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不安定な社会生活を営むようになって、現実と非現実を上手く使い分けることも、難しい時代になってきました。
 なぜならば、余りにも不可思議な行為が、目の前で必然的に起こり、それを否定するには、肯定するより反って難しい出来事が多過ぎるからなのです。
マジックなのかトリックなのか分からないような、本当に素晴らしい、ああいったショーもありますが、実際、神を超える程の不可思議な現象も、いとも簡単に作り上げてきます。
目の錯覚とか、観念における感覚のなさの中で、繰り広げられることなのかもしれません。
また、アセンションとか、高次元化とか、UFOはもうすでに来ているとか、宇宙人が沢山存在しているとか、また、恐山のイタコさんや沖縄のユタさんのように、特殊な能力を持った人達も沢山いらっしゃいます。
中には、未来を読むことが出来たり、人の心の中に入り込んだり、自分でさえ忘れていたような出来事を、簡単に見つけてくれるような、不思議な力を持った人達は沢山居ます。
今までも、ノストラダムスのように、この世界において、大変素晴らしい予言使者達は、何を残したかったのでしょうか。
また、特殊能力を怖がったヨーロッパでは、魔女狩りという形で、沢山の命を奪いました。
信じる者と信じない者とでは、全く違う感覚で、そういったことを理解するに違いありません。
唯物論者は、常にそういった不可思議的な行為を否定しようとしますが、それを否定したところで、何の価値も、また意味もありません。

ここで一つ提案したいことは、そういった特殊な現象に対して、まずは否定することをやめるということです。
かといって、肯定しろというわけでもありません。
とりあえずそれを保留することにより、いつかそれを解き明かす日が来ることがあったとしたならば、それは保留することにより、理解される出来事となるのです。
否定しては、全てが終わりです。
そういった面から、私達人間は、人の考えや、不可思議な出来事や、超常現象に対して、まずは知的に保留することにより、そういったものに対する可能性を残すことが出来るのです。
これからは、それらを否定するのではなく、こういった方法が望ましいのかもしれません。
私達がこれから見る、目の前に起こる現象は、誰もが否定したくなる程の、すさまじい光景となる可能性が大きいのです。
これまでも常に、未来を予想し、一分でも一秒でも早く何らかの手を打つよう、情報を発信してきましたが、その情報が未来にとって、絶対的なものとは言うことは出来ません。
ここで発信された、過激な法則と意識の中で、それを信じるか信じないかは、さほど大きな問題ではないのです。
そういった考え方が存在していることを、一度何らかの形で、記憶の中に保存することにより、要するに、知的に保留することにより、もしそういったことが起こった場合、対処方法が見つかってくるのです。
全否定したならば、もし正しかった場合、何にも対処することは出来ません。
それどころか、逆に自分の未来をなくし、さまよう結果となることでしょう。
何らかの形で未来を予測し、起こりうる現象を想像し、それを否定しないでおけば、もしそれが起こったとしたら、その時に有効性をもたらすような方向に、自分を導いてくれるはずです。

今までも、これからも、この危機的な地球の中で、未来を予測し、過去の過ちを認識し、情報を発信していきたいと思います。
この発信された情報が、役に立つのか立たないのか、そんなことは、未来の中で理解される出来事であり、今それを議論しても、何の意味もないことなのです。
不可思議な出来事や、未来予測は、絶対に正しいというようなことは言えません。
しかし、そんなことを目にすることが、未来の中で小説をも上回るほどの、予測を超えた出来事が起こった時、一度聞いておいたことがどれ程、役に立つのか、それは計り知れないものがあるのでしょう。
過ちを批判するのではなく、過ちであって良かったと、そのように考えてあげたならば、2012年問題を語った人々にも、もしそれがなかったとしても、優しく振舞うことが出来るでしょう。
反ってそれは、良かったことなのだと考えれば、それで済むことなのです。
逆にもっと、厳しい時代がやってくるかもしれません。
未来の予測の中で、一番理解に苦しむのが、人間達の行動なのです。
予測不可能な行動を、人間は常にとるのです。
しかも意識をはずしたところで行う行為は、誰もがそれを理解することは、難しいこととなるでしょう。
突拍子もない発想と、意識の中で、力を持った人々がどんな過ちを繰り返すのかは、想像の域を出ることは出来ません。
未来で起こる現象を、今、理解することにより、回避する方法がもしあったならば、それは貴重な情報となるでしょう。

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暑さ寒さも彼岸までという言葉があります。
確かに、今年は3月20日がお彼岸ですので、その頃になると、暖かくなる、そんな気もします。
また、秋のお彼岸になると、寒くなり、冬を待つことになるのでしょう。
農耕民族であった倭民族は、また、このアジア圏に住むこの関係の中で、節分や春分、また秋分や、そういった季節を表す言葉の中で、農業と共に、生き続けてきた、それが私達なのです。
お彼岸の意味をもう少し紐解いてみると、彼岸という言葉は、言霊の中では、もう一つ、必ず叶えたいと願う、悲願が存在してきます。
やはり悲願を遂げることが、とても素晴らしいことに思われます。
春、農家は種まきをします。
その種が大きく実り、沢山の収穫を得られることが、農耕民族にとっては、悲願なのです。
その彼岸の中に、意識や思いが強く存在し、希望した未来が、結果をもたらしてきます。
現実は、そういった希望から始まり、結果へと繋がります。
何を希望するのかは、今のような社会になってみれば、皆さん全員が農業をしているわけではありませんので、この希望する未来を、人それぞれの自由の選択の中で、意識することが出来るのです。

3月20日の午前0時、閻魔大王が管理する、地獄の釜が開かれると言われています。
この地獄の釜のふたは、3月21日の午前0時までの、24時間開かれます。
この釜が開いている最中に、たくさんの願い事をします。
叶うか叶わないかは別として、そしてそこで、約束が交わされています。
願いを掛ける以上、その願いを叶える方向に、自分も自然も、神々達も動かなければいけません。
自分に出来る何かを選択し、その悲願とともに、秋の彼岸まで、自分に出来る行為を行わなければなりません。
要するに、ここで願掛けをし、それが結果として、いい結果をもたらしてくれたならば、秋のお彼岸は大変素晴らしいものとなるでしょう。
農耕民族達は、秋の彼岸から収穫に入り、その収穫の喜びを五穀豊穣の祭りとし、大いに盛り上がり、神様に感謝したものでした。
秋祭りが春祭りよりも盛大に行われるのは、やはり収穫が最大の喜びだからなのでしょう。
何を得るかという、そのものではなく、今の社会では、人それぞれの中で望まれた、その思いの結果が、秋までに叶ったならば、それは大変素晴らしいことと思われます。
1年が、365日、あるというわけではないのです。
その中の彼岸から彼岸までの間の、この中で、農耕民族達は精一杯の努力をし、この倭の国で生き続けてきたのです。

残された冬は、また冬としての、身体を休めたり、藁草履(わらぞうり)を編んだり、日常生活における、環境を整える為の、色々なことをしていましたが、春から秋にかけてのその間は、農業に従事し、生きる為の、食料の確保、そして、植物達が成長していく喜びと共に、花が咲き、その前に芽が出て、そして実が付いてくる、稲に花が咲くと、もう人々はうきうきしながら、その小さな花に魅了されたことでしょう。
豆の花はとても美しく、ソバの花も、健気で可愛いものです。
そんな素朴な花を見ながら、農業を楽しんできたのです。
また田植えの準備をする前に、もう、田植えをして良いですよというおしるしが、それが山桜の開花なのです。
桜が咲くとお花見をし、これから農業が始まるぞという喜びと共に、田畑を耕し、その準備にかかるのです。
真っ先に実るのが、庭に植えられた、梅の実でした。
夏は物が腐りやすいので、真っ先に梅の実が実り、梅干を作り、おにぎりやお弁当が腐らないように、この梅の実が、初夏を告げ、夏の準備をさせてくれるのです。
それと同時に、杏が実り、その美味しさに、喜びを感じたことでしょう。
花が咲き、実が実る、その為には、田畑を耕し、肥料を与え、最善を尽くす人々が居るのです。

実りの秋を迎える為には、やはりそういった努力が必要なように、地獄の釜が開くこの日に、自分の願掛けをし、それが結果として表れてくる為には、やはり今何をするかが大切なこととなるでしょう。
しかしながら願いから始めなければ、今の自分を動かすことは出来ません。
閻魔大王は、決して厳しい大王ではありません。
その厳しさの中に、最大なる優しさと、人々を導こうとする、思いが存在しているのです。
その怖い閻魔大王様に誓うわけですから、その思いを遂げるよう、秋に良い報告が出来るよう、今年の計画を立て、そこに悲願するようにしたいと思います。
地獄の釜は、24時間しか開きません。
ここでの悲願は、非常に有効的であります。
試してみてはいかがでしょうか?

人間というのは、絶対に1人で生きていくことは難しいといわれています。
確かに今の環境の中では、農家が食べ物を作ってくれたり、漁師が魚を取ってくれたり、衣食住全てが、なんだかんだの形で、多くの人にそれは守られて、今があることは間違いありません。
お金を出して買っているのだから、当たり前という考え方はありますが、でも本当に、お金で全部買えているのでしょうか?
社会の仕組みがそうなっていて、そこにお金が絡んできているだけなのかもしれません。
確かに、魚は海に沢山いますし、それを捕るのが漁師さんですが、魚を海で大きくしてくれるのは一体誰なのでしょうか?
野菜を大きく育ててくれるのは、一体誰なんでしょうか?
家を作った時、杉の木で柱が作られていました。
この杉の木は、確かに人間が植えたのですが、肥料もやらずに、どうやって大きくなったのでしょうか。
そんなことを考えてみると、当たり前のことですが、自然界って素晴らしいなと思います。
それは、自然の恵みであり、神々からのプレゼントなのです。
ただそこにちょっと人間が手を加え、そして、少しだけ工夫して、私達の現実のものとなっています。

鶴の恩返しの話を聞いたことがあります。
皆さんもこの話をよく知っていることでしょう。
罠にかかって傷ついていた鶴を、傷を治療して放してあげた話ですよね。
鶴は恩返しに、機織り(はたおり)で立派な布を織ってくれたという話ですが、この話から、実際、鶴が現実の中で恩返しするはずがありません。
罠を仕掛けたのも人間ですから、本当なら鶴は、怒っているはずですよね。
なのに怒らず、恩返しをして、帰っていく。
こんな考え方って、凄いなと思いませんか。
今の世の中では、恩を仇で返す人のほうが多いような話も聞きます。
確かにそういった目に、何度も遭遇しました。
自分のエゴかもしれませんが、それは、仕方ない人間の生き様なのかもしれません。
恩を仇で返した人達がのうのうと暮らし、平気な顔をして、お金を借りた人が返さずに平気な顔をしている、騙し取った商品を、平気で使っている、こんな社会の中で、鶴の恩返しは、余りにもきれいな話になっています。
私達も、この鶴のような、その時の気持ちに、今自分の照準をあわせ、この地球や、環境に対して、やはり恩返しをしなければいけない時期がやってきたのではないでしょうか。

自然の恵みがいつまでもあるとは限りません。
太陽が、いつまでも輝いているとは、言い切ることは出来ないのです。
今氷河期を迎えようとし、環境はこれから著しく変化していく、そんな時代に入りました。
水がいつも、田んぼの中にあり、稲がスクスク育ち、お米が沢山採れる、そんなことも、もうなくなってしまう可能性すらあるのです。
日本人の一番好きな、子どもの頃とっても楽しみだったのが、秋祭りです。
五穀豊穣を祝う秋祭り、神様に、その年取れた供物をお供えし、そして感謝し、人々がそのお祝い事で、酒を飲み、楽しい一夜を過ごすことでしょう。
これも、自然に対する、その恩恵を、尊敬した上で、神という名の下で感謝し、そして、迎える冬に備え、また、春を待つ、そんな農耕民族の中で行われている、とても神聖な儀式なのです。
そんな中で、人々は恩返しという形で、神様に供物をお供えするのです。
やはり、この自然の中で生かされてるその現実を忘れることなく、常に感謝の気持ちを持っていなければなりません。

恩を仇で返すような、世知辛い世の中になっていますが、自然はどんなにも、私達人間に、その恵みを無償で与えてくれるのでしょうか。
天の喜びは、無償の愛であり、人々が、そして命を持つ全ての者達が、平等に受け取ることの出来る、本当に素晴らしい現象です。
ある人が特別な力を持ち、選ばれた人達だけに何かをするのではなく、この宇宙や、地球や、大地は、いつも平等に、光と水を与え、特にこの日本は、豊かさで言ったならば、世界に類のないほど素晴らしい環境の中に存在しているのです。
ただ感謝するだけで、自然の環境を、いつまでも守り抜くだけで、倭の人達は、大変多くの恵みを得ることが出来るのです。
そこに出来る恩返しは、ただただ感謝するだけで良かったのです。
先祖に感謝し、大地に感謝し、光と水に感謝し、そして、この大自然の恵みに、私達は生かされているのです。
人間達が、ものを育てたり、作っているわけではないのです。
自然の中で、その恵みの中で、私達は工夫して、それを頂いているに過ぎないのです。
感謝を忘れないようにしたいものですね。

皆さんは、心はどこにあると思いますか?
人間が、肉体を持ってこの世に存在した時、一番先に出来るのが心臓といわれています。
要するに、受精卵からストローのようなものが生まれ、一番先に小さな心臓が生まれてくるのです。
そしてその心臓が血液を送り出しながら、やがて脳の形成となり、そして各臓器や、手足が出来上がってくるのです。
お母さんから生まれて、真っ先に「あ」の音で、自分の存在を明らかにします。
大きな泣き声は、地球や宇宙に、自分の存在を明らかにする、そんな現象の一つでもあるのです。
肉体が完全に出来上がった後、そこに宿る本能に従い、赤ちゃんは大きく育っていきます。
そして、3歳を迎えた頃、自我の確立が起こり、性格というものが明確になっていくのです。
その性格に反映しながら、肉体と意識のエネルギー交換の中で、意思という、決定的な感情の存在が明らかになるのです。
心というものは、そういった全ての感情を、融合させた中に存在し、一つ一つを分けずに心という判断をするのですが、非常にこの心は厄介なもので、その日の感情や意識に、大きく左右されながら、変化の連続の中に存在しているのです。
今まで泣いていた赤ちゃんが、いきなり笑い出すのは、当たり前の現象に過ぎないのですが、これは意識という世界から見たならば、非常に不可思議な現象の一つでもあるのです。
猫の目のように変わりつつ、喜怒哀楽を表現しながら、心は不安定な中に、一番の心地良さを求めて、肉体と感情の狭間の中で、その存在を明らかにしているのです。
しかしながら、この心という、象形文字の出来上がった由縁の中に存在しているのが、肉体における臓器ということになるのでしょう。
胃があって、心臓があって、肝臓腎臓があって、何か感情というものは、こういった臓器に、かなり影響しているものと思います。
恋を患って、ものが食べれなくなったり、胃が痛みを覚えたりすることもありますし、怖い出来事に出合った時、心臓が締め付けられるような、圧迫感を感じることもあります。
 はらわたが煮えくり返るとか、腹の虫が収まらないとか、なにか、臓器との関係の中に、感情が大きく左右するような気がします。

最近、臓器移植が沢山、行われるようになりました。
もし、心という、そういった感情が、臓器と密接的な関係であったならば、人は肉体と心によって、人間という形で、社会に貢献出来ているのですが、そして私達が最も大切にするものは、自分を含め、心の在り方なのです。
そんな所から考えたならば、他人の臓器をもらったその人は、どんな形に意識は変化していってしまうのでしょうか?
聞いた話ですが、臓器移植を受けた方が、今までタバコを吸っていなかったのに、タバコを吸いたくなったという話を聞いたことがあります。
やはりそのような現象は、起こるのでしょうか。
臓器の一部ならばまだしも、心臓をそっくりもらってしまったならば、それは考えられる現象なのかもしれません。
心と臓器が、非常に大きく関わっているとするならば、今行われている臓器移植は、心の移植でもあるのです。
そういった観点から物事を捉えたならば、そこをどう乗り越えていくのか、一つ大きな課題を残すことも現実なのでしょう。
しかし、医学が進み、こういった現状で、救われる人は沢山居ます。
だからこそ、その心をもう一度反映させ、逆にその提供者の心と共に、二人分生きなければいけないのかもしれません。
二つの心が一つになり、未来をどう変えていくのか、そんなことを考えながら、そういった現状の中で未来を見つけたならば、とても素晴らしい結果になるのかもしれません。
それを逆に捉えたならば、かえって苦しい毎日を繰り返すことになります。
自分の考えと違ったならば、非常に苦痛を憶えることとなってしまうでしょう。
ただ生きられればいいというわけではないのです。
しかしそれを、素晴らしい方向に考えたならば、社会に貢献出来る、大チャンスを手にしたことになります。
考え方一つで、本当に心の在り方一つで、未来は自由に、自分のものとなるでしょう。
肉体におけるトラブルは、そして臓器のトラブルは特に、心に大きく作用していきます。
健全な心は健全な肉体に宿ると言いますが、逆に健全な肉体を作り上げていくのが、健全な心ということになります。
どちらかというと、後者のほうが正しいように思われます。
心を安定させることが、健康の第一歩であり、近道であるとするならば、心を大切にすることが、最も必要な出来事といえるでしょう。

誰もが悪魔というと、すごく怖いものを想像しますよね。
でも、本当に怖い悪魔だったら、誰も近づかないし、その悪魔に騙されることもありません。
天使と悪魔の違いは、人を騙すか騙さないか、また、危害を加えるか加えないか、そんなわずかな違いに過ぎないのです。
私達に忍び寄る悪魔の存在は、天使に似た優しさを持ち、そして、言葉巧みに近づいてきます。
恐ろしい悪魔であればすぐに見破られ、嫌われてしまいますので、当然悪魔は、優しいのです。
そして、そのチャンスを窺いながら、忍び込んでくる、それが悪魔の存在なのです。
何か無理な願いごとをしようとした時、「分かりました。その願いを叶えてあげましょう」と、そういったならば、必ずその存在は、悪魔ということになります。
いくら神々でも、無理難題は叶えることは出来ないのです。
そして、その優しい悪魔は、その人の心の中に住み着き、その心を美味しそうに食べながら、微笑を繰り返すのです。
心を食べられていることにも気付かず、なんて居心地が良いんだろう、そんな風に考えた時、その悪魔は、舌を出しながら、この馬鹿な人間共が、と言っているに違いありません。
癒し系と呼ばれる存在の中に、そういった類のものが多いことは間違いありません。

スピリチュアル系貧乏という言葉を聞いたことがあります。
何か意識の解放を求め、アセンションや未来を求め、素晴らしい感性を身に付けようとして、そしてそこから何かを学ぼうとして、その場に立ちますが、心地良さと安らぎを与えてもらえますが、何もそこから得るものはありません。
でも、そこに行くと安心感があり、何か気付きを与えてくれるものと勘違いし、その人のその主催者による愛を感じ、そこに沢山のお金を投じるのです。
優しい悪魔は、優れた能力を持った、天使ではありません。
姑息に人を騙す、テクニシャンであり、知識をさも自分の能力かのようにひけらかし、自分の自慢話をしながら、そういった人達を騙し続けるのです。
しかも、起こる現象は、物質的に確認出来ないことの方が多いのです。
「あなたに新しい何々を授けます」また「新しい何々を降ろします」また「新しい何々を与えます」何か素晴らしい出来事のように感じますが、それらは全て、確認することが出来ません。
やがてそこにのめり込みながら、知らず知らずの内に堕ちていってしまうのです。
なんだかそこに行かないと安心出来ないような、そんな窮地に立たされ、そこを求めていってしまうのです。
現実を見失う意識の中で、とても心地の良い時間を得ることが出来ます。
それはお金で買う、偽りの時間に過ぎません。

私達人間は、この地球上に生きる、最も高意識体の存在です。
ましてや、倭民族、この日本人は、宇宙全体を表す言葉を持ち、意識や思いは、私達の言葉で表現することは出来ますが、日本語以外にはこういった能力は全くありません。
ムー12民族の中で最も高い地位にある倭民族は、一人ひとりが神であり、どこから何かを得るものではないのです。
内なる神を目覚めさせ、過去を清算し、気付きの世界から、悟りへと自分を置き換え、そうすることにより、この世の中、全ての現象を理解することの出来る、優れた民族となる、そういった素質を持った、私達倭民族は、そこに到達出来る、世界で選ばれた民族なのです。
この多くの感情を表す言葉を持ち、全てを解決する言葉を持ち、全ての法則を理解する言葉を持ち、そして悟りという世界で、大宇宙の法則そのものを、記憶から蘇らせることが出来るのです。
顕在意識とも言われるこの超意識体の中に、隠された私達の能力があるのです。
この倭というこの日本に住み、日本の環境の中で、夏や冬を味わい、そして季節のものを食べ、この日本に居るからこそ、日本の文化と、食事の中に、そして自然環境の中に、私達の脳裏の中に、埋もれている、本当の能力を蘇らせることが出来るのです。
日本にいなければ、絶対その能力を引き出すことは出来ません。
諸外国に行っても何でも、優しい悪魔に触れた、ささやかな豊かさの中で、自分を置き換えているに過ぎません。
かといってその優しい悪魔が、全て悪人というわけではありませんが、私達倭民族が、裸足になり、この大地を、そして天を仰いだ時、心の奥底から、日本で生まれたことを感謝し、日本語で話せることを感謝し、この季節の中に生きられたことを感謝し、そして神々との融合を図りながら、意識を研ぎ澄まし、今を見ることです。

悟りは開かれます。
今こそその時なのです。
靴を脱ぎ、大地に跪き、感謝の祈りは、内なる神を目覚めさせることでしょう。
惑わされないで下さい。
優しい悪魔に、私達倭民族は、何も学ぶことはありません。
この日本で、今を生き、現実を見失わないようにして下さい。
必ず、希望は遂げられます。
意識して下さい。
望んで下さい。
願いは叶うはずです。

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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