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私達が住むこの地球を中心とした、太陽系、そして銀河系、この大宇宙の中で、生命は、大いなる進化と共に、発生と消滅を繰り返し、生死の中で、多くの霊的現象をもたらしてきました。
情報というエネルギーは、消滅することはないのです。
この宇宙を、どこまでも飛び交いながら、そのエネルギーはやがて、元ある場所へと戻ってきます。
要するに私達が死んだとき、私達の意識と共に生きた思いや観念は、情報エネルギーとし、この地球を包み込みながら、宇宙へと飛んでいくのです。
宇宙的な意識の中でそれは管理され、もう一度人間として戻ることも、この情報のプログラムの中では、さほど難しい出来事ではないのです。
要するに、生きている生命体そのものが存在していないのならば、霊的現象が目の前でどう繰り広げられ、どんな現象が起こったとしても、それは決して不思議なことではないのです。
逆に物質的に存在していることの方が、極めて不思議な現象といえるからです。
子どもの頃よくはやった遊びの中に、「こっくりさん」というのがありました。
経験した人達もいらっしゃるのではないでしょうか。
確かに、あのような不可思議な現象は、目の前で起こり得るのです。

世界では、まだまだ未知の、そういった現象は数多く挙げられてきていますが、これが地球における現象の中の、もしくは太陽系クラスの中で起こる現象ならば、さほど大きな問題を抱えることはありません。
しかしながら、宇宙全体でも同様の現象が起こると考えたならば、その進化や観念の中で、私達の想像を絶するほどのオカルト的な現象があっても、全く不思議はないのです。
肉体における霊的現象は、過去における情報のプログラムの、インストールに過ぎません。
いつでも彼らは、忍び込む肉体を見つけ、入らんことを企んでいるのです。
そして、この宇宙から発せられた、霊的現象を受け入れた人達は、俗に言う宇宙人的な能力や、科学を、記憶しているのでしょう。
最近、大変素晴らしい科学が、次々と発表されていますが、宇宙霊との遭遇により、この地球人が大いなる宇宙の科学を知ることが出来るのです。
今そのような現象が、大変多く起こっているのは、逆にこの地球が、非常に危機的な時期を迎えているからなのかもしれません。
決して宇宙霊全てが悪いものではないのです。
中には、宇宙裁判を受け、追放されてしまった程の非常に危険な霊体も存在しますが、逆にこの宇宙全体の秩序を守り、この宇宙の管理の為に存在する、極めて有効的な宇宙霊も存在しているのです。
私達人間は、肉体の移動が全てと考えていますが、宇宙空間を移動するには、肉体という物質は、最も不合理な存在なのです。
確かに地球上での移動においても、肉体があるからこそ困難を抱え込んでしまっている現象が、余りにも多いのです。

科学の進化と意識の進化により、よりよくバーチャルが理解された時、肉体の存在は、さほど大きな意味を持っていません。
しかしながら、どんなに素晴らしいプログラムディスクがあったとしても、それをインストールし、表現してくれるハードディスクが必要なことも、現実として言えるでしょう。
要するに、宇宙を飛び交う情報とエネルギーは、目に見えないプログラムと考えると、肉体は、目の前にあるコンピューターのように、その情報を表現する、唯一の装置なのかもしれません。
このような現象を上手く利用したならば、宇宙霊に取り憑かれることも、決して悪いこととはいえないでしょう。
つまり、その霊が正しい方向へと導く霊体であるならば、未来は素晴らしいものとなることでしょう。
しかしながら、自己の欲により、悪霊的な宇宙霊を呼び込んでしまったならば、その宇宙霊に取り憑かれた人々は、自分を滅ぼす方向に進んでしまうことになります。
その払い方は、彼らに取り憑かれたならば、そこから抜け出す方法が、非常に困難なことと言えるでしょう。
倭民族は、そういったシャーマン的な意識の中で、現実と非現実を上手く融合させながら、未来への糸口を、今見出そうとしています。
確実に、特殊能力を持った人達が増え、良いか悪いかは別とし、その使える能力を集結し、今その意識は、山陽のある県にと集まろうとしています。
そのような意識で、知識ではない本物の能力を持った人達が、これからの倭国家を統合し、未来へと導くことでしょう。

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神話の中で、とても感動的な出来事が、幾つかあります。
それは必ず、月に関係した幾つもの出来事、例えば竹取物語や、天女の話――。
やはり、昔の人達は、そういったロマンに満ちた、色んな事を考えたのでしょう。
月から使者がやって来て、やがて私達にも、色んな事を学ぶチャンスがあり、そこから降りて来た人々により、豊かな心を手に入れることも可能なのかもしれません。
現代の人々は、こういった昔の御伽噺(おとぎばなし)を、楽しみながら、その行為を感じていますが、ここは一つ、物理学的に、もっと現実性を持った形で紐解いてみたら、とても面白い空想が成り立ちます。

例えば天の羽衣。
この羽衣を天女が羽織ると、天へと昇っていくことが出来るのです。
これを科学的に考えると、羽衣とは一体どのような存在なのでしょうか?
またそれを纏うことにより、どうして天へと昇ることが出来るのでしょうか?
これを科学で紐解くならば、皆さんはすぐに思いつくことでしょう。
そう、天の羽衣は、過去における文明が残した、最大なる科学の一つ、反重力装置なのです。
しかも、形状を自由にする、繊維で織り込まれ、そしてそのエネルギーは非常に大きく、それを纏うだけで、その人の意思を読み取り、その意思の方向性の定義の中で、自由に操作出来るということになるのです。
もちろん、これは炭素繊維で織られ、不可思議な合金繊維が関与し、意識とエネルギーを融合させた、大変素晴らしい装置ではないかと思われます。
この御伽噺の中には、この地球に起こった、過去の優れた科学の、それを実装することの出来ない世界に、御伽噺という形で存在しているのかもしれません。

世界にはまだまだ不思議な出来事が沢山あります。
紀元前に作られた、ミロのヴィーナスや、オーパーツと呼ばれる水晶どくろ、この日本では、皇祖皇太神宮にあるといわれるシシロガネ(素白金)、これは日本の中に存在する、この地球上にない金属といわれています。
このように、不思議な存在は、いくつもあるのです。
もちろんこのシシロガネが、UFOの材料から作られたという人も居ますが、その通りかもしれません。
今、この世界の中で確認出来るだけでも、21世紀の科学が到底及ぶことの出来ないような現実が、そういった物質が存在していることは、否定することは出来ないのです。
逆に、この御伽噺や、それらの神話を繋ぎ合わせながら、もう一回、新しい環境と新しい意識を取り戻すことが出来たならば、ひょっとすると、観念の追及を超えた現実が存在するのかもしれません。
まだまだ理解出来ないようなことが沢山ありますが、この21世紀の中で、これらは有効的な存在にならなければいけない、そんな気がします。

この危機的な環境の中で、私達は、これからも生きていかなければなりません。
全ての物理学や医学や、そういった理論が、ことごとくひっくり返される日が来るのかもしれません。
私達が学んできた科学の中で、想像をはるかに超えた出来事が、その理解を超える出来事が、この自然界の中では幾つも存在しています。
自由に繁殖し、死を持たない遺伝子達は、あのわずかな物質の中に莫大な情報を抱え込み、命ということの出来ない物質、それが遺伝子です。
コンピューターに差し込むCDよりも、その何千倍もの情報を持ちながら、肉眼では確認出来ない程の小さな存在で、細胞を管理しながら繁殖し、その遺伝子が常に分裂を繰り返しながら、しかも生き続け、その物質の存在は、否定することが出来ない結果となるのです。
こういった世界から考えても、この地球に起こる、色んな現象の中で、人間達の科学は、ほんの僅か、入り口に入ったに過ぎません。
だからこそ、神話をもう一度、理解し直し、その可能性に、物理的な観点で取り組んだならば、可能な現象がいくつも起こってくるのです。
 分からないことを、理解出来ないことを、否定するのではなく、それを受け入れた上で、もう一つ想像性を豊かにし、そういった科学に、向き合ってみてはいかがでしょうか?
御伽噺を、おとぎの世界から現実へと、方向を変え、そして想像を超えた上で、それを意識し、確実に作り上げることが必要な時期がやってきたと思います。
全てはこの教えの中に存在し、私達に必要な情報を、こういった形で伝えてくれているとしたならば、これは大変ありがたい行為ではないでしょうか?
もう一度、そういった御伽噺の本を、読んでみてはいかがでしょうか?

朝起きたら朝ごはんを食べ、お昼になったら食堂の前に列をなし、一時になったら職場に戻り、繰り返されるような毎日の日々が続き、仕事が終わったらわいわい騒ぎながら一杯酒を飲み、家に帰ってお風呂に入って、テレビを見ながら今日のニュースを聞き、眠くなったからといって寝ます。
また朝になると、同じ一日がやってきて、休日を待つかのような意識の中で、繰り返される日々の中で、マンネリという言葉の中に自分を置き、起こる変化の中を怖いと思いながら、安らぎと平安な時を求めながら、この社会に飲み込まれるように、毎日の生活を営んでいます。
変化のないことが、一番の安心に繋がる、不安が解消された時、そんなものに喜びを感じ、音楽を聴いたり、映画を見たり、遊園地に遊びに行ったり、買い物に行ったり、酒を飲んだり、カラオケをしたり、何気ない生活が続く毎日の中で、このことが意図的に仕組まれ、そして観念的に植え付けられ、失われた自由を取り戻すことなく、社会の仕組みの中で、今を迎えているのです。
生まれたらすぐに、家族の下に安心が存在し、小中高大へと、学問の勧めのごとく決められた道を歩き、企業に入って結婚し、子どもが生まれて、また新しい命が動き出し、農家は去年と同じ、種まきの日まで決まっていて、収穫も育苗も、決められた意識の中で行われる行為の一つに過ぎません。
政治や経済、それに対する反応や、誰かが何かを言わないと、それを正しいか間違いかすら理解出来ない程、自分という存在が、見事になくなっているこの社会で生きているのです。

何百年という歳月をかけながら、この仕組まれた社会は、思想外観念の中で、存在しているのです。
要するに、自由な発想はどこにも存在していないし、逆に全てが観念といえるでしょう。
人と同じことをしていた方が、安心出来ることも観念なのです。
人と変わったことをしようとし、何か違う世界に自分を置いたとしても、服を着ていることも、ご飯を食べることも、実は観念の中の一環に過ぎないのです。
社会というこの仕組みの中では、そこを脱出するような自由思想があったとするならば、山の中でひっそり暮す仙人のようにならなければいけませんが、その仙人も、誰かが教えてくれた観念の中に存在しているのです。
教育という言葉の中に、教える側と教わる側に分かれ、教わる側は常に、教える側を正しいと考えるように、プログラムは出来ているのです。
教える側が、どのようにそれを行うかによって、どんな人間でも作り上げることが出来るのです。
この社会の仕組みは、教える側の有利性の中で、いかに観念を植え付けるかが、ここで平和に生きる為の、絶対的な条件となっているのです。
自己思想をなくした人々は、この社会の中で、歯車のように動き、一つのパーツとして、何らかの役割を持ち、社会に貢献しているかのように思わせ、不安や不満の解消をしているに過ぎないのです。
言葉により管理され、法律により管理され、社会の仕組みの中に管理され、二人以上の人が居る限り、そのルールが存在する以上、観念から逃れる道は、存在していないのです。

しかし、私達はこのような社会の仕組みが、いかに環境を破壊し、人間の意識すらも、そして自由すらも認められていないことに、気付き始めています。
今こそ、この観念からの脱出が、急務となってくることでしょう。
しかし、この観念から脱出しこの世界で生きようとすると、非常に大きな抵抗現象を受けます。
だからこそ、また観念全てが悪いわけではありませんから、有効性を持った観念と、管理される観念との、その関係を上手く把握した上で、連帯性を保つような意識と、有効に交わりながら、大宇宙の法則に則るような観念の中で、新しい道を選ぶべきではないでしょうか。
法則と観念の関係の中を、上手く付き合いながら、管理観念からの脱出が絶対的な条件となることでしょう。
自由における自己思想の中で、守らなければいけない法則が存在しています。
それと観念との違いを、理解した上で、未来の地球を築き上げていく必要があるのです。
私達人間は、もっと優れた未知の能力を持っています。
この管理された観念により、その能力は失われてきました。
とても残念なことですが、これからの未来は、無くした私達の能力が、絶対必要となるのです。
その能力を取り戻す為にも、観念からの脱出が急がれます。
この観念から脱出しなければ、本来持つ能力に出会うことも出来ないし、また出会ったとしても、理解することが出来ないのです。
だからといって、通り過ぎていくわけにもいきません。
小さな出来事からでかまいません。
新しい意識の元で、未来を考えてみてはいかがでしょうか。

私達の毎日の生活は、三次元があるからこそ存在し、そこで営まれています。
今私達に与えられたこの三次元は、全ての次元の中で最も美しく、また、高エネルギーの世界であり、物質化された社会は、現実を表現するには、非常に便利に出来ています。
私達が今、この三次元に生きている為に、本当の三次元の素晴らしさとか、三次元があるからこそ存在する色々な出来事に対して、丁度、ぬるま湯に浸かっているような状態で、その素晴らしさを見失ってしまっているのではないでしょうか。
その上、この三次元を超える、もっと素晴らしい世界へと、大いなる欲を膨らませ、特にスピリチュアル系といわれる人達は、この三次元を超えた高次元の社会を望み、また、意識で作り上げていく新しい世界を望んでいるのではないでしょうか。
アセンションとか、高次元化とか、勝手なことを言う人は、この三次元をどう理解し、この三次元の在り方を、どのように認識しているのでしょうか。

前宇宙が作られる以前、創造主達は、全ての科学を結集しながら、この大宇宙と次元を作り上げました。
わずかな音と光の中から物質化社会を築くには、究極的な科学が必要だったに違いありません。
意識の世界は非常に自由であり、どうにでもなる世界のように感じられます。
しかし三次元はそうはいきません。
そこに物があり、また重さがあり、この物質的な世界の中で緻密に計算された科学は、この三次元を作り出しているのです。
次元図でも表すように、正次元、負次元、また縦4次元とありますが、正次元の中のたった一つ、この中に三次元が存在しているのです。
たった一つのこの次元の中に私達は今、生きているわけです。
この三次元が、破壊と崩壊と、また意識の狂いにより、危機的な状況を迎えたとき、弥勒菩薩が現れ、私達を正しい世界へと導いてくれると言われていますが、果たしてその正しい世界とは、どこにあるのか、そんなことを考えたならば、いい加減に物事を考えていたなら、高い次元が三次元より素晴らしいのかもしれませんが、実際三次元より高エネルギー的な次元は存在しないのです。
神々達は、意を決しながら、この三次元の中に、私達人間の住む、また命の存在する、そのプログラムを作り上げていったのです。
どの次元よりも、遥かに優れたこの物質的な、また命的なプログラムは、彼らの力を持っても、容易に出来るものではありませんでした。
 なぜなら、一つのものを作り、そこに私達人間が感じる感触というプログラムを与えたならば、誰もが共通した形でそれを認識するように、また、そこに付随する、光の世界、要するに見える世界、触れる世界、聞こえる世界、感じる世界、そんなように、意識や思いや、そこに観念と共に存在する物質の情報を、その全てをプログラム化しながら、共有させなければならないからです。
その共有した情報により、私達は今、この地球で生きているのです。
この三次元は、本当に偶然の結集であり、このような科学がプログラムされたことは、全ての次元の中で、極めて突出した存在となっているのです。

私達は三次元があることに甘え過ぎ、この三次元を作り上げた神々達の苦労を全く理解していないのかもしれません。
音が聞こえるだけでも、触れるだけでも、見られるだけでも、このプログラムは私達現在の科学をどんなに推し進めていっても、到達出来るようなものではありません。
遺伝子における情報の記憶や、その設計図の中に、しかもあれだけ小さな世界に、私達には想像もつかない程の、プログラムと記憶が存在しているのです。
それも、三次元の中にしか存在しない、大いなる出来事なのです。
この三次元の中にいるからこそ、肉体を持っているからこそ、エネルギーの根源があるからこそ、思うことも考えることも出来るのです。
三次元に存在していなかったら、アセンションや高次元化も、そういった意識すら、実は存在しないのです。
 なぜなら全ての次元は、三次元のエネルギーに依存しているからです。
私達が求める、本当の世界は、この三次元という、極めて突出的な、この現象の中から起こり得ることなのです。
要するに、三次元がなければ、この大宇宙全てが、何もない存在となってしまうのです。
今回起こるこのような現象の中で、一番望まれているのが、レベルの低い人間達の意識ではなく、それを乗り越えてきた、植物や動物達の意識の中にあるこの素晴らしい三次元の存在を、私達も認めながら、私達人間が、そして人間の意識が、新しい次元の中に、要するに、三次元のエネルギーに依存しながら私達の意識が変わろうとしている、私達に存在する、無くしてしまったそのプログラムを思い出すことなのです。
あくまで三次元の中で起こり得る、私達人間の中に存在する、もう一つの次元空間を明らかにしながらの、内なる次元のアセンションであり、高次元化なのです。
三次元の中に肉体が存在しているからこそ、それは可能となるのです。
三次元の素晴らしさ、ありがたさを、忘れてはいけません。

天保の飢饉のとき、野山に入り、もちろん道端の草達も、特に東北地方は大変だったようですが、その草を食べて生き抜いたという、とても素晴らしい記述が残っています。
今、世界から穀物の輸入が止まったり、中国大陸から野菜が入ってこなくなったりしたならば、その当時と同じような危機的な現象が、この日本で起こる可能性は非常に大きいのです。
そんな時、あの天保の飢饉の時に生き抜いた彼らの知恵や、そして考え方は、これからの日本人にとって、とても大切なことに思えてきます。
放射能レベルの基準も、新たに厳しく変わろうとしています。
ひょっとすると、食べ物そのものが、なくなってしまうかもしれないのです。
ましてや世界中に大きな問題が起こった時、どこの国が日本の為に、農作物を作ってくれるでしょうか。
今の日本は、農業はことごとく駄目になり、農家は大変な苦労を、今感じているのです。
政府の方針だから仕方ないとはいえ、やはり日本人は農耕民族ですから、米を作ったり、畑を耕したりすることが、私達の大きな役割の一つには違いないのです。

工業化社会になり、農業も、科学的な方法で行われるようになってしまいました。
遺伝子組み換えや、化学肥料、そして農薬、加工食品、添加物、酸化防止剤、この食という文化の中に、どれ程の科学が入り込んでいるのでしょうか。
本来、地球上に生まれた生命体は、地球という自然科学の中で生き続け、食物連鎖という形で命を繋いできました。
そこに今、科学が入り込み、自然界の情報はことごとく破壊され、それについていけない本能と遺伝子達は、この危機を乗り越える為に、逆に大暴走を始め、そのため精神的な病気が蔓延することとなりました。
食という文化の中に、取り返しのつかないところまで科学が入り込み、触れてはいけない神々が作り上げたプログラムをも破壊し、人間の本能を誤魔化す、その味覚から始まる誤魔化しの世界は、確実に本能を苦しめ、遺伝子を傷つけ、記憶を破壊しています。

未来を作り上げていく為には、安定した意識の発達が必要なのですが、子ども達において、本能の不安は究極に達しています。
 なぜなら、自然界にない、かつて遺伝子が経験したことのない、そういった科学が、食べ物の中に入り込んでいるからなのです。
もう本能という脳は、そういった食べ物に、ついていくことは出来ません。
理解出来ないまま、観念でそれをまとめようとし、そういった科学的に作られた、その食材は、脳の刺激を強める為、かなりの勢いで、味を濃くし、味覚への反応を強めているのです。
その強い刺激の中で、脳の反応を見ながら、食という文化が進んでいることは、非常に危険な世界に陥ることになってしまいます。
そのごまかしと強い刺激は、ある程度までは、脳の中で計算されたことですが、今起こっている現象は、そうとは言い切れないのです。

本能は確実に求めています。
自然の中における、この何億年もの間、生き続けてきた遺伝子が、経験の中から見出された、安全と安心を。
その為には、まだこの地球に残された、手付かずの自然の中にしか、その安全と安心は存在していないのです。
今私達が、この脳の不安を取り除く為には、本能と一体化しながら、自然との共有の中で、食に対する人間の科学を、完全否定しなければいけない時期を迎えています。
 なぜならば、もう私達の脳は、限界を遥かに超え、脳そのものの破壊が始まっているからなのです。
本能を安心させる為には、一番手っ取り早く、身近な方法が、野草を食べることなのです。
そういった、人間が全く手をつけていない、完璧な自然の中で、本能と融合できる情報が存在し、私達に本当の安らぎをもたらしてくれるのです。
今その脳を安心させなければ、脳そのものが破壊の方向に進むことは、止めることが出来ません。
出来るだけ早く自然と触れ合い、野草を食べ、脳と、もちろん本能、そして遺伝子の記憶に伴い、安全な生活をすることなのです。
遺伝子を持つ全ての生命体は、この地球の自然の中で、多くの記憶を持っているのです。
その記憶に適合するかどうかが、一番大きな問題なのです。
腸内細菌の持つ、遺伝子の記憶に適合する食材の使用であるならば、ほとんどの病気は解決出来るものと思われます。
私達の本能を休ませてあげることが、どれほど大切なことなのか、是非わかって欲しいのです。

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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