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解決の道は探せば幾らでもあるのに、少し休みたいと言う安易な気持ちになった時は、特に注意が必要です。
1つの行動は1つの結果を生みます。幾ら考えても何もしなかったら、ただ無駄な時間を過ごしただけで、意味が無く成ってしまうのです。
その内に自分の能力に自信が無くなり、駄目に成る為の定義付を行い、自分を納得しようとするのです。
無理と決めつけた時、全てが終わります。挫折感に支配され、他の所に何かを求めようとします。仕事を変えたり、そして自分を理解してくれる、優しい宗教の誘いに乗ってしまうのです。
神は、乗り越えられない試練を与える事を、絶対にしません。全部自分で墓穴を掘り落ちて行くのです。
挫折感を感じた時は、豊かな自分の未来をイメージして下さい。またより具体的に希望して下さい。願いから、心のゆとりが生まれます。新しいひらめきが、新しい出会いが待っています。
そして少し前の、良かった時の事を思い出して下さい。答えはそこに有ります。
目の前に、伊万里焼の、大きな壷があります。
とても彩りがよく、誰もが素晴らしいと、その壷を見るに違いありません。
正面から見ているだけでなく、角度を変えて横に回ったときも、その壷はとても素晴らしく、生き生きとしていました。
また、後ろに回った時、こちらが表のように感じ、どちらが表か裏か、全くそういう観念を捨てさせてしまうような、とても素晴らしく焼き上げられている壷を見た時、私達人間は、その人がどの角度から見るのか、そしてどう思うのか、そういったことをもう一度考え直してみる必要があることに気付きます。
この壷を焼いた職人さんは、大きなホールの中央に展示されたことを想像し、誰がどこから見ても、それを魅了させるような作りをしたに違いありません。
作る作者が、誰がどこから見ても素晴らしく作り上げるということは、とても繊細な意識を持ってそこに関与しなければ、とても出来ないことなのかもしれません。
この壷と同じように、私達人間も、大ホールの中央に立ち、あらゆる角度から観察されていることに、気付かなければいけません。
正面だけを気にし、後ろを粗末にしたり、顔や頭だけを気にし、足元に気付かなかったり、私達人間は、全てを見ることが出来ない、そして全てを見られていることに気付かない、愚かな生命体なのかもしれません。
私達は見られているのです。
あらゆる人や、あらゆる生命体から、そして宇宙から、霊的現象をも含め、私達は覗かれているのです。
もちろん、心の中までですよ。
それに気付いたならば、非常に恐ろしい意識の中で、自分というものを見直し、自分が誰なのか、自分がなぜここに居るのか、どうしてこのような服装をしているのか、そんなことを、もう一度考え直してみてはいかがでしょうか。
いつも見られていることに気付いたならば、どう見られたら良いのかも、考えなければいけないのです。
逆に自分も、人を観察し、その人を捉え、意識の面からも、自分の中で作り上げているのです。
要するに、自分にとってどうなのかという問題と、相手が自分に対してどう思うのかという面も含めて、服装や外見からその人を判断し、友好的なのか、またそうでないのかを、確認し合っているのです。
それがマンネリ化しながら、日々の生活の中で生かされていることは間違いないのですが、一度その観念を捨て、もう一度違った角度から、人を見たり、物を見たり、自分を見たりしてみてはいかがでしょうか。
そうすることにより、新しい発見と、新しい意識に、出会うことが出来ます。
自分が見ようとして、見る角度を変えた時、相手のまた違った面が見えてくるのです。
自分の中に、この人はこうなのよという観念が、余りにも多く存在し過ぎ、人を見ることが出来なくなっている自分に気付きます。
思いが先に立ってしまい、見える現実を、意識が変えてしまっているのです。
そんな意識を捨て、角度を変えて、そこに勇気を持ちながら、まずは自分を見てみてはいかがでしょうか。
自分の今日の服装は、自分にとってそれはどうなのか、大いなる妥協と満足が、入り乱れているのではないでしょうか。
髪形一つ取ってみても、一度その角度を変えて、自分の姿を捉えてみたならば、自分の心の中のごまかしが、よく見えてきます。
私達は常に、角度を一定に保ちながら、それを平常心と勘違いしながら、毎日を過ごしているのです。
新しい時代が、もうすぐやってきます。
今までの観念で生きられるような時代ではなく、厳しくもまたそれは未来に行くための準備の一つに過ぎないのかもしれません。
今のような人間達なら、未来はそれを必要としていません。
私達が変わらなければいけない時代が、ついにやってきたのです。
その一つとして、まずは自分を、角度を変えてみることにより、新しい自分と出会い、周りも、角度を変えて見ることにより、新しい人々と出会い、そしてその有効性の中に、未来は築き上げられてくるのです。
是非、未来の為に、自分を変えてみませんか?
酸性雨が降り、地下水は汚染され、環境は悪化の一途を辿っています。
そんな中で、第三次文明が残してくれた、特にこの日本における、環境浄化システム装置が、このオリハルコンなのです。
今回のような原発の事故や、工場等における大気の汚染は、計り知れないものがあります。
ましてや、隣国である中国の発展は、その風の流れからいっても、日本に多大な影響が起こることは、避けて通ることは出来ません。
この地球の中の民族達は、いつも同じ過ちを繰り返し、この地球で生きてきました。
しかしながら、今私達が住むこの第五次文明は、環境破壊することはいとも容易く行いますが、破壊された環境を元に戻すというテクノロジーは、全く持っていないのです。
工場排水や雑排水、言い出したらきりがない程の水の汚染、空気の汚染、そして土壌の汚染、それを元に戻す、そういった科学は、存在していないのです。
やっとデルファトラの科学により、水への浄化のテクノロジーは、環境の一部を未来へと繋いでいます。
それもまだ、ほんの1ページをめくったに過ぎない程の出来事です。
これから、もっと進んでいく環境の悪化は、全ての生命体に大きな影響を与えることは間違いないでしょう。
しかもそれが、人間達の科学によって行われていることならば、それを修復することなど、ありうるはずがないのです。
そんな今、こういった危機を迎える中で、もしこれを解決することが出来るとするならば、第三次文明、神々の意識によって作られ、この日本に沈められた、オリハルコンを回すしかないのです。
1つはもう発見され、正しい意識の元で、緩やかではありますが回り始めています。
昨年の暮れ、もう1つのオリハルコンが発見されました。
これは北海道、洞爺湖に沈む、2番目のオリハルコンです。
まだ動いてはいませんが、輝きはどんどん増し、その存在は、ある種の人達には、大きくクローズアップされてきたことは間違いありません。
2月の最後の大安の日に、札幌にて意識を集中し、みんなで願うことで、この洞爺湖のオリハルコンは、少しずつ回り始めることでしょう。
2つのオリハルコンが、緩やかではありながらも、回り始めることにより、その優れた浄化能力により、全ての大気、そして全ての水、そして、全ての土壌は、浄化される方向へと導かれることでしょう。
これは、デルファトラの科学と、第三次文明が築き上げた、要するに、彼らが犯した罪を償うために、全ての科学を集中し作り上げた、大いなる存在なのです。
そして湖に沈むこの2つは、その湖と意識を一つにしながら、そこに聖なる意識と、愛のエネルギーにより、大きく回り始めることは、さほど難しい出来事ではないでしょう。
3つ目のオリハルコンが、もうじき発見されることは、間違いないのですが、これはムー大陸の崩壊で沈んだ、あの沖縄にあることは間違いないのです。
沖縄のある島の地底深く、今オリハルコンは、眠りの中にあり、まだ輝きを見せてはいません。
なぜならば、その島は、聖地でありながら、人間達の上陸により、また意識の悪い人々により、穢(けが)され、汚れきっているのです。
まずはそこの聖地の意識を改善し、聖地に入り込もうとする、意識の悪い人を除外し、そこで浮上させるか、または、その地底を少しずつ移動させ、そのときわずかな地震が起こるかもしれませんが、地殻の中をワープしながら、海へと向かう必要があるのかもしれません。
それも5月には、完了させなければいけません。
その為には、今、沖縄での意識の高い人の集いが必要となってきます。
オリハルコンの場所を明確に突き止め、そこに輝きを与え、邪念や邪気を祓い、清めなければならないのです。
他の二つのように、湖の清らかな水により守られていなかった、最もかわいそうなオリハルコンなのです。
早くその位置を選定し、全ての倭民族が、意識を送り、清めていく必要があると思われます。
この沖縄の悲劇も、過去に起こった出来事は、このオリハルコンを逆に錆び付かせていることでしょう。
本来ある姿に沖縄が戻り、海の神として君臨することが、一つの条件となることは間違いないのですが、中々現実は難しいものがあります。
だからといって、諦める訳にはいきません。
もうわずかな時間しかないのです。
聖なる意識をもって、オリハルコンが輝きを取り戻すように、祈って下さい。
地球上において、人間の霊的感性や、脳波における脳の仕組みや、生体バランス、そして肉体におけるバイオリズム、そんなものに大きく関わっているものが、水晶という大変素晴らしい鉱物です。
その水晶を私達の意識と上手く反映させ、世界中の意識の高い人達は、その水晶と上手く付き合い利用している事も事実です。
確かに水晶には、特別な力がある様に思われます。水晶から発せられるアルファー波は、人の心や意識を和ませてくれる大変素晴らしい性質を持っています。クリスタルヒーリング、名前はそう付けていますが、内容はそうではなく、何かを癒したり、生体バランスを整えるだけではなく、その水晶に自分の意識や、自分における全ての環境の情報をインストールしながら自分のコピーを作り上げていく、要するに水晶の完全透明の中に結晶構造を持ちながら、その中で記憶されていくそのプログラムは、非常に面白いものがあります。
自分と同じもの、自分が二人、しかしもう一人の自分はその水晶の中に存在します。死んでからよく戒名に院号をもらったりする人がいますが、何かよく分からない現象でもあります。
お釈迦様の弟子になる時、お寺さんからもらった院号でお金を出せば高い位に立てる、果たしてそんな事が本当にあるのでしょうか。お金で解決出来る問題とは少しかけ離れている様にも思われます。お金で解決するのではなく、そういった類の行為を生きている内に自分の中で上手く消化出来たならば、それは素晴らしい出来事になるのではないでしょうか。
自分と全く同じコピー、全ての情報と記憶を自分の持つ水晶玉にインストールする、ある種の特殊な宇宙船に乗り、そのくぼみにその水晶をはめ込むとそこからのエネルギーが投影化され、死を迎えない自分がそこで日常生活を得る、とても夢の様な世界が繰り広げられるのですが、その為には肉体を持たないもう一人の自分、そしてこの地球上における最大のメモリーディスク、それが水晶なのです。
そして球体である事が一つの条件になります。もちろん透明である事は言うまでもありません。粉にしてから練り直した様な溶練水晶では何の役にも立ちません。
やはり純度の高い透明で、しかも5cmを越えてくる大きさの中に、出来れば6cmその位が良いと思いますが、そこに自分の全ての情報をインストールし、そして今ある肉体と上手く融合させながらその水晶が、内側の大きな次元と変わり発生されるエネルギーで自分を包み込み、バリアを作り、守りと新しい次元の発生、そして同時に記憶のインストールの中で過去の清算を明解に行い、魂レベルを究極の世界へと引き上げ、次なる時代への準備をするのです。
その様に生きている内に自分のコピーを、要するに全ての自分の情報と記憶をインストールし、しかしそこにおける不合理性を持った記憶、自分の記憶の中でかんばしくないものをいかに清算するのか、人間は生きていると必ず多くの出会いの中で良かったり悪かったり、傷つけたり傷つけられたり、嘘をついたり、色々な過去を持っています。
その中で未来において必要でない過去の記憶は、インストールする必要はありません。だからこそ、その清算をする事が肉体を持った自分と、肉体を持たないコピー化された水晶と、情報の共有の中で同時に解決していく事がとても望ましい事なのです。
要するに自分の完全コピーを作る為に、今居る自分の心も同時に過去における過ちの清算を行い未来へ正しく進もうとする、そういったエネルギーに置き換えていく事が出来るのです。
これから来ると言われている新しい時代の中で科学が究極に進むならば、やがてそれは可能な現実となる事でしょう。その為の準備としてこういった行為を行う事は、これからは必要的な事ではないでしょうか。
しかし誰もがそれを受ける事が可能かどうかは、大きな疑問となります。
自分の中で出来るだけ消化できる様に、日常生活の中で自ら築き上げる事が大切なのではないでしょうか。
もう随分と、長いこと生きてきました。
あっという間に過ぎたような気もしますが、その時その時を思い出してみると、嫌なことも、苦しかったことも、少しずつ思い出されてきます。
人間が生きるということは、本当に大変なことと思います。
なぜなら、1人では生きられないからです。
もし森の中で、たった1人で暮らしていたならば、全ての出来事は自分の責任になるのですが、2人以上の人が集まって生きようとすると、お互いの欲や意見がそこに存在し、進もうという道が、その人の意識により、変わってしまうこともあるのです。
そして、全ての発想が、自分から起こっていることであることは間違いないのですが、それがもし、正しい方向でなかった場合、それを人のせいにしてしまうという、たやすく意識を納得させる、そういった心の動きが人間にはあるのです。
人のせいにしてしまった方が、自分を傷つけずに済むという、自己警護能力の一環なのです。
社会が悪いから、環境が悪いから、食べ物が悪いから、こんな風になっちゃったんだと、責任を転換することが、とても得意なのが人間なのです。
そういった状況で人生を生き続けてくると、罪や過ちを、知らず知らずの内に繰り返すことになります。
後で後悔しても始まらないのですが、納得出来ない出来事の中で、それをごまかすかのように、新しい嘘と、新しい罪を覆い被せるかの様に、その場を繕って生きているのが私達人間なのです。
自分に嘘をつくことから始め、そして、他人に嘘をつきます。
誰かのせいにすることにより、自分を可愛がり、そして坂道を転がるかのごとく、悪い方向へと進んでしまうのです。
そこに輪をかけて、欲の世界が発生してきて、その欲を満たそうとして、自分以外の意識を利用し、自分を慰めようとすることと、また満たそうとすることが、交差するかのように、人生を作り上げていくのです。
欲しいものが手に入るということは、その思いの一つに過ぎませんが、手に入ってしまうと、また次の欲しいものを見つけてしまうのも、生き方の大いなる欠点でもあり、成長する為の法則でもあるのです。
意識の豊かさや、また肉体における健康や、人間関係の緩和に、大きく関与してくるのが、和の心であり、いかに上手く繕うかが、大きな問題になるのです。
なぜそんなに、嘘をつきながら、お互いを庇い合いながら、和みの世界を作り上げていかなければいけないのでしょうか。
社会生活は、多くの人達が存在し、色んな意見の中で、自分の存在と他人の存在を理解したり、それを意識したり、そんな営みが、毎日の出来事なのです。
きれいな服を着たり、美容院に行ったり、高級なバッグを持つことも、ある種のステータスといえたとしても、もし森の中でたった一人だったならば、それらの物質の存在は、あまり価値のないものとなるかもしれません。
私達は他人との比較の中で欲を持ち、その欲が時には人を傷つけ、また他人の欲により、自分の心が傷つくことも、よくあるのです。
新しい意識の年を迎え、これから変わろうとする未来は、これらのことをもう少し違った角度で、清算しなければならないのです。
これからの未来で生きる人々は、こういった感覚よりもはるかに優れた、意識の高次元化を求めています。
この素晴らしい地球で、この世界で生きる以上、感性と豊かさと、物質の存在を、比較しながら生きた時代も、もう終わろうとしています。
比較欲ではなく、自然の中の共有意識を融合させる為には、この人間達の意識の中に存在した、過去の出来事における、清算が必要となってきます。
出来るだけ多くのことを思い出し、起こった現象全てを、今ある為の善とし、降りかかってきた意識の悪い出来事に対しては、自分を変える為の良とし、起こった現象の全てにおいて、それを吉とすれば、解決の糸口は、意外と楽な所に見つかってきます。
否定しては、何の意味もないのです。
そして悔いてしまっても、それは今を駄目にするだけです。
逃れようとしてはいけません。
受け入れて、それを、良かったことと、全てが教えだと、意識を変えたならば、未来の生き方が見えてきます。
未来の地球は、そういった意識の人達が、進むべき道なのです。