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未来に向かって歩き出そうとした時に、その一番の障害となるものが、今日まで生きてきた過去にあります。
過去の積み重ねの中に今が在るように、今の自分は過去の結果の中で存在していることに気付きます。
そして未来に向かおうとした時に、過去に起こった出来事や、また過去の習慣の中から生まれた、癖や考え方に囚われて、新しい未来を築く事が出来なくなってしまいます。
未来に、そして新しい未来に進もうとしたならば、必ず過去に残してきたつけを、全て清算し、きれいにしなければいけません。

今私達の生き方は、一軒目の飲み屋さんでお金が足りなくなってつけをしてきて、そのお店に行きづらくなって、二件目の飲み屋さんに行く。
そこでもまたお金が足りなくなって、付けをしていく。
そしてまた、二軒目の飲み屋さんにも行きづらくなってしまう。
そんな状態に似ています。
これが飲み屋さんではなく、人間関係の中でも、同じようなことが、往々にしてよくあります。
お金を借りた人が、貸した人よりも立場が強く、返さない人の方がはるかに多いのです。
こんな社会が良い訳がないのです。
やはりどこかで、全ての過去を清算し、新しく旅立たなければ、明るい未来は拓かれないはずなのです。
現実を、そして物質的な現象ももちろんですが、私達には意識や心や思いや考え方があります。
今までの考え方が、未来の足を引っ張るような考え方であったならば、それもどこかで清算しなければならないのです。

明日から頑張るぞという時、一番初めに出る言葉が、「よし」です。
皆さんも「よし、頑張るぞ」という言葉をよく使っていますよね。
このよしという言葉は、意識における過去の清算なのです。
おばあちゃんが孫をおんぶして、お尻をたたきながら、「よしよしよし」と掛け声をかけてくれます。
そして常に「いい子だいい子だ」と言ってくれます。
そしておんぶしている孫は、安心して眠りにつくことでしょう。
こんな掛け声や、思いの中に、実は過去の清算という、大変素晴らしいプログラムが存在しているのです。
よしという言葉を漢字で書き表すと、良もまたよし、善もまたよし、吉もまたよし、これらは全て、よしと読むことが出来ます。
よしという読み方がつく漢字が、未来を作り出す架け橋のような文字になっていることに気付きます。
良・善・吉。
これらは未来を想像し、また新しい未来を築き上げる為の、大いなる意味を持つ言葉であり、全てをここに置き換え、過去を清算しなければ、何も変えることは出来ないのです。
過去に起こった、それが余りにも不幸な出来事であったとしても、決して無駄なはずがないのです。
それをよしとした時、初めて私達は、未来へと向かうことが出来るのです。

全ての過去に起こった出来事は、その人の未来の為に、役立つ方向へと導かなければ、何の意味もないのです。
後悔したり悩んだり、恨みを持ったり、そこから逃げたりしても、新しい未来を築くことは出来ないのです。
やはり過去の清算、そしてそれを全てよしとしたならば、過去に起こった出来事が全て、意味を持ってくることでしょう。
清算が出来なければ、新しい未来が拓かれることは、難しくなってしまいます。
いかに過去を清算するかが、今一番大切なこととなるでしょう。
しかも、意識における世界は、意識で清算することが出来るのです。
過去のつけを、未来に持っていかないようにして下さい。
未来は、新しく始まる、目の前の現実なのです。

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日本という国がいつ頃生まれ、そして私達日本人は、いつからこの島に住んでいるのでしょうか?
壮大なる大宇宙の中で太陽系が生まれ、2万もの太陽系家族の中で唯一生命が誕生する地球が、私達の住むこの世界となってきたことは、偶然の中で得られた唯一の真実であり、画期的な出来事と言えるでしょう。
その地球において、日本列島は世界の縮図ともいわれ、日本近郊において、植物や動物の種類も、世界一の数を持っています。
深い森やまた深い海も、高い山もそして草原も、誰かが設計し、見事に作り上げていったような、偶然とは言い切れない程の素晴らしい島なのです。
海が隆起してできた山、火山が噴火してできた山、プレートが沈み込んで出来た海溝、この豊かで豊富な動植物の中で、この地球全体から見たらほんの僅かな面積の中で、しかも隔離され、周りの影響を受けない形で、この日本列島は存在しているのです。

そこに住む私達は、日本語という独特の言葉を持っています。
象形文字から作られた漢字が、こんなにも日本語に適合するということは、漢字が日本で作られていなければ、そして日本語を中心として作られていなければ、不可能な出来事なのです。
そしてこの日本語、文法は全く存在しないといってもいいでしょう。
 なぜならば、象形文字に文法が存在する方が、よほど不可思議な行為だからです。
つまり、一つの文字が一つの意味を持ち、一つのものを形付けるからです。
私達の体の中で見ても、目も、手も、口も、肩も、足も、胃も腸も、秋や春、柿や梅も、栗でさえも、ほとんどのものが一文字で表され、言葉に書いた時も、何と簡略的な、しかも分かりやすい、こんなに優れた法則の中で、この日本語が生まれているのです。
そこに、行動的な意識を埋め込み、立体的にしたものが、倭言葉といえるのです。
この倭言葉は、現実に、そして物に、命を吹き込み、それが動くことにより、作られてきた象形行動文字と共に発達した、私達の言語なのです。
しかもそれは、宇宙の全てを意味し、生命の誕生から生活の営み全てを言い表すことが出来、しかも擬音的なものも、意識的なものも、観念的なものでさえ、言葉や文字に変えていっているのです。
これは第三次文明が残した、知的な現象の一つなのです。
私達はその記憶の中から、この言葉と文字を思い出し、現在に至っているのです。
これ程、厳密に仕組まれた、尚かつ、正確な意味を持つ法則が、私達の遺伝子には書き込まれているのです。
倭言葉の中に過去の全てが存在し、未来に向かう法則がその中には隠されているのです。

私達がこの日本語をもっと深く理解し、そして漢字そのものを本来ある姿に戻し、要するに、象形文字であるならば、その文字が作られる前の形である物が現れてきます。
物のない世界、光や音の中で、作り上げられた文字も、やがてその形を見つけることが出来ます。
この象形文字を、象形という形で、物の形に置き換えたならば、もっと分かりやすく、逆に多くの意味を理解することが出来るでしょう。
宇宙の謎も、地球の未来も、この文字を解読することにより、見えてくることでしょう。
日本人が日本人としての誇りを持つことにより、その意味が日本人だからこそ、理解出来るのです。
日本語を確実に漢字と組み合わせながら理解出来るのは、日本人だけしかいないのです。
外国の方が、どんなに上手に日本語を話せたとしても、日本語のもつ本当の意味を理解することは出来ないのです。
日本語に隠された、倭民族だけの意識が、これからの日本にとって、最も大切な出来事となるでしょう。
私達は全てを理解しているはずなのです。
今後起こる未来でも、私達の役割は非常に大きなものがあります。
それは、この象形文字が存在する以上、倭民族ならば、容易く理解出来ることなのでしょう。
例えば、人間の身体の中の全ての臓器に月という文字が使われるように、月と地球と人間の関係の中で、その感性は営まれていることを、倭民族ならば容易く理解出来るということなのです。

人はよく、運が良いとか、運が悪いとか、そんなことを口にすることがありますが、果たして運とは何なのでしょうか?
中々その定義付けは難しいことのように思われます。
運命という言葉もありますけれども、運命とは一体、どんなことを意味するのでしょうか?
偶然の積み重ねの中に、生きる生活のスタイルがあるとして、その中で起こる出来事が全て運命だとするならば、一体運命とは、何を意味し、どこに向かっていくことになるのでしょうか?
そんなことを考え出してしまったならば、本当に訳が分からなくなってしまいます。

人生という道を歩いていたとしましょう。
曲がりくねりながら、一歩ずつ前に進みます。
人生という未知の定義付けは一つ、それは、絶対に後ろには戻れないということなのです。
 分かりやすくいうと、昨日間違えたことがあったとした時、昨日に戻って間違いを正すことが出来ないということなのです。
逆に、明日に向かって、間違いを正す方向に歩くしかないのです。
そんな人生の道を突き進んでいくと、やがて二股に分かれている道が見えてきました。
どちらの道を進もうか、そして、どちらが正しいのか、色々な事を考えます。
分かれ道の際まで来た時、立ち止まって、どちらにしようか迷ったとするならば、それはただの時間の無駄に過ぎません。
 なぜなら、その時点でどちらの道が正しいか悪いかは、分からないからなのです。
そんな無駄な時間を過ごすより、その分かれ道に達する前に、どちらかの道を選ぶ必要があるのです。
そして人生は、そのどちらの道を選んでも、それが間違いになったり、それが正しかったり、それは本人自身が背負う運によって決まってくるのです。
右の道も左の道も、条件は等しく平等なのです。
選んだ道を正しいと信じ、そこに運を運び込むことにより、その道は拓かれます。
そして、また歩いていくと、やがてまたまた二つに分かれた道と出合います。
その時も、どちらの道を行くのか迷うことは、時間の無駄に過ぎないのです。
自分が行こうとする道を早めに決め、決めた道に後悔せず、前に進むべきなのです。

何かことが起こった時に、この道を選んだ自分を責めてはいけません。
 なぜならば、もう一つの道を選んだとしても、条件が同じならば、起こりうる現象は必ず起こることになっているからです。
人生の道は、目の前に広がる全ての出来事の中で、本人が選んだ、ただ一本の道だからこそ、そこに色々な現象が起こってくるのです。
右左どちらの道も、二股に分かれて見えるのは、ただの錯覚に過ぎないのです。
心の迷いがあると、その道は二本にも三本にも四本にも見えます。
自分の意志が強ければ、何も迷うことはないのです。
自分の選んだ道を一歩進みだす時に、「よし!」と掛け声をかけながら、自分の背中に運を背負うことなのです。
その背負われた運が、目の前に広がる道を、明るく照らすのも暗くするのも、全て本人次第なのです。
人生の道は、何本も存在するかのごとく現れてきますが、それはただの迷いに過ぎないのです。
どの道を選んでも、背負った運により、人生が決まってくるのです。
自分の信じる信念を持ち、突き進むことが大切であり、人生に誤りなどは最初から存在しないのです。
 全て、自分が選び、自分が進んだ道だからこそ、逆に自分の意識により、自由に道は拓かれるのです。
ただ背負った運の重さが、違っただけに過ぎないのです。
必ず未来は、自分の意識によって、拓かれるものなのです。

人間の心の動きの中に、独占欲と束縛と、同じような意味を持った意識が存在することが、誰にもあることでしょう。
例えば、大好きな異性が出来たとしましょう。
誰にも取られたくない、そんな思いから、独占欲という欲が生まれてきます。
そしてその独占欲から、今度、自分の言うことを聞かせて自分の思い通りにさせたいという、束縛が発生してくるのです。
独占欲は、その思いを持つ本人から発生する自己欲望であり、本来ならば相手に全く障害を与えることのない、とても素晴らしいことなのかもしれませんが、そこに束縛という、相手の立場を犠牲にする可能性の大きな出来事を持ち込んだならば、それは極めて、お互いの意思の尊重外で起こる現象となってしまうことでしょう。
人を好きになることはとても素晴らしいことなのですが、独占したいと思った時、そこにセットされたように、束縛が生まれてきます。
人間の心は、常に不安の中に存在しているのです。
人を好きになるということは、自由な世界で、それを止めることは出来ません。
そして、独占したいと思ったならば、どのようにしてその独占を勝ち取るかは、いくつもの方法論があるはずなのです。
しかしながら、その努力を惜しまず、束縛という方向に自分の意識を置いてしまったならば、やがてそれはお互いの苦痛となることは間違いないのです。

現実の世界では、やはりこれだけ多くの人が身近に生活を営む以上、いろんな出会いがそこにはあります。
不安を抱えながら生きられる程、人々は強くはないのです。
そのエゴ的な不安をどう解消すべきか、ということは大きな問題となり、その結果、束縛へと思いは募っていってしまうのです。
もっと自分が強ければ、そして自分に自信があれば、そんな不安が存在しないのかもしれません。
愛することは非常に容易く、自分の心の中で大いに発生し存在することでしょうが、そこから始まる受ける側の意識は、逆に不安の塊となることでしょう。
愛される為の定義は、非常に複雑に絡み合う人間関係の中では、余りにも多く存在し過ぎて、選ぶには難し過ぎるのかもしれません。
愛されたいと思う気持ちは、その欲を反映させ、良い方向に向かえば、何の問題もないのです。
独占欲により、束縛がもし発生するとするならば、それは本人に課せられた義務のように思われます。
それをエゴ的に相手に要求することは、本来ならばとても矛盾が発生しているはずなのですが、往々にして男女の中では、そんな関係の中で窮屈な日々を送ることになってしまうのです。
それを解決する唯一の方法は、豊かな心で接することしかないのです。
しかし、その豊かな心を持つ為には、またいくつもの問題が発生することでしょう。
要するに、寂しさの中から得られるものは人恋しさであり、人恋しさの中から生まれるものは愛であり、またそして情に絆されながら現実を作り上げていきます。

人を好きになることは大変素晴らしい行為といえますが、その為に、自分の心を傷つけては何の意味もないのです。
しかしながら、私達は、上手な恋愛はなかなか出来ないものなのです。
人間というのは、本来、非常に我が儘な生命体なのです。
自分が好きなものを自由に選択し、そしてこの社会で生きているのです。
きれいな花を見た時に、その花を家に飾りたいと思った時、そこにはもうすでに、その花への思いよりも、自分のものにしたいという独占が生まれてきているのです。
しかしながら、花ならそれはさほど大きな問題とはならないことでしょうが、もしそれが花ではなく異性であるならば、お互いの意識の中で、上手く繕っていかなければならないはずなのです。
人間は、花ではないのです。
しかしながら、花にももし選ぶ権利があったら、花屋さんでなんてきれいな花なのだろうと思っても、花にあなたのことは嫌いと言われたら、どんなに悲しい出来事となることでしょうか。
そんなことを考えてみたら、自分を振り返る、いいチャンスとなるかもしれません。

その昔、この日本は、三民族により統治され、和みの世界で人々は穏やかに暮らしていました。
ある大きな事件が起こるまで。
ある日突然、大国から、この日本に攻めてきた人達がいました。
私達三民族は、僅かな大国の人達に、あっという間に支配されてしまったのです。
そして、この三民族を統治し、政(まつりごと)を司っていた長達は、彼らの呪いにより土蜘蛛とされ、大地の底で密かにその呪いが解ける日を待ちながら暮らしていました。
 なぜ、こんなに容易く、この大地が奪われてしまったのでしょうか。
私達三民族は、人を殺めることを知りませんでした。
全て神の下(もと)に、生も死も存在し、神だけがそれを行う権利があると考えていたからです。
私達は自然の中で、この豊かで恵まれた自然の中で、何一つ不自由のない、穏やかな毎日を過ごしていたのです。
 なぜなら、当時の日本の人口は、十万にも満たない程の数で、川に行けば魚達は捕まえ放題、森に行けば動物達も狩り放題、野に行けば菜も摘み放題、海に行けば貝も取り放題、山の木の実も私達三民族が生き残るには、十分過ぎる程あったのです。
もちろん争うこともなく、穏やかな中で暮らしていたことは言うまでもありません。
 全て、自然神が与えてくれた、ユートピアで暮らしていたのです。
争うことなど考えることもなく、戦いなど、初めから存在しなかったのです。
だから、人の命を奪うことが出来るのは、間違ったことをした時、神が下す天罰であり、また死は自然の出来事であり、争いや戦いの中から生まれるものではないことを知っていました。

その中に、人が人を殺すという意識を持った人達が大国からやって来て、長達は大半が殺され、一部の人達がそこから逃れ、密かに生き続けてきました。
そこに住む人々が、あなたはなぜ人を殺すのですかと訪ねたら、そこに答えはありませんでした。
そして人々は、それを恐れ、それに従い、その力を持った人を逆に神とあがめたのです。
そして、神となった彼らは、この三民族を統治し、また政を初めとする、三民族独特の法則を彼らもまた守り続け、平和な時期を迎えることとなるのですが、それも長続きせず、民族同士の戦いが繰り広げられることとなっていくのです。
その時、神となった彼らは、それを楽しんだことでしょう。
平和過ぎた、穏やか過ぎた三民族に、戦いを教えてくれたのが彼らであり、またそれに従うようにさせたのも彼らでした。
しかしながら、その時、一部族だけは彼らに逆呪文をかけました。
彼らがもし、百年間、政・神事を怠ったならば、土蜘蛛にされた一族が蘇り、もう一度平和な世界が作られるように、働き始めることでしょう。
その時はもう、彼らの力は失われ、ようするに、シャーマンとしての能力はもうすでにそこにはないのです。

そしてやがて、三民族の中から優れた能力を持つある種の人達が蘇り、シャーマン的な意識はもちろん、宇宙意識と感応しながら、この世の中を正しい方向へと導く為の、働きをするでしょう。
彼らの持つ優れた能力の一つに、未来予知能力があります。
また、もっと優れた能力の中には、その人達の運命を変えたり、未来を正しい方向へ導いたり、その意識のコントロールがたやすく出来、人々を安らぎの方向に導くことが出来るのです。
そして、悩める人達の過去を清算し、未来の扉を開いてあげることも、さほど難しいことではないのです。
今蘇りつつあるその意識により、人類は正しい方向へと進むことが出来るでしょう。
蘇った土蜘蛛一族は、必ず未来を明るい方向へと導くことが出来るのです。
洗脳を解かれた人々は、やがて目の色が、ブラウンから黒へと少しずつ変化し、本来ある姿へと戻っていき、また倭三民族の誇りを取り戻し、やがてそこに集い、正しい方向へと歩むことでしょう。

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