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小中高大と、一般的な学業生活をしながら、社会人となっていきます。
そして人間には、常に迷いが生じ、その迷いから抜け出そうと、いつも答えを求めているような気がします。
逆に、答えを求めるから迷うのであって、答えを求めなければ、大した大きな問題にならないことがよくあります。
 なぜ、人々は答えを求めるように仕組まれてしまったのでしょうか?
教育という教えの中で、先生が居て、生徒が居て、先生が出す問題に対して、生徒が答えるという、このありきたりな法則の中に、人間性が作られていってしまうのです。
宇宙空間や、自然界の法則の中で、山の天気のように、急に曇りだしたり、風も一日の中で、何回も方向を変えていきます。
花が咲く順番も、一つの枝の中でも、また一つの株の中でも違っています。
宇宙空間や、自然界現象の中で、とても不安定でありながら、方向性だけは常に一定の方向を向き、ただしそこに観念的な決まりがなく、要するに、草花も自由に、伸びたり咲いたりしているのです。
人間だけが、疑問に対して答えを求め、何か生きる為の意味を深く知るよう、常に答えを求めるようにしています。
その答えが、意味のあるものや、より深く未来へ関わる問題であるなら、とても必要なことと言えるのですが、何の意味も持たない答えの中で、人々が争ったり、意見の相違を感じたり、趣味が違ったり、わずかな答えの違いが、人間性をも批判するような、極めて不可思議な関係を作ってしまいます。
その人がどんな考え方でいようが、自分の考え方の答えに、合わせる必要は全くないのです。
この教育で学んできた、答案用紙に答えを書き込むことにより、点数がつけられて、その人の能力を判断されてきたこの世の中では、それは仕方ない出来事なのかもしれませんが、この教育という教えに、これ程にまで大きな欠点があることを、今私達は知らなければいけません。
迷いの原因のほとんどが、見つからない答えに対して、自分がどう望むかにより、起こる現象なのです。
人を駄目にする程の迷いは、あるはずの無い答えを求め、そして方向性を見失い、自分を失望させていくのです。
そしてその答えを外に求めた時、その求めた相手により、意識的な支配が行われるのです。
答えなど、本来は出す必要などないのです。
毎日の生活の中で、精一杯今日を生きたならば、時間的経過の中で、結果として表れる、全ての事柄が実は答えという、観念的な理論の中の、在り方なのです。
要するに、人生において答えとは、結果であり、死に局面した時、それがどういう答えか、そのことにより、人生は判断されるのです。
日々毎日の努力の中で、未来への方向性を見失わないように、そして新たなものへの挑戦が、新しい世界を生み出してくるのです。
何をすれば良いのか、どの方向を向いていったら良いのか、それは、歩き始めることにより、その方向性は見えてくるのです。
立ち止まって、何をしようか考えても、そこに答えを見出すことは、あまり合理的とは言えません。
なぜならば、歩き始めてから出会う、多くの事柄に対して、まだ出会っていない内に、その答えを見つけることは、全く不可能なことだからです。
人々は沢山の出会いの中で、そういった事柄と、自分の感性の中で、生き方が変わったり、考え方が変わったり、それは決して悪いことではないのです。
今日まで好きだった食べ物が、好きでなくなったり、昨日まで大好きだった人が、突然嫌いになったり、そんなことは日常茶飯事、いつ起こっても決して不思議なことではないのです。
答えを求める生き方ではなく答えを作る生き方を、そしてその答えが、自分にとって有意義だったかどうか、結果としてそこに、自分が存在し、その自分に満足するかだけが、問題となるのです。
初めから答えを求めるのではなく、より自分にとって納得のいく答えを、探す旅をしてみてはいかがでしょうか。
そしてそれが、自然界の法則の中に上手く融合し合い、人間的な、しかもエゴ的な絡み合いを捨て、もっと素直に、未来に向かって歩き始めてみてはいかがでしょうか?

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不安から抜け出た意識は、なるべく高いレベルの満足感を得ようと志すのですが、なかなか思った様に事が進む訳ではないのです。
 不満に満ちた感情を癒す方法は、沢山有るのですが、その選択に迷い、反って不満が募ってしまうのです。
 そして自分の中での消化が難しくなると、はけ口を自分以外に求め、イライラを他人に向けてしまうのです。
 目の前で起こる、全ての現象を受け入れる事は困難を要しますが、納得出来る範囲で諦める事も、最低限の満足を意味します。
 自分に向けられた不合理な出来事も、受け入れたら暖かい助言になりますが、受け入れなかったら、ただの悪口に聞こえてしまうのです。
 心を満たすには、自意識過剰になってはダメ。そして自己警護も程々にしないと、歯車は何時まで経っても、空回りるするだけです。
 時には相手の意識から自分を観察し、他人からどう思われているかを知る事が出来たら、素直になれるのかも知れないのです。
誰もが皆、最近特に思う事は、本当はどうなの、政治も経済も上手く行ってるの、将来は豊かに成れるの、政府の言ってる事は真実なの。
 投資や儲け話で騙され続けられて、何を信じて良いのか、サッパリ分からない。なんて人も沢山居るのです。
 確かに今の社会は、騙す方が有利と成り、詐欺が横行し被害者が泣き寝入りするなんて事が、多く成りつつあるのです。
 しかし必ず真実は存在しています。結果がそこに在る様に、どんなに隠そうとしても隠し通せる訳ではないのです。
 遺伝子組み換えは安全なのか、抗菌された食品や水は安全なのか、種無し葡萄は奇形じゃないのか、添加物だらけの物を食べて大丈夫なのか、日常生活の中でも疑問だらけなんです。
 100年前まではこんな病気は無かったのに、脳梗塞や癌は増え続け、意識障害も急増しています。
 確かに社会生活に問題が有る事は確かです。疑問に思ったら自然界の法則に照らし合わせ、食品を選ぶ事です。
 また人の意識や考え方の中には、その人ににとっての優位性が存在するはずです。騙されない為には、自分の利益を最後に考え、誰が一番有利なのか、そして利害関係を明確にしたなら、落とし穴が見えて来るのです。
 真実を知る旅は始まったばかり、焦っては行けません。冷静に状況を判断し、自分以外から物を捉える事なんです。

毎日生活していく上で色々なことに出会います。
「どうしてこんなことが起こるんだろう」
「なぜこんなに悩まなきゃいけないんだろう」
「うまくいかない理由は何なんだろう」
マイナス思考になった時、「なぜ」「どうして」そんな風によく考えます。
よく「神々は乗り越えることの出来ない試練は与えない」と言われています。
過去の結果を見ると、確かにそうかもしれません。
なんだかんだ言いながら、常に乗り越えてきた、そういった記憶はあります。
そんなように、多くの矛盾を感じた時、これは神々のストーリーかどうか、聞くことにしています。
答えはそこで出てくるはずもないのですが、結果的には、どんなに辛い出来事であっても、乗り越えることが出来たならば、良い方向へと進んでいきます。

今この危機的な時を迎え、多くの犠牲の中で、私達は生かされています。
しかしながら、その生きている意味を見失い、まだ先の不安に怯え、今何をして良いのか、その現実を見つめることが出来ず、迷いの時間を過ごしている、そんな日々もよくあります。
未来はどうなるのだろうか、そんな中で、平和ボケした人々の中には、この三次元のありがたさを忘れ、もっと素晴らしい未来を、そして、そこにどうやったらいけるのか、根拠のない話題の中で、楽しんでいる人達もいます。
アセンションとか、高次元化とか、そんな言葉の中には、この三次元のありがたみを忘れた、極めて不可思議な現象への、意識の旅立ちだと思われます。
起こるはずのない未来に、起こるはずのない出来事が交差し、ただ夢見ているのです。
しかしながらそれは、物質社会で起こると考えたならば、あり得ない行為ではありますが、意識社会においては、決して不可能な話ではないのです。
現実を見失うということは、そういった物質社会を、その観念からの脱出が、余りにも突拍子もなく現実に起こり、空想的に描かれた未知数の中で、意識と、思いと、望みとが、その間違った方向へと、考え方を変えていってしまうのです。

もし私達が、今より素晴らしい未来に行けるとするならば、絶対的にやらなければいけないことがあります。
立つ鳥跡を濁さずという言葉があります。
私達は、この地球に住み、多くの経験と、豊かな繁栄を遂げてきました。
この地球には、感謝しても感謝しつくせない程の、恩義があるのです。
この地球で起こった出来事は、全てこの地球のエネルギーに委ねられ、私達は、この地球の環境の中で生かされてきたことに、もう一度深く感謝し、私達が犯した大いなる罪を元に修復する、その行為を行わなければ、新しい未来へと旅たつことは、絶対に許される行為ではないのです。
愚かな人々は、自分が侵した罪を、その認識すらなく、未来の素晴らしい世界を望み、意味のないセミナーを繰り返し、今を無くしていくのです。
夢は大きく持つことは、決して悪いことではありません。
しかし、未来は、今という現実カプセルが、そう、私達が乗っている、このカプセルが、時間の壁を移動しているに過ぎないのです。
私達は地球号に乗って、そして地球号というカプセルで、時間の旅をしているのです。
過去から未来へと、このカプセルは移動していきます。
しかしそこでよく分かるように、起こること全ては、このカプセルの中で起こる現実であり、そのカプセルから抜け出し、次の世界へいけるわけではないのです。
この時間の壁を旅する私達は、カプセル内の危機的な現象を、私達に出来る範囲で、その修復をしなければならないのです。
神々のストーリーである、時間の旅を続ける限り、カプセル内での出来事が、私達に与えられた、絶対的な空間なのです。

この時間の旅とその錯覚が、今を見失う危険な結果をもたらし、現実からの逃避が、未来構築の思いへと変わり、そこに多くの望みを持つ人が、最終的に到達出来ないその壁を目の前にしながら、多くの悩みの中に落ち込むことでしょう。
私達が時間の壁を乗り越えることが出来るとするならば、それは、物質的に行われる状況の中で考えたならば、答えは、不可能ということになります。
しかしながら、意識的な環境で物事を捉えたならば、無理することなく、容易くその壁を乗り越えることが出来るのです。
しかし、その時、肉体はどこに存在するのでしょうか?
神は、物質社会を、この最大なるプレゼントを私達にもたらしてくれました。
三位一体という言葉の中にもあるように、私達は、この現実を、見失うことなく、今の修復に入りましょう。
そうしなければ、このストーリーの結末が見えてきません。
今、その清算が、始まったのです。

日本人にとって、特に武家社会の中では、一番重んじられてきた文字が、義というものでした。
この義という言葉の重みを強く感じ、武家社会は上手く統率が取られ、義理の世界を作り上げていったのでしょう。
今私達は、この義という言葉を少しだけ、忘れてしまっているように思われます。
この字から作られる、日本人独特の感性と、日本人が日本人であるからこそ、義をもって制すると、この社会に大きく君臨し、人と人との関係の中に疑いという貧しい心を持たず、信じ合うことが出来るのも、この義という言葉が大きく存在するからだと思います。
偽善者という言葉もありますが、その「ギ」の同じ音の中に、全く違う意味を持つのも、面白いものです。
義に反する意識の中で、私達は、裏切りという言葉を耳にします。
信じていたからこそ裏切られるのであり、信じていなければ、その言葉は存在することはないのです。
義という言葉を最前に出し、人間社会を作り上げていった武家社会では、非常に大きな統率が取れ、人間関係を完璧に作り上げていったことなのでしょう。
今は自由意識の中で、あまり義理を重んじた、そんな感覚はないのですが、しかし日本人の心から、その義という言葉が消えたわけではないのです。
政治家が会議の中で、そして国会議員が、義の中で論じているならば、それはとても素晴らしいのですが、中々それは上手くいっているものではありません。
義経が、弁慶と共に、そしてその義を一番重んじたのが、弁慶なのかもしれません。
この二人の名前のゆえんからしても、それは日本独特の、とても感性の高い、人間関係を作り上げているのかもしれません。
義をよしと読むなら、善もまたよしなり、吉もまたよしなり、良もまたよしなり、よきにはからえという言葉が、そんなところから生まれたのかもしれません。
基本的には日本人は争いを嫌います。
世界の人々が注目した、日本人の特徴の中に、牧師さんと住職さんと神主さんが一緒に酒を飲む、そんな光景が、日本では当然のように見られますが、世界ではそれは、まれな出来事なのだそうです。
もし世界中の人が、日本語を正しく理解し、日本語をもっと深く学べたならば、世界から戦争はなくなると、そう表現した外国の学者が居ますが、その通りかもしれません。
私達が素直に、日本語を理解し、日本人である誇りを持ち、その昔の倭民族としての誇りの中で、義の世界を作り上げていたならば、争いごとなど、起こるはずがないのです。
義の世界は、相手の立場や考え方を尊重し、それを覆すことなく、お互いがそれを認め合う、大変素晴らしい意識だと思われます。
相手を阻害したり、相手の考え方を覆したり、そんなことをしなくても、人間関係は上手く保てるということを、ここに意味しているのです。
義の世界が、もっと深く認識されたならば、何事にも尊敬の念が発生し、自分との照らし合わせの中で、大変友好的な時間が作られることでしょう。
日本語の中に隠される、日本人独特の意識の中で、もっと深くそれを知ることにより、この社会は上手く流れていくことでしょう。
今までのような、ごまかしと繕いの時代は、もう終わったのです。
新しい時代の中では、一番大切なことは、現実を見失わずに、目の前に起こる現象を素直に見て、それを受け入れる勇気を持つことです。
否定しても、そこからは何も生まれてきません。
認めたからこそ、次の段階へと進めるのです。
前に向かう為には、認めなければいけません。
そして、何をすれば良いのか、そこから何が生まれてくるのか、大いなる解決方法を、多くの人々と、情報を共有しながら、考えるべきではないでしょうか?
否定しないで下さい。
覆すことは、理論上いくらでもあることでしょう。
否定を説得するには、それが正しいなら別ですが、そうでない場合は、必ず自分に嘘をつかなければいけません。
この世の中で最も解決することが困難な出来事は、自分につく嘘なのです。
もう、そういう社会は、未来を新しいものにはしません。
自分に対する義の世界も、考えてみてはいかがでしょうか?

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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