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何か大きな壁にぶつかったと時、そこさえ乗り越える事が出来たならば未来は明るく開けたはずなのに、日常生活の中で多くの疑問にぶつかった時、そして自分の行き詰まりを認識してしまったり、なぜ、どうしてというそんな疑問にどう答えたら良いのか、なんだか自分が非常にいい加減に思える時がよくあります。
何かまずい事が起こった時、自分以外への言い訳を、常に考えているのが人間なのではないでしょうか。ある方が、一つの商品を持って二人の人の前に現れました。一人の人はその商品を買い求め、非常に喜んで今も使い続けています。買わなかったもう一人の人は、その買わなかった理由を、要するに自分を正しいという、そういった正当性を求める為に、買わなかった商品の粗探しをし始め、そこを批判する事により自分を正当化しようとするのです。
買った人はその商品の良さを理解し、そこを重要視しながら自分の心を豊かにし、現実も少しだけ変える事が出来るのですが、買わなかった人は常に自分が正しい事を証明しようとする、そういった馬鹿げた考え方が生まれてくるのです。正直に思うならば、今自分にお金がない為買えなかっただけなのに、そこを隠す為にその商品の欠点探しをする、そういった愚かな存在がそこにあるのです。
最近増えているクレーマーと呼ばれる人達は、常に自分が正しい事を、そして相手が悪い事と決め付ける、だからこそ起こる現象なのです。昔から金持ち喧嘩せずという言葉があります。確かにそうなのかもしれません。心の貧しさや金銭的な貧しさを自分以外の理屈をつけて、そこを正当化しようとすると必ず無理が生まれてきます。そういった現実をいくつか繰り返す中で自分の存在が、非常に間違った方向へと進んでいってしまうのです。
未来に向かう可能性を破壊し、自分の持つ未知的な能力に対してもそこを開こうとせず、起こりうる目の前の現象で、全ての欠点は自分以外のものや人にあると決め付けるのです。こういった考え方から、正しい未来は生まれてきません。
もっと自分の欠点をさらけ出し、そこを自分でも認識し世間体に捉われず、もっと素直に自分を見る事が出来たならば、新しい未来が生まれてくるはずなのに、自分が正しいという考え方から、それが自分を駄目にしていく法則である事を認識する事は、結構難しい事なのです。
何か言葉をかけようとした時も人間達は、その言葉が正しいか間違いか常に判断してそういった行為を行っているのです。その答えが正しいか間違いかは、その答えを自分が出すという所に、非常に大きな矛盾とそれが正しいとする判断が、周りの人や他人から見たならば滑稽に思える事もあるのです。
そういった観念と自分に対する考えの甘さが、その自分を駄目にしていくのです。誰かにそうさせられたという様な事はなく、人間は常に自分で自分を判断し、その答えに対して現実が存在してくるのです。悪くなるのも全て自分のせいだし、良くなったとしてもそれは自分で決めた出来事なのですから、当然どちらを選ぶかはその人の勝手と言えるでしょう。
楽な道を選ぼうとすれば必ず、そこに待っていてくれるのは、緩い下り坂です。努力とか、そういった形で前へ進もうとしたならば、長い階段がしかも急な上りの階段が現れてくるのかもしれません。その階段を上るには、大変大きな勇気が必要となります。
しかし階段は、一段ずつ慌てずそしてゆっくりと上ったならば、さほど大変なものではないのです。いきなり駆け上ろうとしないで下さい。自分が決めた一歩をゆっくりと、ただ一段ずつ上るだけで良いのです。必ず未来は開けるはずです。もう自分で自分を駄目にする方向へ傾かないで下さい。隠し事は必ず、いつかばれてしまいます。
もっと素直に、自分を生かしてみてはいかがでしょうか。
よく劇的な出会いがあった時、あなたと私は会う運命にあったのよと、その様に考える人が結構、沢山いらっしゃいます。
しかしその運命は初めから決まっていたと考えたならば、それを必然的な理論というのですが、その様な考え方が多く存在している事は間違いないのですが、現実の中で必然的な出会いの中には、それを意図する法則とそれを近づけ様とするエネルギー的な存在が不可欠なのです。
出会ってから意気投合したならば、ずっと前からその様な関係にあった様に今から過去へと遡り、その過去を変え様としている現実に過ぎないのです。しかしながら会うまでは、そこにはエネルギーが存在せず、求めていたからとしてもそれが結果として正しいかどうかは、未来に委ねられる結論なのです。
例えば渋谷の交差点で、何百人もの多くの人達とすれ違ったとしましょう。その中にたった一人、運命の人が居たとしても、そこであなたはその人に気付く事はありません。引き合い理論はここには存在していないのです。
もしその引き合い理論が正しいならば、一度のすれ違いで相手を見つける事が出来たでしょう。何百人もの中から、しかも渋谷のスクランブル交差点の中で、もし仮にその交差点で、10回すれ違ったとしても気づく事は出来ません。なぜならばそこにエネルギー的なものが存在しないからなのです。
しかしその交差点で、目の前でその人がバッグを落とし、それをあなたが拾ってあげたとしたならば、そして顔を見合わせ声を掛け合ったならば、そこから小さなエネルギーが生まれ、初めて偶然が、必然へと変化する一瞬なのです。
しかしながらそこではまだ、生まれたばかりのエネルギーはあまりにも小さく、声を掛け合い、顔を認識する位が限界なのです。しかし何ヶ月か後に、またその人と渋谷の交差点で偶然出会い、お互いに顔を覚えていて、あの時はどうもと、そしてお礼方々お茶でもと誘われたならば、そして意気投合しまるで何年も前からの知り合いの様に、楽しい時間がそこから生まれたとするならば、その日が偶然から必然へと変換された日になるのです。 あくまで出会いは偶然であり、何のエネルギーもなかったはずなのですが、お互いの意思の疎通によりエネルギー交換が発生しそれが高エネルギーへと導かれたならば、当然必然的に出会ったと考えてしまうのは当たり前の現象です。必然理論は結果論から生まれたものであり、あくまで過去に遡りそれを必然という形に言い表しているに過ぎないのです。
人と人との出会いは未知数であり、いつどこで誰と会うのかは決して決まったものではありません。それなのにお互いの関係が深まると、それを必然的と言いたがる人があまりにも多いのです。
植物で例えるならば、花粉が大空を舞い、めしべと出会う確率などは本当に低いものなのです。偶然そこにめしべがあり受精が行われたとしたならば、それを人間に置き換えた時にそれを必然理論と名付けるには、あまりにも不自然な現象が多いのです。
あくまで偶然であり、初めからは何も決まっていたわけではないのです。必然理論を語る方々は、大変多くいます。あくまで出会う前の過去に遡り、あたかもそれが当たり前の様に言っているに過ぎないのです。
要するに必然か偶然かという問題に対して、あまり意味のない現象なのかもしれません。それよりも、出会ってからどうするのか、またどういう方向に向かっていくのか、そしてお互いの存在感をいかに認め合うのか、それが未来へと繋がる発展的な意識になるならば、出会う前の関係はさほど大きな問題ではないのです。
やはり出会ってから何をするかが問題となるでしょう。
そんな時、必然的に出会ったと置き換える事によりお互いの関係が深まれば、それはそれで良いのではないでしょうか。
人間の一生は、その人の生き様と、生活環境の中でその人独特の考え方や人間関係などにより、様々な変化の中で作られてきます。
傷つく魂が自分が行う結果であり、逆にそれを受ける側で感じる事がある結果でもあるのです。自分が自分を理解しようとした時、自分の未熟さに気が付く事がよくあります。
確かに何の為に生まれてきたのか、どこに向かっていけば良いのか、その疑問に対する答えが誰もが持っているとは言えないからです。様々な生き様の中で傷ついてしまった魂を、どう浄化させたら良いのか、又どう癒したら良いのか、霊的な現象であるならば、娯楽を楽しめばある程度、心は開放され癒しの世界に入り込む事が出来ますが、魂の傷を癒す事はそう簡単にはいかないのです。
丁度トラウマの様にどこに存在しているのか、それがどの様な傷なのかそれを見つける事すら難しいからなのです。しかしそういった傷を癒す方法がもしあるとするならば、それがどの様な傷かは別として、今起こっている現実の中から魂のレベルを上げるしかありません。
魂の進化とともに新しいエネルギーが発生し、古い傷を癒す事はあまり難しい事ではないのです。霊的現象と違うのは、その辺ではないでしょうか。霊的なトラウマならば、その過去に遡り(さかのぼり)、清算しなければなりませんが、魂レベルの意識の中では、過去に遡る事はさほど大きな意味を持っていないのです。
魂が今この時点から未来に向かって、丁寧に手入れをする事で丁度、道端で拾ってきた石を丁寧に磨き上げたならば、きらきら光ってきます。その様に魂も最初は、その道端の石と変わらない位なのかもしれません。生きていく内に、ある一面は磨かれ又、危機的な意識の中である一面は傷つき、そして今があるのです。
そこを修復するのではなく磨き上げる事が、非常に重要な事と言えるでしょう。要するに魂のレベルを上げるには、その魂を磨く事なのです。
そして輝かせる事が、一番望ましい出来事なのです。そこで気が付くと思いますが、ではどうやったら魂が磨かれるのでしょうか。この疑問にどう答えたら良いのか、人それぞれ違うという答えもあるのですが、一般的には、社会生活の中でどう社会に貢献出来るのか、そして自分につく嘘をどこまで軽減出来るのか、軟弱な意識をどう構築すれば良いのか、方法論は沢山有りますが、俗に言う修行という形や、学びという形、そういう中から得られるのは、霊的なレベルを上げる事は有っても、魂のレベルを上げる事は、少し違っているのです。
ある日、瞬間的に新しい感性の下で目覚める事があったならば、磨かれた魂の輝きを見る事があります。
全く違う考え方や、新しい出会いの中で、命の芽吹きの様に生きてて良かったと、こう生きたいといった様な、それが出来るだけ具体的であれば、その時から魂が磨かれ始めてくるのです。
未来に対して何も、恐れる事はありません。起こる現象は全て受け入れ、そこから解決策を見出し、豊かである心を上手く表現出来たならば、魂はどんどん磨かれていくのです。
確かに過去の清算はとても大切ですが、未来に向かうどう生きるかの方が、魂のレベルを上げる為には、とても大切な事なのです。今何をするのか、これからどう生きるのかその原点に立ち、今までの事に振り回されず、そして周りの人や色んな意見があったとしても、自分が正しいと思うものがあるならば、その道に向かい大いに進む事です。
そして気付けば良いのです。正しいか、間違いかに。
そうすると、又新たな一歩が生まれてきます。少しずつ魂が磨かれていくと、未来をよく見る事が出来ます。未来が見えてきたら、今何をするかが分かります。
誰もが皆、未来を想像の中に置いていますが、そうではなく現実として認識する事が出来るならば、今何をすべきかは明解になってくると思います。
恐れる事はないのです。起こる現象は全て、自分が生きているからこそ、そこに起こる現象であり、そこを乗り越える事が、生き様を作り上げていき人生を楽しむ方法なのです。
又社会にどう貢献出来るのか、大それた事を考える必要はありません。
目の前にある小さな事でも価値という点から見たならば、それは十分すぎる程、素晴らしい事なのです。
この地球上で、最も多く存在し、一番多くの種類を持つのが、酸化ケイ素、水晶といえるでしょう。
彼らは、20億年前から結晶し、成長する鉱石といわれています。
中には、苔が入ったものや、また純度の非常に高い、透明な結晶体も多く存在します。
ただ酸化ケイ素という考えの中では、瑪瑙も翡翠も虎目石も、みんな水晶の仲間です。
しかし不純物の混ざらない、完全透明な水晶は、20億年の歴史の中で、地球の記憶を持ち、私達にとっても、この水晶の持つパワーは、非常に大きなものといえるでしょう。
空気が入り、白くにごったり、また、酸化チタンの影響を受け、ゴールドルチルとか、金糸が入っているように見える水晶が存在しますが、やはり一番素晴らしいのは、透明でインクルージョンのない、屈折が鮮明であり、またアルファー波的な、安定したサイクルの中で、私達人間に優しい周波数を投げかけてくる、純度の高いものほど、良いものといえるでしょう。
確かに、10cmを越える球体が、100万円以上もすると聞いたことがありますが、そのくらいの価値は、当然あると思われます。
しかし偽物が多く、溶練水晶といわれるような、水晶の粉をガラスで混ぜ練り合わせた、俗に言う中国水晶といわれるものがありますが、結晶構造を持つ水晶とは全く違う存在です。
球体に磨き上げられた、完全透明な水晶は、小さなものでも大変大きな影響を持ち、そのパワーは人間達が侵すことのできない程の、完全な意識の結合体といえる程、確立されたものを持っています。
完全なものは、どんなに霊的に悪い現象に遭遇しても、塩水で洗い清めるなどという、そんな行為はしなくてもいいのです。
この能力の中で、地球の記憶と、その彼らが結晶していこうとした、結果の出来事は、人間の遺伝子にも似た、凄い情報量を持っていることでしょう。
水が凍ると、水晶と同じような力を持つと言われていますが、逆に、水の全ての能力を水晶が持っているのかもしれません。
そういった面では、水晶化された水と、水晶との融合性の中で、私達の意識は、メモリー拡張に成功していくのかもしれません。
何億年もの間、リサイクルされ、使い続けられてきた水が、地球の浄化能力を、その許容範囲を超えた情報汚染の中で、今存在していますが、それを本来ある、水晶と共有出来る、情報スペースの中で、もしそれが上手く作用したならば、私達の意識におけるメモリーは確実に増幅されていくことでしょう。
水晶だけでなく、また他の鉱石でも、大変大きな能力を持ったものがあり、現在パワーストーンブームは続いていますが、ブレスレットやネックレスを、ただするだけでも、電磁波の軽減をしてくれると言われていますが、精神的に、そういった現象が起こっている、だからこそ、今非常にブームとなっているのでしょう。
人間達は知っているのです。
天然石、特に結晶構造を持った、彼らの能力と、自分達の意識の共有地点の中で、それを利用する、そういった単純な法則の中に、今のブームがあるのです。
特に水晶は、電磁波に対する緩和能力が強いといわれていますが、この意思の持つ、アルファー波という、大変優しい周波数が、それと上手く融合し合うのでしょう。
何か一つ身につけることにより、外的に感じる脳のストレスを、緩和出来るとするならば、それは素晴らしい行為と言えるでしょう。
私達の生命維持プログラムの中に、水晶の持つ、情報と記憶が、有効的に働きかけたならば、逆に新しい目覚めが得られるのかもしれません。
水晶が液体になり、その能力を持ったまま、私達の生体水になる、そんな夢のような現実がもし起こったならば、新しい感性に、そして新しい宇宙から提案される、情報を、その記憶を、その水ならば、要するにその水晶ならば、可能としてくれることでしょう。
本来、地球上の生命体は、水晶と同等の能力を持つ、液体、それを生体水に作り上げることに成功していたはずなのです。
海洋深層水や、お母さんの羊水なども、同じ能力を持つ水なのかもしれませんが、今、地球環境はどんどん汚染され、自然界からそれを取ることは、非常に難しいこととなりました。
海洋深層水もその例外ではなく、かなり情報汚染され、もちろん地下水は、化学物質を多く含み、情報汚染はかなりひどいものと言えるでしょう。
そういった、超古代的な液体水晶のような、夢の水があったら、人類は新しい時を迎えることになることでしょう。
人間が生きていく上で、何気なく見栄を張ったりすることがあります。
例えば服装や、髪型や、そして高級なバッグを持ったり、高級な服を着たり、そんなこともあります。
何か虚栄心的なものではないのですが、身だしなみとか、ある種の社会生活での順位的なものも、感じることがあります。
あたかも、お金持ちそうに見える、そんな人達もいますし、また、穴の開いたジーパンが何十万円もするなんて話も聞いたことがあります。
ばかげているように見えるのですが、心の満足度の中では、とても有効的であり、そこにビジネスが絡み、コマーシャルに乗せられ、それを良いものと判断するのでしょう。
この豊かな日本だからこそ、用途を無視したデザイン性や、一点もの、ビンテージもの、そんなものに、沢山のお金を出す人が居るのでしょう。
こういった現象は、ある種の見栄であり、それは大いなるプライドに結びつく、決して悪いことではないのですが、それがある時、自分の満足を覆す出来事が起こった時、逆にそのプライドが、自分を傷つける最大なる武器となるのです。
プライドという言葉は、嫌なイメージを持たず、自分を高める非常に有効的な法則ではあるのですが、自分の考えていたものが否定されたり、自分が持っているものを批判されたり、そのように、誰もが同じ考えの中にいるわけではないので、そういうマイナス的な出来事が起こったとき、そのプライドは、自分に向けられた刃となるのです。
なぜならば、そういう現象が起こった時必ず、いらいらして、腹が立つのです。
そして、自分のプライドを傷つけた相手に対して、攻撃的になったり、二度と会うことを拒否したり、それは結果的には、自分の視野を狭くし、その怒りは、自分の中でだけ起こっている現象であり、そのせいで食事がまずくなったり、楽しかったはずの出来事が、つまらない出来事になってしまったり、せっかくの日曜日が台無しになったり、とにかく、自分にとって損な出来事が、時間の無駄を作り現実のものとなるのです。
かといってプライドを捨てて生きたならば、それも多くの問題を抱えてしまうことでしょう。
腹が立つことは、日常生活の中では沢山あります。
それが有効性を持つかどうか、単なる否定的な考え方の中で、要するに自分が思っていたことと違っていたり、それは自分が勝手に想像していた出来事であり、相手に確認したことではないにもかかわらず、自分の考えと違っていただけで、相手を批判してしまうのです。
なんてみっともない出来事なのかと、気付けば反省し、そして素直にそれを受け入れることが出来ますが、中々気付こうとすることは難しく、相手を攻撃することの方が、自分にとって楽な方法となってしまうのです。
その結果、そこからは何も生まれてきません。
そして、自分がやがて惨めになっていくだけなのです。
そこで、このプライドと虚栄心、それに、エゴというもう一つのプログラムを加え、自分を自己判断してみましょう。
少数意見を尊重する、また2人以上がいたら意見が食い違うのが当たり前、自分が考えていることが常に正しいわけではありません。
間違った考えを信じていることもあります。
また、いろんなセミナーや、公演を聴きに行き、何か凄い話を聞いたようなつもりになり、その内容について信じて実行するようなことが起こったとします。
やがてそれは、間違った考えであったことに気付くことになります。
そんな時人間は、自己否定することが、非常に下手です。
過去の実績をなくしてしまうことが、今まで生きてきた自分の否定にもなってしまうのです。
そして、その相手を攻撃し、自分を守ろうとします。
時には卑劣な手を使い、他人を巻き込んで、一緒に攻撃させようとする、そんな悪い考えを持った人達も沢山いるのです。
否定された考えが正しかった場合、それはとても残念な結果となってしまいます。
今までやってきたからといって、沢山の人が賛同してくれたり、喜んでくれたとしても、時代は流れ、時は変わり、新しい世界の中で、それはいつまでも通用することではないのです。
新しい考え方が発生したならば、やがてそれは変わっていくのです。
宗教的な意識の創設者が言っています。
「やがて、正しい考え方が表れてくるだろう。自分の考えも、否定される日が必ず来る」と。
「そして、いらなくなる日がやってくるんだ」と。
「ただ今は、これをしなければならないだろう」
確かに、真実の扉は開かれ、新しい時代はやってきます。
今までの考え方はことごとく、破壊される可能性は大きく秘められています。
人間の心も、移り気の中で、新しく変わっていくのです。