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「そんな気休めを言わないで下さい」
答えがそう返ってきたとしても、言っている本人はそういうつもりではない場合が多いのです。
お世辞とか、繕いとか、例えばリップサービスとか、色々な形で私達は日常生活を営んでいます。
もし真実ばかり、そして思ったことをそのまま伝えていたならば、社会生活はどうなることでしょうか?
誰もが皆、自分のことを悪く言われたくないし、それなのに影では人のことを悪く言い、そして本人と会うと、作り言葉でその場を繕います。
人間社会そのものが、騙し合いと嘘で塗り固められた、真実の見えないところで、多くの人が生きているのです。
本当に気の休まることがないのが現実です。

そんな中で、気休めという言葉を、悪い方に考えずにもっといい方向に考えましょう。
この世の中は、気の休まらないことばかりなのです。
肉体の疲れは、眠ることにより、ある程度改善されます。
悲しみや苦しみや不安は、逆に肉体の安らぎを妨害してきます。
気が休まらないと身体も休まることがないように、お互い相乗効果の中で、肉体も心も生き続けているのです。
気を休める方向に自分を導き、そして人にもそのような優しさを感じさせてあげることが出来るならば、それは決して悪いことではありません。
気が休まることが、生きる為の条件の中で、最も大切な出来事なのです。
しかし、そこに打算的な考え方で、それを行おうとしたのでは、つけを未来に回すだけのことになってしまいます。
今解決出来ることに、それがどんなに苦難の道であったとしても、立ち向かう勇気が必要となるのです。
そして、お世辞でもいいから、他人からの一言が気休めになったならば、それはそれで素直に受け取るべきではないでしょうか。
繕いの中で生きている私達が、真実をありのままに伝えたならば、社会生活は確実に壊れます。
人はそれぞれ、自由な思いの中で、自分を表現しています。
その表現方法に、自分と沿わない点があったとしても、人々はそこを隠し、お互いを褒め合い、これは慰めではない思いの中で、繕いが営まれているのです。
情けないようにも思われますが、これが社会生活の中で、大切な行為の一つなのです。
人はたった一つの言葉で傷つき、またたった一つの言葉で安らぎを感じることもあります。
気の休まらない人生が、自分の脳を破壊し、社会から離れようとします。
これが現実逃避、そして、自己の滅亡なのです。
大切なことは、どんな方法を取ろうが、自分の中における気をどう休めてあげるのか、これが大きな課題となるでしょう。
気休め、それは、絶対必要な条件であり、生きる為に大切な法則なのです。
気を休めることが出来たならば、身体も元気を取り戻し、心は豊かになるでしょう。

意識や思いや、観念や心が、何によって管理されているか、もう分かっていただけたと思いますが、私達人間の気の力により、そこは管理されているのです。
かといって、気力という言葉だけで解決出来るような簡単なものではありません。
この気とは、どこから生まれ、何の為に存在しているのか、そして何を意味するのか、気の世界のエネルギー体がどのような形で作られ、そしてどのような方向へ進むのか、その行方により、全く違う意識が生まれてくるのです。
肉体と気、これが全てのエネルギーの根源なのです。
私達人間は、肉体や意識や心は、見えている部分は肉体のエネルギーに依存し、見えない部分は気のエネルギーに依存しているのです。
そしてその気のエネルギーは、物質をも動かす、計り知れない程の力を持っているのです。
だからこそ、この疲れの正体の中で、気の存在は大きいのです。
寝なくても、食べなくても、たった一言で、その疲れ果てた気を癒すことが出来るのです。
気が休まる、それは時間を超えた世界に存在し、一瞬の解決が可能な、極めて重要な部分であります。
その気をもう一度理解しながら、いかに休めるかが大切となるでしょう。

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自分を変えたいと思った時、そして、考え方や生き方や、日常生活の上で、どの様に変えていくのか、そして、前に述べたように、自己否定が出来れば良いのですが、なかなか自分を変えることは出来ません。
そんな中で、一番障害となるのが、性格と癖ではないでしょうか?
いくら変えようと努力して、言葉遣いや文字質を換えたとしても、簡単に言うと、右手に持った鉛筆を左手に持ち替えたとしても、性格の一部は改善されたとしても、ふとしたところで出てしまう癖については、直すことは難しく思われます。

性格と癖について、もう少し深く考えてみると、性格とは、肉体と心が同居しながら、生きる方向性の中で、自分にとって都合の良い方向へと導かれていきます。
都合の悪いことに対しては、そこを乗り越える努力が必要となりますが、誰もが楽な道を進もうとする、そんな中に性格と心が上手く絡み合いながら、日常生活を営んでいるのです。
そして性格の中には、もう一つ大きな力を持つ、好みがあります。
服装や髪型、食べ物や飲み物、生きる為の空間全てにおいて、好みが反映されてきます。
そこに、性格と好みとの共演により、その人物の表現が確立されてくるのです。
しかしながら、性格・好みも全く関係のないところで、癖が出てきてしまいます。
この癖については、長い歳月の中で育まれた、その人独特の表現方法や感情であり、その癖を改善することは、性格や好みを変えることと違い、本能的な観点の中で作られた発言と行動だからこそ、ここに大きな問題が生じてくるのです。
性格は直せても、本質的な癖は、なかなか直すことが出来ないのです。
長い髪の毛を短くしたとしても、地味な服装を派手に変えたとしても、性格は改善されても、癖はなかなか改善することは出来ません。
自分を変えたいと思う中で、一番障害となるのは、癖ということになってしまいます。

この癖を、どう改善したら良いのか、この本能的な法則をどの様に変えていくのか、この具体性がいかに難しいか、誰もがそれを感じる日があると思います。
しかし、この癖も、変えられないわけではありません。
性格のように、意識により、ある程度の改善はされても、その性格もやがて正しいのか悪いのかは別の問題となってきます。
変えることが全て正しいというわけではないのです。
悪い性格とは何なのか、自己否定の中でしか、それを認識することは出来ません。
失敗してしまう出来事が、性格から表れるのか、また癖から表れるのかは、判断が難しいのです。
もう一度、癖について考えてみると、癖を変えていく為には、一番良い方法は、新しい癖を古い癖の上に乗せていく方法があります。
何か新しいものに興味を持ち、そこに意識を集中することにより、新しい癖が生まれてくるのです。
いかに新しい発見をするかが、自分の性格や、自分の癖を直す、いやこれは直すのではなく、新しい方向へと導く為の、新たな法則なのです。
いかに、ものを見て、自分を知り、癖と性格を上手く利用しながら、そこから生まれる真実の人間性に、人の評価の中で生き続けることが、喜びと恐怖を同時に理解出来る、極めて有意義な人生となることでしょう。

水とは一体、なんでしょうか?
物理学の中では、たかだか酸素と水素の化合物に過ぎません。
しかしながら、この酸素と水素が、私達生命体にとって水という形で大きく関わっていることは間違いないのです。
植物は、水だけで何ヶ月も生き抜いたり、また逆に水の中に根を出し新芽を形成したりする程の、その限られた範囲の中で目まぐるしく成長するものさえ沢山あります。
水がある、水がないで、全く違う世界が繰り広げられているのです。
一体水とは何なのでしょうか?
私達の脳の中には、沢山の水があります。
もちろん、植物達は、90%以上水に依存し、生きているとも言われています。
水を蓄えたり、水を分解したり、炭水化物をそこから作り出したり、水から考えられるあらゆる方向性の中で、最もそれを自由に、そして都合よく使っているのが、植物達ではないでしょうか。
その植物達から、沢山の水の科学を学ぶことが出来ます。
例えば、鮮度という問題を一つ考えてみても、夜太陽の光の当たらないところで、それは育まれます。
その輝かしいエネルギーは、どこから生まれるものなのでしょうか?
また夏の日、入道雲が発生し、わずか5分足らずの間に大粒の雨や雹が降り出し、大きな音を立て雷が発生してきます。
この、何千ボルトともいうエネルギーが、あの入道雲、要するに水から生まれていることは間違いないのです。
その発電能力は、人間達が作り出す科学では及ぶものではありません。

そんなことを考えながら、水をテーマにいろんな法則を見つけようとしたならば、私達はまだ、入り口にも立っていないことに気付かされます。
ましてや、私達の脳における水の情報と管理は、どのように司られているのか、そして生命誕生の一番の神秘性の中に羊水が存在し、その羊水と2000年以上もかけ地球を一周するといわれている海洋深層水との関わり、もちろんそこには、生命誕生という、極めて突拍子もない出来事の中で、もっと言うならば、偶然としか言い表しようのない程の不可思議性の中から、生命が誕生し、あのお母さんのお腹の中で、しかも水の中で、命が育つこと自体、これ程の神秘は人間の科学では及ぶことはないでしょう。
そういった面から、自然界における水への理解が、そして生命との関わりが、密接かつ現実を遥かにかけ離れた『科学』、それは、ナチュラルともケミカルとも区別することなど私達には出来ません。

自然界は、水における情報と科学が密接に絡み合い、私達の理解を超える程の脅威の中で、繰り広げられてきた出来事なのです。
だからこそ、安易に水を語ってはいけません。
また、安易に水を触ってもいけないのです。
水における人間の科学による侵害行為は、生命維持プログラムを破壊の道へと導くことでしょう。
だからこそ今、自然の摂理に則り、人間が科学のおごりを捨て、現実の中で水を扱わなければ、逆に未来において、驚異的な現象をもたらすことになりかねないのです。
人間の科学で、これ以上水を傷つけると、水はアレルギー反応を起こし、この地球から消えてしまうことすらあるのです。
火星のようになってからでは遅いのです。
水の本質を何も知らない人間達が、むやみやたらな興味の中で水を考えることは、決して好ましいことではないのです。
自然環境の中で存在する水だからこそ、その能力には計り知れないものがあるのです。
私達は、今一度このことを謙虚に受け止め、未来に対し、育んでいかなければならないのです。

いつの世も、危機的な環境の中、運命の法則のようなものの中に、必ず誰かがこの世の中を救ってくれると、そんな思いが逆に人を駄目にしたり、勝手なことをやったり、不可思議な未来への期待感が、現実を見失い、意識的にも物質的にも破壊の方向へと進んでしまいます。
かつて、この世界観の中で、もちろんこの日本の中でも、救世主が現れた、という現実は存在していません。
前に述べたように、ノアの箱舟も、たった一対ずつの命しか救えなかったわけですから、救世主ということは出来ないでしょう。
キリストが救世主だという話もありますが、確かに2000年前は、厳しい環境の中で多くの人を救えたのかもしれません。
しかしながら、具体性はどこにもなく、環境における意識の改善がほとんどのように思われます。
今危機的な時を迎え、心や意識は何らかの形で正しい方向を向くことは可能なのかもしれませんが、破壊された自然環境は、例え救世主の力を持ったとしても、それは叶えられるものではありません。
そして、人間だけが生きられたとしても、自然や植物が破壊の一途を辿ったならば、やがて食べ物がなくなり、人間達も飢え死にすることでしょう。
一言で救世主、とても安心出来る、そんな瞬間かもしれませんが、そんな人は現れることはないのです。
そういった甘えが、この地球を壊していったのです。

逆に、もし救世主が現れたならば、彼は何をするでしょう?
そんなことを考えてみたら、一つの結論が出てきます。
多分人間を、要らないと判断するでしょう。
地球に住む、全ての命の観点から物事を捉えたならば、その答えは極めて正しいといえるでしょう。
救世主を求め、私達はその甘えの中から、自分達が救われると信じているかもしれませんが、もし現れたならば、真っ先に処罰されるのが人間だという現実を思い知ることでしょう。
私達人間が、もし生き続けることが出来るとするならば、この世を救ってくれる救世主ではなく、自分達自ら意識を変え、周りをよく見、自然とは何かを深く考え、目の前の現実の中で今、何をするかが、最も大切なこととなるでしょう。
未来は全て、今から始まるのです。
そして今の積み重ねが、過去となるのです。
過去の地球が、輝きの実績を残す為には、今目の前にある現実を、どう対処するかにかかっています。
私達は今すぐ準備しなければいけません。
そして、実行しなければなりません。
自分の生き方をどうしようか、考えている暇などないのです。
自分の役割は何なのか、そしてそれは自然環境にどう貢献出来るのか、目の前に起こる、どんな些細なことであっても、その積み重ねは大きな変化をもたらしてしまいます。
全てを正しい方向、私達がこの地球で生きる権利を失わない方向に、物事を捉えていかなければなりません。
この地球で生きる以上、これが私達の最低のルールと責任なのです。
誰もが自由で、穏やかな生活がしたかったならば、自然と共にその自然がいつまでも続くように願いながら、現実として実行しなければなりません。
早く気付いて下さい。
救世主がこの私達の住む命や環境を救ってくれるのではありません。
今こそ私達全員が、救世主的な意識を持ち、全ての命を救わなければいけないはずなのです。

私達人類は、まだ遺伝子に対する理解が全くといっていいほど出来ていません。
その遺伝子の中にある設計図だけは、読み取ることに一部成功しているかのように見えていますが、その設計図が勝手に動き出すプログラムについては、理解は出来ていないのです。
もっと分かりやすくいうと、例えば、車を作る図面があったとしましょう。
その図面をテーブルの上においたとして、車が出来上がってくることはありません。
 なぜならば、部品や操作、組み立て、人間やロボットといった、工程が必要になるからです。
しかしながら遺伝子は、勝手に物質を組み立て、そして勝手に増殖し、勝手に物を作り出し、自分達の意図する方向へ、最も都合の良い状態へと、図面そのものが人間やロボットの代わりになり組み立てていく工程は、ある面恐怖を覚えます。

もしこの遺伝子が暴走し、彼らの意図する方向に彼らが進んでいったならば、どんなことも可能になるでしょう。
今遺伝子操作が行われているように、遺伝子は死なない物質であり、死なない図面であり、常に意識を持ち、遺伝子だけの行動で物を作り出す、最も身勝手な、そして自由な存在といえるでしょう。
私達の想像する世界では、図面が勝手に物を作るということはあり得ない現象です。
しかしながら現実の世界では、彼ら遺伝子により、全ての生命は管理され、そして作り上げられていったのです。
進化の過程においても、彼らが勝手に判断し、環境における適合の中で、増殖を繰り返し、自然、そして生命、その全ての製作者となっています。
ここから学べることは、観念的に捉えている世界はまだほんの一部に過ぎず、私達人類が理解出来ない出来事の方が遥かに多い、ということなのです。
あのミトコンドリアでさえも、遺伝子に管理されていることは間違いないのです。
したがって、彼らの意図する方向とは何か、また彼らの目的は何か、そのことを深く理解しないと、私達人間の在り方が、今のような現実の中で、存在することが危ぶまれる結果となり兼ねません。

遺伝子における意識の世界は、そして経験と記憶は、人間の想像する範囲では理解することが出来ません。
この科学は、デルファトラの科学の中でもトップシークレットとされ、神々達の意図する方向に導かれることを常に望み、この大宇宙はデルファトラの意識により管理されることになってきましたが、彼らとの意思疎通が現実に極めて厳しい状況下に陥っています。
また人間達が作った機械的な音、その周波数の妨害により、管理が難しくなっていることも事実です。
このままでは、遺伝子の意図する方向とは異なり、その頂点に立つ私達人類が遺伝子との情報共有が出来なくなり、その遺伝子が暴走を始めたならば、人間としての存在が難しくなる可能性もあるのです。
今、訳の分からない病気が増えていますが、その病気を起こす原因の中にも、必ず遺伝子が関与しています。
私達における免疫細胞も、この肉体の管理が難しい局面に達しているのです。
彼ら遺伝子を理解しないと、この人類は確実に滅亡するでしょう。
遺伝子の持つ情報とエネルギーを唯一理解出来る、そして遺伝子が作り上げた最も、素晴らしい存在が人間なのです。
人間はある日、突然その能力を失い、人間そのものが暴走し、遺伝子との交流が出来なくなってしまったのです。
今もう一度、このことを理解しながら、デルファトラの科学の中で秘密とされた、この遺伝子との共存と方向性を改めながら、新しい人類が目覚める時を迎えています。
人類は、遺伝子が作り上げた、最高の生命体なのです。
早くそれを理解し、彼らと友好的に交わることを望んでいます。

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