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何人かが集まって、いろんな会話をします。
そして相手の意見を尊重し、そうだよねそうだよね、と、さも肯定するかのように会話を進めています。
そんな中で、よく使われる言葉の中に、「でも」があります。
「でも」が入ってしまうと、そこから話は、全く違う方向に進んでいきます。
今まで肯定していた話が、瞬間にしてひっくり返る、見事な言葉なのです。
しかしそこに気付くこともなく、会話は進んでいくのです。
「でも」というのは、なんて都合のいい言葉なのでしょうか。
この「でも」という言葉がある限り、日本人の性格がよく表れ、肯定と否定がいとも簡単に覆されていくのです。
否定する言葉の中でさえも、「でも」を使えば肯定になり、また肯定される現象の中で、「でも」という言葉を使うことにより、それはまた否定に変わることもあるのです。
どちらともつかない言葉の中に、それ「でも」私は頑張るとか、言葉だけ「でも」そうしたいとか、食べ物だけ「でも」それを食べたいとか、少数的な納得の中で、限定された微量的な意識と物を表すためにもよく使われます。
ひっくり返すためのもの「でも」あるのです。
この「でも」という言葉を、日本人は本当によく使います。
しかしながらこれは、英語に訳せない、日本人独特の法則の中にあるのです。
うまく使えば、こんなに人を傷つけず自分の意見を通す簡単な方法はないでしょう。
全否定せず、少しだけ残すときに、「でも」が使われることも多いのです。
全部が否定されないために「でも」があり、相手を尊重し、自分の意見を述べるためにも「でも」が使われます。
この使い勝手の良さが、あまりにも日本人的であり、これは優しさの一環といえるでしょう。

もしこの「でも」という言葉がなかったとしたならば、私達はどんな形で人との会話を進めていったらいいのでしょうか?
「でも」を使わず人と話したならば、そこに争いごとが生まれる可能性が非常に大きいのです。
肯定と否定を繰り返しながら物事は進んでいき、わかったような気がしますが逆に何の結論も出ません。
「ああした方がいいの。でもこうした方がいいんじゃない?」
何を言いたいのかわかりません。
外国人ならば。
日本人ならこれを、本能的に理解し、そして分かり合えるのです。
こんなに素晴らしい国民性、そして思いやりの心、争わない日本人だからこそ、こんなことが出来るのです。
倭民族は、初めから争うことを一番嫌ったのです。
そこにある種の、外国人的な意識が入り込み、やがてその力は神となりました。
何故ならば、神が人を裁き、神が人を殺す、そして神が人を作り出す。神だけがなせる業が、そこにあったからです。
倭民族は、人を殺すことを知りませんでした。
もちろん、琉球も、アイヌも、人を殺すことを知りませんでした。
だからこそ、神を信じ、神に従い、神を怖がり、また神に頼り、全てが神の意識の下で、司られていたのです。
「でも」の持つ意味が、ここで大きく私達に関わってくる意味が、理解できたことでしょう。
うまく使うことができたならば、人間関係は壊れることはないでしょう。

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