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 とても気の強い人が居たとしても、又すごく優しい人や、他人にはとても優しく穏やかに見える人でも、一つだけ大きな弱点が存在します。
 それが自分の弱さを露呈してしまう、そして自分へのこだわりと、それをカバーする為の、とてもずるい法則が存在しているのです。
 タバコを吸っている人がその吸殻を、道路に捨てたとしましょう。その後ろを歩いていた人が、それを注意するなんて光景はほとんど見る事が出来ません。本当は注意したいと思っていても、勇気がなくて又、逆上されたら困るので、自分をかばう事により注意する事をしないのです。この時どちらの人の方が、悪いのかと言うとそれは2人とも悪いと言う答えになってしまいます。ここが難しい所なのです。人間とはとても弱い存在なのです。
 自分にとって、一番弱い自分を知っているのは、本人そのものなのです。そこをどう克服していくのか、これが一番難しい問題なのです。
 本当に強い自分が居れば、もし自分が間違っていたら、正直に謝ってくるはずです。でも弱い自分はそれをせず、さも自分が正しかったかの様に多くの人に振舞い始めるのです。これは自分の弱さを、見事に表現している現実なのです。
 人の賛同を得なければ、怖くてたまらないのでしょう。
 小さな子どもが、母親の後ろに隠れながら、向こうの子どもに、あかんべぇをしています。でも、もし母親の陰に居なかったならば、その子はそんな事が出来たでしょうか?そんな子どもの頃から培ってきた、そういった社会の中で守られている自分を、どう確認し合うのかはその人の環境に、大変大きな存在となっているのです。
 要するに仲間意識という、上手くいっている時はとても素晴らしい事なのですが、間違った事をしている仲間を、仲間だからといってかばうとてもみっともない集団に過ぎません。そしてその悪い仲間に、他の人も誘い込み、巻き添えにしたならば、身勝手としか言いようがありません。その様な大人が増えている事も確かなのです。
 その始まりは、子どもの頃、両親に守られていたという甘えから今度、子ども達を守るという立場になっていても、変わる事の出来ない愚かな存在なのです。
 今、私達が一番考えなければいけない事は、勇気を持って地球の未来を考え、未来の子ども達がこの地球で安全に暮らせる様に、それを可能と出来るのは今、居る大人達しかないのです。ここで変えなければ、永遠に変わる事はありません。
 影に隠れてこそこそしながら、人の悪口を言っているようでは、未来は何一つ変わっていかない事でしょう。そのみすぼらしい姿を誰もが確認しています。本人だけが分からない、とても滑稽な姿なのです。
 自分の弱さに自分が負け、そして何かにすがる様に自分を失くしていってしまう。
 誰かに頼らなければ生きていけない環境問題が、とても不安定な中に今在ります。社会的にも未来がどうなるか分かりません。
 結婚している夫婦であってもそこには、安心とか、安定とか、いつまで続くか分からないのです。
 もちろんそれは、恋愛に関しても同じ事が言えるでしょう。
 人を信じるには、大変大きな勇気が必要です。この人に裏切られたならば本望という、その位まで信じ合わなければ、何の意味もない事となってしまう事でしょう。しかし現実は営利で結びついており、この営利が金銭的であったり、心の豊かさであったり、テーマに向かう力であったり、それぞれ形は違っていてもその世界の中で、欲という現実が存在している事は間違いないのです。
 お金だけをテーマにしてしまったならば、必ず道を外す事になる、そういった時代が今来ているのかもしれません。
 将来の不安からお金を集め、そして安心を得ようとしても、それは余り好ましい事ではないのかもしれません。それよりもやはり強い自分になれる様、何があっても負けない、そういった自分がそこに居たならば、何の不安も感じる事がないでしょう。
 これから起こるかもしれない大変大きな出来事の中で、地球上どこに行ってもそれは回避する事が出来ないのです。
 なぜならば、人類が一つになってこの地球を破壊したから、神の裁きは平等に受けなければならないという現実が、そこにはあるからです。

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 鏡と言うと日常生活の中に余りにも沢山存在し、朝起きると洗面台に鏡が有り歯を磨きながら自分の顔を見て、トイレに行って手を洗うとそこにもまた鏡が有って、あちこちに鏡が存在して自分の姿を幾らでも見る事が出来ます。
 その昔は神々の神事の中で、銅の鏡はとても大きな魔力を持っていました。そして鏡による政(まつりごと)は一番初めに、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)に向けられました。そこに映し出された見事な美しさに惚れ惚れしながら、岩戸を開けてしまったという神話があります。
 鏡はそれ程、魅力的でありその人の全てを映し出しているのかもしれませんが、ここに実は大きな勘違いが存在しているのです。自分が見ている鏡で、自分の顔は常に逆に映ります。要するに左右が逆なのです。これは大変大きな出来事であり人から見られている姿と自分が見ている鏡の中は全く違うという事を、早くに確認して下さい。
 分け方も顔つきも、ボタンの留め方も、全て真逆に映るのです。その逆に映った自分を見てそして納得させようとしても、周りの人が見ている自分とは確実に違うのです。写真を見た時と鏡を見た時では、随分違って見えるのもそのせいなのです。
 自分の身の回りに有る沢山の鏡の中で、現実には存在しない自分を見てその姿を納得させながら、そのもう一人の自分と上手く付き合いながら、私達は日常生活を送っているのです。鏡の中に居る自分は、明らかに現実の自分ではありません。その事を早く知って下さい。
 自分への疑問を自分が解決する一つの条件として、鏡と対話してみてはいかがでしょうか。
 逆にその中に居る自分、要するに映し出された自分が自分ではなくもう一人の自分だとしたならば、面白い会話が出来てくるのです。この時、意識を変えてみて下さい。今までは自分が、鏡の中の自分を見てきました。毎日の様にそして自分からの発想で、その部分について意識を持ってきました。
 これからは自分の意識を鏡の中の自分に向けそしてもう一歩進み、鏡の中の自分が今の自分で鏡の向こうから鏡を見ている自分を見る事が出来たら、大変大きな結果をもたらしてきます。
 鏡を見る時、鏡に映る虚像ではなく鏡の中の自分に自分を置き換えそして、鏡を見ている自分を向こう側から常に見る様にしてみてはいかがでしょうか。
 そうすると本当の自分が見えてきます。顔にあるシミやそして眉毛や目も、必ず違って見えるはずです。本当の自分を見る様にそういった繕いをする事により、自分を知る事が出来るのです。
 鏡の中の自分を追いかけても、そこには本当の自分は存在しません。鏡の中の自分から自分を見る様にしたら、全ての粗が見えるのです。恥ずかしくて外を歩く事が出来なくなるかもしれません。肌の汚れやそんな物まで手に取る様に見える事でしょう。なぜなら向こう側に意識を置く事により、こちらの現実がもの凄く良く見えてくるからです。
 そしてその時必ず行われる行為に手で触れてみるという、要するに触感がそこには複合的に存在してきます。要するに触感と視感が共有する事により、現実を上手く知る事になるのです。
 そこから新たなスタートをすれば、迷いはなくなってきます。自分を知る事がいかに大切なのか、自分の現実を確認する事により、変な虚栄心はもうそこに存在しなくなるのです。
 今私達がそういった事から自分を見つめ直す事が出来たならば、現実に地に足がついた状態で歩みだす事が出来るでしょう。
 これからは鏡の中の自分に溺れる事なく今の自分を知りながら、未来へと歩いてみてはいかがでしょうか。

 現在の世の中を見ると、何かが大きく間違っている様に思います。それが何かを見つける事は非常に難しい事なのですが、何かおかしいと思っている人達は、沢山いらっしゃると思います。そういった人間関係の中でも邪心を抱いたり、身勝手な人達が最近多く現れてきた様な気がします。
 若い世代を見るとなぜかそんな子ども達が、憤りの中で矛盾を感じ身勝手な行動をとる事は、今の社会が作り上げた仕方ない現象なのかもしれません。そして大いなる邪心を抱きながら、良い方向に進むならばまだしも、この世間をあざ笑うかの様に悪い方向へと進んでしまう、そんな邪悪的な意識が存在してくる事も確かなのです。
 裏切りとか、騙しとか、自分さえ良ければという考え方と、他人の事を蹴落としてまでも自分を有利にしたりとか、逆にそんな事すら感じずただ呆然と生きてしまったり、人がどう思うかなど考える事もなく、自分の意見だけを押し通そうとする、そんな現実が多く存在している事も確かなのです。
 誰もが皆、身勝手に生き続けてきたならば、社会秩序は乱れ、人間関係も崩れ、信頼関係すらない世の中が、これから続いてくるのかもしれません。夢や希望を無くした人々は、特にこれからの若い世代は、社会が作り上げた極めて捻じ曲げられた世界で、何の為にどう生きるのかそれを確認する事すら出来ず、この社会が作り上げた大いなる魔の世界が大きく成ろうとしています。
 この現実が、もうすぐ実感するようになってきます。未来を無くした、そういった意識体は、今だけの時間に全ての事柄を実行しようとします。要するに今さえ良ければいいんだという考え方が、そして自分さえ良ければという考え方が、そこから他人はどうなっても良いという、そんな法則すら生まれ、余りあまった矛盾の中で身勝手が発生してくるのです。
 人々は皆、美しい心で生まれてきたわけでもなく、かといって悪魔の方向に進んでいくわけでもないのですが、本来ならば社会というこういった環境の中で、正しい意識がはぐくまれ、未来へと向かい、人間関係は安定した形で、そして社会は安全な形で、明日を迎える事が出来たはずなのですが、どこかで捻じ曲げられたこの社会は、もう人間達をその様に育て上げる事はありません。
 一人ひとりが自分との戦いの中で、正しい方向を見出すしかないのです。今起こっているこの現象の中で、非常に病んでいる青年達を、批判する権利は誰にもありません。なぜならばこの社会が、そういったものを生み出す魔界として今、存在しているからなのです。
 今この魔界をどう変えていくのか、すさんだ意識をどう正しい方向へ導くのか、これから起こる社会現象の中で、意識的なそういった犯罪的現象が多く起こってきます。やはり環境や食べ物が、その結果、意識障害は非常に多く、この社会を壊している事は間違いありません。そういった意識の中で、この未来を健全な方向に導く事は、この今起こっている魔界そのものの現象をどう捉えたら良いのか、そこからもう一度、考え直す必要があるのです。
 もうすぐこの魔界は二重に包まれた、取り返しのつかない魔の世界の現実を見る事になります。人間達の意識は荒み、悪を容認する中でその悪は大きくその力を現し、人々は悪の意識に包まれ、もうそこには愛など存在しません。憎しみも、恨みも、そんなものすら存在しないのです。
 魔界に支配された人間達は、同一性の悪の中で何の抵抗もなく、人々の命を奪う事になるのです。悪の中では、悪の認識をする事は出来ないのです。正しい世界と、間違った世界、対比するものがあって、どちらが正しいかが分かるのですが、全てが邪悪化した世の中では、正しいものなど存在してこないのです。
 その様な魔界にとらわれる前に、この環境を変える必要があるのですが、魔界の中にどっぷり浸かってしまった現実も存在しています。
 間違いという判断が、もうすでに出来なく成ってしまっているのです。

 全ての生命体には、この地球で上手く生き様とするその為の欲が発生します。
 自然界の中では、その欲は上手く使われ子孫繁栄に大きく役立っている事は間違いありません。植物達もきれいな花が咲き誇る様に、その目的は子孫繁栄という、例えば昆虫達を呼び寄せたり、多くの花粉を取り込んだり、そういった生命維持のこのプログラムの中に、大いなる欲が発生しとても素晴らしい環境作りをしています。
 動物達も春になると、猫のオス達はその子孫繁栄の本能の中で、その役割を当然のごとくやり遂げているのです。当然人間においても沢山の欲が発生します。その中で肉体における欲で代表的なのが、食欲と性欲という事になります。
 これは肉体の持つ本能であり、生命維持や子孫繁栄というそういうプログラムの中では、当然のごとく発せられ、この欲によって私達は肉体を維持していく事が出来るのです。
 欲の中にも、良い欲とそうでない欲があります。特に人間は、肉体のエネルギーに依存している霊体的な感性、これは肉体の本能ではなく、意識や社会秩序の中で生まれてくる誰にでも発生する欲なのですが、その中において良い欲と悪い欲を見極める事がとても大切になってくるのです。
 この様に意識や考え方や自分の立場の中で、どう生きるかの中に肉体とは違う欲が発生します。それを霊体欲とここでは呼ぶ事にしています。霊体欲の中には、沢山の欲があります。例えば、地位欲や名誉欲、人よりも有利に立ちたいという有利欲、そして人を支配しようとする支配欲、人を管理しようとする強制欲、あまり良い欲ではありませんが、こういった社会の支配欲や管理欲によりこの環境がある程度整っている事も事実です。
 社会情勢の中で、人間にこういった欲をかかせる事により社会が上手く回っている事も事実なのです。良い大学に進み大きな企業に就職する、そして社会的立場を整え、沢山のお金を貰い裕福な社会生活を営み、そういった欲の中でこの社会が組み立てられているのです。
 そういった全てが霊体欲という、あまりにも当然に起こる現象の中にあり、その欲によって人間社会が出来上がり、生かされてきたのです。社会秩序の中では、それらを上手く利用し人間関係を作っていったならば、それはそれで決して悪い事ではないのですが、個人的な欲の中で、人よりも有利に立ちたいという様な欲があり、その時自分が努力して、出来るだけその上の立場にいける様に被害者を作らず自分が進むならば素晴らしいのですが、人を蹴落として自分の立場を有利にする、そういった考え方が多い事も事実なのです。
 自分の努力を人が落ちる事により補おうとする、卑劣な考え方が存在します。そしてその時に、そういった仕掛けをしたならば、その結果どんなに自分が有利になったとしても、そこには恨みという、相手の霊体から発生する、極めて危険なエネルギーが生まれる事も事実のなのです。
 俗に言う、恨みを買うという事なのです。人を騙して、そしてその人が持っているものを自分のものにする、最近世間で騒がれている様な詐欺的な行為、これは必ず人の恨みを買う事になります。
 世の中には、やって良い事といけない事があります。しかしそれをどう判断するかは、良心の呵責の中で自由な選択なのです。私達が一番注意しなきゃいけないのは、自己における霊体欲に振り回されないという事なのです。
 霊体欲は上限がありません。欲しいものが一つ見つかると、どんどんエスカレートし、限りなく自分を駄目にしていきます。そういった中で、社会や他人を巻き添えにしない様な、己の中だけで消化出来る、そういった霊体欲を上手く利用する事が必要なのです。
 何か、特殊な能力を習得しようとしたり、技術的なものを身につけようとしたり、色んな学問を学んだり、他人を巻き込まない霊体欲を、その欲を大きく広げていく事により、自分の人生をより豊かにする事が出来るのです。
 小さな努力の中で実を結んでくる様な、自分にとって納得出来る様な、そういった霊体欲はとても素晴らしいのですが、二人以上の人間がそこに居たならば、必ず意見の違いが出てきます。
 その中で自分が有利に立つ事は、ただ自分を納得させる、さほど意味のない出来事なのです。どうそこで歩み寄れるかが、大切な欲と言えるでしょう。
 この世の中を上手く生きてい為には、そういった欲を上手に使う事ではないでしょうか。

 世界中の人々に共通しているのが、不可思議な現象への興味、そして未来予知であったり、霊的現象でもあります。
 占い師は世界中に居て、そして人々を大変魅了してくれるのですが、その反面それに左右され自分を見失う人も沢山居るのです。確かに、本当に優れた超能力者も居る事は間違いありません。しかしにわか超能力者が、あまりにも多い事も現実なのです。
 しかしそういった彼らは、人を騙そうとしてやっているわけではないのです。中には始めからストーリーを決め、金儲けを目的に行っている人も非常に多い事は事実ですが、そういった人の中で、嘘をつき続けていく内に自己暗示にかかり、自分に本当にその能力がある様に自分で思ってしまう、そういった人達が多い事も現実なのです。
 なかなか、本物とそういった人を見分ける事は難しいと言えるでしょう。感性が鋭くよく当たると言われる様な人々の中に、特に優れた能力を持った人の中に、動物霊に取り憑かれたというそんな人を見る事があります。 確かによく当たるのです。動物的感性と本能が上手く交差し、その動物霊に支配されながら人を見ていくのです。そして的確な答えを言ってくれるのですが、時にそれが間違った方向に進む事もあります。
 逆にそれを行っている人々が、その取り憑かれた動物霊に支配され自分の能力と過信したならば、やがて自分の命を食べられている事に気付く事になるのです。
 金比羅様という神社がありますが、その役割の一つに、狐に取り憑かれた人のその狐を追い払う為に金比羅様があるんだという、そういう教えがあります。
 昔から動物霊に取り憑かれると、金比羅様に行ってとってもらったという話をよく聞きます。確かに、化け狐や化け狸といった言い伝えは、沢山ある事も事実です。
 確かに、動物でも優れた能力を持ったそういった生命体、いや霊体があるのかもしれません。すごく感性が良く、動物的本能の鋭さでその人を見抜く力を持っていたとしても、本物かどうかは、紙一重のところにあるのかもしれません。
 中にはもっとひどく、書物を読みあさりその知識から自分を自己暗示にかけ、霊能的な活動をしている人が多く居る事も事実です。
 ある種の宗教活動的な事をやっている人に限って、これは宗教ではないと言います。それなのに、私に依存しなさいとそういった働きかけが、大きな矛盾を招いています。必ず依存されると、依存する側との対比的な関係が生まれてきます。これが前にも述べた様な、依存管理の法則なのです。必ず管理者が自分を有利に持っていく事が、非常に容易く出来るのです。
 何か心の不安を持った人がそこに依存しようとするならば、法則的に言ったならばその不安を解決させてあげるのには、その人が求めている答えをただ言ってあげればいいだけの事なのです。ここには法則が存在しているのです。
 必ず相談を持ちかけ様とする人達は、そこにトラウマや不安が存在しているのです。答えが必ずその不安を解消する方向へ意図するならば、そこに相談をした人達からは、よく当たるのよといった意見が出てくるのです。 逆に厳しく真実を伝えたならば、不安を解消する材料ではなく、不安を解消する事は不可能であるとそういった真実を伝えたならば、その人は二度とそこには行かないでしょう。
 癒されたいという思い、安らぎを求め納得したいというそういった観念からその心を満たしてあげたならば、答えがどんなに間違っていてもそれはさほど大きな問題ではないのです。
 目の前にして、相手の言葉からそこを読み取るのは、いとも簡単な事なのです。応用心理学という理論が存在します。服装や髪型、そして靴を見て、目を見て、言葉の端を捉えて、その相手から受ける大いなるデータを組み合わせながら、相手の持つ真理を見出していくのです。
 この応用心理学を学んだならば、誰もがスーパー霊能者になれるのです。ほとんどの人が、そこに自己暗示と、動物霊の力を借りながら、あちこちでそういった行為をしているに過ぎないのです。
 しかしながら、もし本物のそういった能力のある人が、この応用心理学を学んだならば、答えは明解であり、誰もが驚く人でありますが、しかしその答えは、癒しや安らぎではなく、そこを解決する為の糸口を見出し、そこに行かされたり、山に登らされたり、解決の糸口を探しに行かされたり、逆に辛い事になる事もよくあるのです。
 優しく癒され、依存させようとしたならば、ほとんどがインチキ的な存在です。人生はそんなに楽なものではありません。未来や過去が、そんなに容易く出来ているわけではないのです。それを勘違いせず、自分の生きる方向を、やはり最終的には、自分で決めなければ未来は開かれてこないのです。
 信じる事の出来るのは自分なのです。
 もし自分を信じる事が出来れば、何も怖いものはありません。

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