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何かが狂っている、かといって何が狂っているか分からない、それを誰も教えてくれない、でも何かがおかしい、そんなことを誰もが感じていることでしょう。
確かに、何か意図的に仕組まれ、わざとこのような世界が作られているとしたならば、それは大変恐ろしい現実となることでしょう。
確かに何かおかしい、そう感じている人は、沢山いらっしゃいます。
『こんなことをしていて良いのかな?』
『社会が進む方向性はこれで正しいのかな?』
でも、答えは見つかりません。
ただひたすら現実の中で、作られた秩序の中で毎日を過ごすのが、私達が今、出来る全てなのです。
何がおかしいのか、どこが間違っているのか、誰もがそれを知りたがっています。
また逆に、本当のことを知ったならば、どのような方向に向かえば良いのか、逆に知らない方が幸せだったと、そんな風に逆恨みすることもあるのです。
真実を知りたいというその裏腹に、真実を知りたくないという現実もあるのです。
しかし、真実は必ずその扉を開け、私達の理解する方向にと、提案されてくることでしょう。
なぜならば、嘘をつき続けていても、その嘘を繕う為の嘘まではつけるのですが、その嘘を嘘で固めようとすると、必ず辻褄が合わなくなってきます。
その矛盾を解消することが出来ないのです。
要するに、時間がかかっても、必ず真実は明かされるということになるのです。
だから、真実を知った時に、私達はそれを否定するのではなく、その真実に向き合わなければならないのです。
逃げていたならば、世間を狭くすることになります。
この世の中には、嘘でお金儲けをしようとする、そういったビジネスが非常に多いのです。
嘘をつき続けていても、いつかは必ずそれは明かされ、現実を見ることでしょう。
要するに、嘘がばれたとき、一番辛い思いをするのは、嘘をつかれた人ではなく、嘘だと分からず嘘をつき続けた方々なのです。
例えば、良かれと思ってやった、ある種の微生物のばら撒きが、自然だと思っていたのが、それは自然ではなく、かえって環境を破壊していたという現実を見た時、自分が騙されていたことに気付いても、それを正そうとする勇気は、中々生まれてきません。
自分と戦いながら、苦しい思いをするのは自分だけではなく、大いなる迷惑をこれからかけることに気がつかないことは、その人を駄目にする、絶対的な条件となることでしょう。
良かれと思ってやったことが、悪かったということは、まだまだ沢山あります。
真実を知りたい中で、もし真実と出合ったならば、後は勇気だけです。
ごめんなさいと言うべきであり、これがなければ、前には進めません。
どんなに繕っても、必ず真実の扉は開かれます。
ばれない嘘は、存在しないのです。
分かっていても、分からない振りをするだけで、やがて人間達は、そのことに気付きます。
一生懸命野菜を育て、自慢げに無農薬ですと言った、そして有機農法といったその人が、自分が作った野菜が遺伝子組み換えだということを知った時、真実を教えてくれた人から、逃げていくのです。
今までの自慢が、何の意味も持たないことに、気付いたからこそ逃げるのです。
これが現実です。
一生懸命やっていればいる程、真実を知ることは極めて残酷な出来事なのです。
有機農法、無農薬、オーガニック、とても安全な野菜を作っていた気がしていましたが、雨に当たったらこの雨がどんなに危険な雨なのか、それを知らされた時、意味をなくした時、孤独との戦いが始まるのです。
ましてやそれが遺伝子組み換えだったならば、そしてその野菜が、脳という環境を破壊する情報プログラムが狂っている野菜だったならば、どんなに大きなショックを感じることでしょう。
しかし、嘘をつき続けるのです。
悲しい出来事ですが、これが現実です。
本当に、良かれと思って、頑張ってきたのに、現実は非常に厳しく、その扉を開け、迫ってきます。
後何年もしない内に、こういった自然環境における、人間が犯した大きな罪は、償う方向へと導かれることでしょう。
要するに、真実の扉は、もうすぐ全面的に開かれるということなのです。
今良くても、未来はそれを許しません。
人類自ら、滅亡のスイッチを押している、そんなばかげた行為を、神は許すはずがないからです。
一つのことを極めれば、全てがわかる。
一を知って十を知る。
人間達の究極の願いは、悟ることであり、全てを理解することです。
その悟りを、完璧にその記憶を持った人を、私達は高僧とし崇め、未来に導くよう、教えを乞いたいものです。
悟りが開かれると、この大宇宙の法則や、生命の尊厳まで、全てが理解され、それを明快に解き明かしてくれます。
何人もの人々が、その悟りの境地に立つため、山にこもり、岩に登り、霞を食べ、悟りの世界へと、自分を追い込んだことでしょう。
しかしながら、その悟りを開かれた人が、過去に何人居たのか、本当にこれは、難しい出来事となっていることでしょう。
俗に言われる霊能者達や、チャネラーと呼ばれる人達も、未来を導こうとする人達、神の生まれ変わりと表現する人達、開祖といわれるような人達、彼らが本当に悟りを開いていたならば、そんな素晴らしいことはないでしょう。
過去における、そういった人達には、共通した一つの出来事があります。
まず悟りを開く為に、彼らは真っ先に、食という行為を拒否し、死と現実の狭間で、究極の世界を目の前にしながら、悟りという世界をさ迷い歩きながら、今の現実に戻ってきたのでしょう。
よく、素晴らしく能力を持った人達が、色んなセミナーや講話会を開かれています。
そんな中で、そういった霊能的な活動で、人を魅了される人が居たならば、本物かどうかを見分ける方法が一つあります。
悟りの境地に立つ為には、今言ったように食を断ちます。
あの釈迦も、最後は骨と皮だけになりました。
高僧達は、そういった究極の中から、悟りを開かれるのです。
分かりやすくいうと、裕福そうなふくよかな人に本物はいません。
ものをがつがつ食べる人に本物はいません。
しかしそういった人の中にも、唯一本物が居るとするならば、それは完璧な系図を持った人達に限ります。
そして宇宙語、全ての意識を言葉に変えることが出来る、そういった語源を持った人達でなければなりません。
私達倭民族は、もっと多くの誇りを持たなければなりません。
なぜならば、宇宙における素晴らしい系図を持ち、倭言葉、日本語を話し、あらゆる出来事や、もちろん物質的な出来事、また非物質的な出来事、意識や感情や、答えのない発想も、そういった考え方も、全て言葉で言い表し、それを理解することが出来るのは、日本語を話す私達だけなのです。
もし今の私達が、生まれ変わって英語だけしか教えてもらえなかったとしましょう。
きっと、歯がゆくてたまらないはずです。
もし今の記憶を持って、今の日本語の記憶をそのまま持った状態で、英語だけしか話せない自分になったとしたら、どれだけ苦しい思いになることでしょうか。
彼らには申し訳ないとは思いますが、私達は、倭という、素晴らしい系図を持ち、悟りの世界を表現するには、倭語でなければならないという現実があるのです。
これだけ多くの言葉を理解していなければ、悟りの世界を表現することは非常に難しいことと思われるのです。
あの経典が漢字で書かれているように、全ての文字が、象形文字から生まれたように、一文字が大きな意味を持つように、また、その文字に関係する言葉が、それを表現する言葉が、無限にあることを知っているのは、私達日本人だけなのです。
今の私達が、食を絶ち、高僧に向かい、がりがりになったとしても、悟りを開けるかどうかは分かりませんが、少なくとも、そういった考え方でものを捉えるのも、一つの目安となることは間違いないでしょう。
真実を知りたければ、この日本の中に、この日本語の中に、宇宙理論や現実社会の在り方や、人間の生き様や、全ての意識の根源があり、この日本以外で理解することは不可能であり、それを多くの人に伝えるには、絶対的に日本語が必要なのです。
日本人が、本当の倭民族となり、倭民族の意識が再生されたならば、悟りの境地に立つことが、誰にも出来る簡単な行為となることでしょう。
修行しなくても、食を断たなくても、それは不可能な現実ではないのです。
外国に行って、どんなに学んでも、答えは見つかりません。
なぜならば、彼らがそれを伝える言葉を知らないからなのです。
この日本語を、世界中の人が学び、世界が平和になることを望むならば、未来は輝かしいものとなることでしょう。
どんなに前へ進もうとしても、どんなに努力しても、中々上手くいかないことがあります。
それは、何かが邪魔をしているのです。
人々はそんな時、それがあなたのトラウマなのよと、そんなことを意識します。
一体トラウマとは何なのでしょうか?
どんな嫌なことがあっても、一晩眠ってしまえば、ある程度は忘れていきます。
一週間経ってしまえば、そして新しい出来事に出会ってしまえば、その悩んでいた時間が何だったのかさえ忘れてしまいます。
時間というものはとても有難いもので、苦しかったり、悲しかったりしたことでさえも、その時間により、癒されていくのです。
人間というのは、その悲しみや苦しみをいつまでも持続させず、時間と共に癒し、そして、忘れるように出来ているのです。
いつか思い出した時は、そんなこともあったよねという形で、思い出の結果とし、そこに意識が戻ることは、さほどないのです。
しかし、ものすごく辛いことや、ものすごくきついことを、そこから逃れる為に、時間という観念を捨て、急激に忘れようとしたならば、その時間が未来へと進まず、その中で閉じ込められるという結果になります。
それが例え楽しいことであっても、悲しいことであっても、辛いことであっても、そこにおける認識と観念が、それをどう捉えたかによって、その結果は違ってくるのです。
一番辛い、人間の感覚は、恐怖と別れです。
この恐怖と別れという感覚を、どう乗り越えるかが、難しい問題となるのでしょう。
ほとんどのトラウマは、この恐怖と別れの中に存在しています。
極めて危機的な恐怖と、悲しい別れが、それを忘れようとする意識の中で、いつの日にか凍結され、トラウマ化されていくのです。
その忘れようとした結果ではなく、強制的に忘れようとしたその行為は、自分の中で、要するに潜在意識の中ではその記憶は常に残り、日常生活においては、観念的に忘れてしまっていることが現実なのです。
トラウマを乗り越えることが出来るとするならば、その消された記憶を思い出さなければなりません。
しかしながら今になって考えると、自分が子どもの頃に起こった現実は、大人から見たならば、恐怖でも辛い別れでもなかったのかもしれません。
自分が親になると、子どもを叱ることなど、自分が子どもだった頃の記憶が存在しない限り、それを恐怖と感じることはありません。
逆に自分の中の、その子どものときの小さな出来事が、トラウマとなり、今の自分が前に進めない自分を、解決出来ない自分を作り上げているのです。
例えば子どもの頃いたずらをし、両親に押入れに閉じ込められたとしましょう。
その暗闇の中で泣き叫び、出して欲しいと願った子どもが居たとしても、大人から見たら、押入れの中は何の恐怖もない、逆に昼寝でもしたら丁度、良いような空間に過ぎないのです。
そんな感覚の中で物事を捉えると、子どもの時、押入れに閉じ込められた、その暗闇の恐怖、その恐怖から逃れようとして、潜在的に閉じ込めたその記憶が、大人になって、一体なんだったのか分からなくなっているのです。
要するに、トラウマは、その時の自分に返らなければ、その同じ恐怖を味わうことは出来ないのです。
そしてその恐怖から、立ち直ることが出来ないのです。
あなたのトラウマは、その子どもの頃の記憶なのよといわれても、なにそんなことで悩んでいたのと考えてしまったら、何の意味もない出来事になってしまいます。
大人になってからの辛い出来事や恐怖は、子どもの頃感じた、別れや恐怖とは違うのです。
だから、大人になってからそのことを思い出したとしても、トラウマの解決にはならないのです。
ではどうすれば、トラウマから抜け出すことが出来るのでしょうか。
自分を、その記憶を、子どもの頃に戻さなければ、それは何の解決も出来ないことになってしまいます。
子どもだった自分は、そんな小さなことが、死ぬ程、怖かったに違いありません。
買い物に行って、親からはぐれてしまった子どもが、泣きながら親を探した、そんな記憶が、恐怖という観念を植え付けてくるのです。
この分からない所に存在する、そういった意識を、思い出すことはとても大切なことですが、そして、その時の記憶に戻り、自分に対して、もう大丈夫よと、大人の自分が、子どもの自分を、いたわる必要があるのです。
そして、もう大丈夫と何度も言い聞かせながら、その記憶を癒し続けるのです。
何だそんなことだったのかと、そういう考えを持ってはいけません。
もう大丈夫だよと、いたわる思いがない限り、トラウマからの脱出は出来ないのです。
求力という言葉を、皆さんは耳にしたことはほとんどないと思います。
力の関係の中には、圧力とか、重力とか、引力とか、そういった言葉は、よく耳にすることがあります。
当然、色んな力の方向性があるのですが、圧力や重力は、日常の中で感じることであり、そこには確実に現実が伴っています。
ただ引力というと、万有引力の法則があるように、余りにもそれは大きな存在であり、認識することは難しいものであったとしても、宇宙図を見た時に、地球の位置や太陽系の関係を把握する上では、それは常識的な考え方の一部に過ぎないことは言うまでもありません。
ここで、初めて出てくるこの求力という言葉を、そして、この求力から求められるエネルギーについて、新しい力学的な感性の中でこれを理解しないと、私達はある種の不可思議な行為に対する現象を捉えることができません。
よく、必然的な理論の中で、あなたと私は出会うようになっていたのよとか、この現実は、もう初めから決まっていたことなのよと、そのような話を聞くことがあります。
なぜそのような現象が起こるのか、お互いが求め合う恋愛関係の中でも、人を好きになったり、逆にその人の好意を受け入れたり、愛情をかけてあげたり、その愛情を受け取ったりする行為の中に、こういった意識的な現象が、お互いにそれを受け取る為には、そこに、絶対的な条件として、エネルギーが存在してきます。
それが、求力エネルギーなのです。
この求力エネルギーは、目に見えないし、物で測ることは出来ません。
重力や圧力は、数値で表すことが出来ますが、求力エネルギーは、数値で表すことが出来ない、最も不可思議な存在なのです。
しかしながら、このエネルギーが存在しないと、証明出来ないことが、余りにも多いことも現実なのです。
特にスピリチュアル系の意識の中では、この求力エネルギーの存在は不可欠であり、この求力エネルギーを理解した上で、そのエネルギーを有効利用したならば、私達は、最も不可思議な現実を、目の前にすることが出来ます。
例えば、次元図の上にワインを置き、負次元から正次元へと、意識しながら行為を行う時、私達の求めようとする力がそこに作用し、この求力的なパワーが、そこのエネルギーと融合しながら、現実へと表れてくるのです。
私達の思いは全て、求力とエネルギーによって、それは求める方向へと進むことが出来るのです。
また逆に、求力エネルギーを、例えば車に、その感性的な法則の中で、乗せ変えることが出来ると、車が辿り着こうとしている目的地を、その車の中に積んだ、例えば水に、それを意識してあげたならば、目的地にたどり着こうとする、要するに、目的地へ向かおうとする意識が、それを求める力へと変換され、求力パワーが生まれてきます。
その力を上手く利用すると、ガソリンが思ったよりも減らない、そんな不思議な出来事が、起こり得る可能性は非常に大きいのです。
私達が意識を持って求めなければ、何も解決することはありません。
意識して何かを要求している時に、必ず生まれるのが、求力エネルギーなのです。
これからの時代、高次元化していく新しい三次元が、私達の観念の中から、新しい日の出を見るとするならば、この第4のエネルギー、求力こそが、意識や現実の、高次元化の中で、大いに存在してくることでしょう。
極めて不可思議なこの出来事は、私達人間には、現実の中で理解することが出来ない程の、特殊なパワーを持っているということなのです。
人間達はまだ、自分達が持つ全ての能力を、理解してはいないのです。
この人間が持つ、優れた能力の一つが、求力エネルギーという、求める方向へと進み、また、求めるものを引き寄せるという、大変素晴らしい、このエネルギーを有効利用したならば、そして必ずそこに、人間の意識と、物質的な重力とが上手く関与したならば、現実は大変面白いものとなってきます。
この求力エネルギーの出現により、私達人類は、新しい方向へと進んでいくことでしょう。
この利用方法は限りなく、意識で環境を変えたり、願うことにより、現実を変えたりすることが、そしてそこに存在するエネルギーが、この求力エネルギーなのです。
これからの新しい時代、誰もがこのエネルギーを手にすることが出来ます。
これが高次元化された、私達の未来に訪れる、大変素晴らしい行為なのです。
今の地球で生きる私達は、限られた社会の中で、いかに充実的に生きるかが問われています。
一体何の為に生まれ、どこに向かっていくのか、そんなことを考えてみても、結論は見えてきません。
今私達が自由に暮らしていると思っているこの世界が、もし、ミツバチの巣のようであったら、あの働きバチ達は、何の為に生き、何の目的を持って、あの巣の中の秩序を保っているのでしょうか?
もし私達が、そして私達の生き方が、あの働きバチと同じ環境の中で、同じ行動をし、この社会という中で生き続けているとしたならば、それは、とてつもない洗脳と、社会の仕組みが必要となってきます。
蜂の巣があれ程にまで、緻密に計算された活動と、そして巣を守り、未来へと繁栄させていくその仕組みが、あの徹底された管理は、一体誰がどのように行っているのでしょうか?
女王バチでさえ、あの巣の中では、管理されているのです。
一体その、目に見えない力は、どういった形で存在しているのでしょうか?
あのハチの巣を見た、ある種の人々は、人間も同じような形に、そう、自分達の思い通りに動くことを望み、その計画を立てていったのです。
全世界は同時に同じような方向に動きました。
なぜならば、考えることは、等しく平等な世界を作る意識の中では、共通のテーマの中に存在するからなのです。
支配者達は、まず、宗教でそれを抑えようとしました。
自由意志の中で、宗教という洗脳は、とても有効的に使われていましたが、要するに、恐怖と甘えが、同時に存在する世界は、依存管理がしやすいということになるのです。
何に依存させるかはそれぞれの考え方で色々ありますが、基本的には不安を与え、洗脳させ、心地よい眠りを与えてくれるのがその原点なのです。
そこに併せて、社会管理の法則が存在します。
その中で、一番大きな役割を担ったのが、教育です。
教えて育てる、教える側の答えを正しいと認識させ、必ず疑問に対して、答えを求めるように洗脳するのです。
自由を全く認めず、管理された意識を作り上げるには、一つの答えに、そこに向かわせることが、容易く洗脳させることの出来る、最も簡単な方法なのです。
疑問を与え、答えを持っている人が、優位性を持ちながら、上から目線で、管理に入るのです。
宗教も、そこに教えという世界が存在し、高僧達は、またそれに類似した人達は、高い位からものを見下ろし、そしてあたかも自分が持っている答えが全てのような振る舞いをし、そこに救いを求めた人達を、手中に収めていくのです。
余りにも簡単過ぎるこの手口に、簡単過ぎるからこそ、そこに飲まれやすいのです。
教えられた社会は、さほど大きな変化を見せず、学んできたことも、この社会では役に立たないことの方がはるかに多いのです。
なぜそこまで学ばなければいけないのか、洗脳させる一つの方法として、集中力があります。
目標を与え、そこに向かわせ、そして解放と自由を望めるかのように見せかけ、洗脳していくのです。
このように、教育と宗教、そして、社会秩序と法律に、がんじがらめにされながら、私達は今生かされているのです。
この大きな人間という集団が、あのハチの巣と同じ生活を営んでいるに過ぎないのです。
ただし、ハチの巣は少なくとも団結しており、仲間同士が戦うことはありません。
人間は経済という社会の中で、破壊を繰り返し、そこからまた経済を生み出し、この社会を作り上げているのです。
この地球上で最も残酷な生命体、それが人間なのです。
このような社会から抜け出す為には、自然界の法則を学び、周りをよく観察し、今までの生き方の中の、何を選び、何を捨てるのか、しかしながら、ここまでも見事に作り上げられた社会は、私達の今の力では、どうすることも出来ないでしょう。
せめて自由であって欲しい。
肉体的には管理されていても、意識や心は、自由に、そして未来へと向かうことが出来るはずなのです。
洗脳する為に作り上げられた、宗教的意識からの奪回、まずはそこから始めましょう。
優れた開祖達も、結局は集団を作り、そこに学ぼうとした人達から、暴利をむさぼっているのです。
このような情けない出来事は、今の現実なのです。
ましてや本物ならともかく、偽者が多いのも現実です。
自由意志の中で、目を覚まして下さい。
倭民族は、その優れた能力の中に、全てを理解する力があり、日本人ほど平和な民族はいないのです。
世界の人々がもし、この日本に住んだら、平和な民族へと進化出来るはずなのです。
縄文時代には、争いごとは、一度も起こらなかったと言われています。
その頃の日本人の豊かな心に戻れる日を、そしてそういった社会に変わることが、一番望ましい出来事なのです。