの小学校では、来年の新入生を運動会に招き、旗拾いをさせます。
その時、彼女達は、1等でも2等でも3等でも、旗が拾えた、というその満足感の中で、喜びをかみ締めていることでしょう。
何故ならば、旗の大きさがみな同じだからです。
もしこれが、1等賞が大好きなピンク色の旗、2等賞は大きなグリーンの旗、そんな風に分けられ、ビリの人がもし何も貰えなかったら、きっと泣きながら、お母さんの所へと飛んでいくでしょう。
その涙は、悔しさと情けなさが入り乱れ、きっと強くなろうと決意することでしょう。
私達が生まれてから、もうすでに競争が始まり、競い合い、やがて争い合い、そして戦いとなるでしょう。
競うことと、争うことが、いつの間にか同じような感覚に陥り、負けたくないという思いから自分を強くすればいいのに、人を蹴落として上に上がろうとする人が出てきます。
反則して勝っても、本来ならば何の意味もないのです。
しかし、現代社会は、争いの中に優位性と誇りが存在する以上、どんなことをしてでも勝たなければいけないという思いが強くなります。
学力も、社会生活も、争いながら私達は生きてきました。
よりいい大学に入り、より有名な会社に入り、それは単純に、豊かな生活をする為の法則で、また優越感に浸る為の出来事に過ぎないのです。
この日本で生きる限り、常に争いながら、私達は生きています。
この中に、調和や温もり、優しさや穏やかさが存在するには、あまり好ましい状態とは言えないでしょう。
ある偉いお坊さんが言いました。
「人は何故争うのですか?」
偉くなったお坊さんには、それが解らなかったのです。
下の方で、右往左往しながら苦しんでいる人達が、見えなかったのかもしれません。
いや、そんなことはないでしょう。
彼は、全てを知っていたのです。
この社会は、争わなければ、競わなければ、戦わなければ生きていけないことを。
現在の社会生活や環境、全てを変えることが出来たならば、変わることが出来るかもしれません。
いつになったら、穏やかな心は取り戻せるのでしょうか?
スポーツ観戦をしても、負けた時は、がっかりします。
やはり、満足を得る為には、勝ち続けなければいけないのでしょうか?
こんな社会に、何故なってしまったのでしょうか?
「争う」「競う」「戦う」
私達の遺伝子に、組み込まれた、最悪であり、最善のプログラムなのかもしれません。
毛虫が沢山ついた胡桃(くるみ)の木を見ました。
毛虫は争いながら、我先にと胡桃の葉を食べていました。
胡桃の木は何も出来ず、ただただその姿を見ていたことでしょう。
しかし、やがて毛虫は蛾となり、胡桃の木から旅立ちました。
胡桃は知っていたのです。
やがて、毛虫は蛾になることを。
その後、胡桃の木は葉を5枚出し、その5枚の葉は冬になっても紅葉することなく、茶色く染まっていきました。
春にまた、その胡桃の木は、何事もなかったかのように緑の葉を沢山つけました。
人間も、このように生きられたならいいのに。
そんな穏やかさも、時には必要な日もありますよね。