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ものすごい霊能者や、また未来の預言者が、過去にも有名な人はたくさんいますが、日本におけるあの安倍晴明は、本当に存在したのでしょうか?
確かに、不可思議なことはよく起こります。
ヨーロッパにおける黒魔術や、日本における丑三つ時の呪いの儀式など、世界中には、たくさんの超常現象的な、そういったことがよく伝えられています。
理論とか、科学とか、そういったものが、超能力なのか、それとも、不可思議な能力を持つことが超能力なのか、いったい超能力という言葉の中には、どんな形が存在するのか、非常に面白い分野だと思われます。
元々持っている能力で、それが誰もが持っていたならば、それは超能力者とはいえません。
人が持っていない能力で、それが極めて異質的なものであるならば、それを超能力と呼ぶことが出来るのかもしれません。
日本では、あまり心霊的な捜査は行われることはないのですが、諸外国では霊的能力で多くの事件を解決したり、それは普通に認知され、別に何の偏見ももたれていないのですが、何故この日本が、そういった霊的現象を否定し、唯物論者の中で、特に日本政府は、それを認めない方向に来てしまったのでしょうか?
この日本にも、たくさんいるはずです。
飛び抜けたその能力は、未来を読み取ったり、新しい理論を持っていたり、人の心を癒したり、そして難問を解決したり、正しい方向と、未来への新しい方向へ、そういった能力が使われたならば、そんなに素晴らしいことはないのですが、今日本では、そういった人達を認知できる、そういった機関は存在していません。
本物の統計学やそういった形で現れる、不可思議的な現象ではなく、もっと深い霊的現象や、感性の中から生まれる、きわめて突出したその能力が、今必要とされているのではないでしょうか?
科学では、もう理解できないほど、現実は行き詰っているのです。
いろんな霊的現象も、それを科学で証明することは、非常に難しいのですが、情報とエネルギーという、そういった法則の中から、エネルギーをどこに求め、情報をどこから引き出すかが、観念的な意識から外れたときに、それをただ、霊的現象に読んでるに過ぎないのです。
すべてのものに書き込まれている情報を、その持つ能力により読み取ったならば、たとえば写真から、その家族のことが分かったり、名刺から、その人の今の現実がある程度理解できたり、またその人と触れただけで、その人の意識が読み取れたり、またその人が祈ると、それが現実に起こったり、そんなことがいくら起こっても、本当は何の不思議もないのです。
情報はどこにも書き込まれ、存在しています。
それをどう読み取るのか、それをどう理解するのかは、その持つエネルギーとの融合の中で、いつ起こっても不思議のない世界で、本来人間ならば、その力がただ情報とエネルギーの関係の中で、さほど難しい現象ではないのですが、祈ったり、願ったり、それが叶うことがあったら、そして本来ならば聞こえない音が聞こえたり、見えないものが見えたり、それは決して不思議なことではなく、その現象を、この日本でも早く受け入れ、未知的な、そういった感性の中で新しい未来を築いていかなければいけない時代に入ったのです。
超能力者は、特にこの日本に、たくさんの方々がいらっしゃると、そう聞いています。
いや、絶対にいるはずです。
もうそういった人達が、その能力を隠す必要は、どこにもないのです。
今初めて、その能力は現実のものとなりつつあります。
なぜならば、未来予測されてきた、いろんな出来事が、今ここで大きく変わろうとしています。
要するに、占いのような、統計学の中からは、もう未来は見つけることは、非常に難しいことなのです。
これからもしそれが出来るとするならば、超的能力を持った、そういった方々の力に頼るしかないのです。
霊的現象も、自然的な未来現象も、これから起こりうる、すべての出来事と、すべての感性の中で、彼らの力が発揮される、その時代が来なければいけないのです。
もうその日は、訪れています。
この日本の危機を救うことが出来るとするならば、また突出した科学が生まれるとするならば、それは彼らが持つ能力に頼ることにより、始まるのです。
朝目が覚めると、心地良い光の目覚めの中で、また慌しい一日が始まり、いつの間にか、自分という存在も忘れ、仕事につく毎日の中で、行き詰まりや、憤りや、失敗や不安の中で、毎日生活が繰り広げられているのです。
何の悩み事もない人に見えても、そんな人はいるわけではないのです。
お金があるないとか、愛情があるないとか、人間関係がどうのこうのとか、また騙されたとか、傷ついたとか、いろんな生き様の中で、心が求めていくところが、それが安心感であり、心のよりどころなのです。
肉体的な労働と、意識的な活動の中で、常にそこに安らぎはなく、時間という観念の中で、それを過ごしていたならば、意識はすさみ、心はぼろぼろになり、疲れ果てた肉体と、疲れ果てた心が、現実を見失ってしまうこともあるかもしれません。
そういった心を癒してくれるのが、そして癒されたいと思う心が、人間という組織の中で、それを補ってくれるのが、ちょっとした宗教であったり、人々から受ける、優しさであったり、そして、信頼できる人間関係の中における、安心感なのでしょう。
やはり、安心でき、心が安らぐことが出来たならば、そこに初めて、一日の疲れを癒す、そういった存在があるのかもしれません。
誰もが不安と、まだわからない未来のために、今を一生懸命生きようとしていますが、必ず二人以上の人がいると、意見のすれ違いが起こったり、自分の考えが常に通るとは限らないのです。
自分の意識が阻害されたとき、むかつくといった、そういった現象が起こるのかもしれませんが、いつもそういうマイナス的な要因は、自分の中でつくられることを、私達はまだ分かっていないのです。
何かにすがったり、どこかにそれを求めても、裏切りという言葉で、いとも簡単に崩されることもあるのです。
いろんな出会いの中で、人々は自分以外の意識体や生命体に対し、自分からの発想により、その関係を見出しているのです。
そして、合理的な関係ならば、喜びや楽しみが存在し、不合理的な関係の中では、意識のもつれや憤りが存在してくるのです。
要するに、身勝手ということです。
身勝手な自分でありながら、安心感や心のよりどころを、常に求めたりするのです。
自分の何気ない言葉が、人々を傷つけることも、よくあるのですが、それに気がつくこともなく、自分を反省することなく、他人を責めたりするのです。
要するに、自分からのすべての発想の中に、そういった観念が存在し、そしてそこに、心の安定を求めようとしているだけに過ぎないのです。
要するに、安心感も、心のよりどころも、自分の意識の中で作り出すことが、最もよく行われる行為であり、勝手に勘違いするだけで、それはたやすく手に入ることなのです。
分かりやすく言うと、持続性が存在しないような、安心感や心のよりどころは、逆に自分の勘違いが、それを解決する、とても簡単な方法といえるのです。
ひょっとすると、あの人は私のこと好きなんじゃないかと、それがもし、本当であろうが勘違いであろうが、そんなことは何の意味もないのです。
自分の心がそれで、少し和んでくれたならば、そして人に迷惑をかけなければ、何の問題もないのです。
安心感も、自分が安心と思えば、要するに未来の不安を今考えることなく、今生きた自分と、わずかな安らぎの時間の中で、安心と感じるだけで、それは起こる現象なのです。
それを外に求めようとするから、そこにお金がかかったり、また騙されたりするのです。
勘違いでも何でもいいのです。
自分の意識を、そんな風に置き換えたならば、それだけで済むこともたくさんあるのです。
未来の不安で、今を怯えないで下さい。
今晩眠れる、この優しさが、どんなに安らぎを与えてくれることか、夜の暗闇は、誰も奪うことが出来ないのです。
すべての人に与えられた、平等の権利ですから。
地球の歴史の中で、真っ先に生命として、この地球に誕生したのが、微生物達です。
濃硫酸の海といわれた、とても命が存在できないような地球にあって、酸素を食べない彼らの存在から、この地球が変化していったのです。
そしてまた、かれらも進化してきました。
分裂を繰り返す中で、より環境への適合が行われ、この地球上で生き続けてきたのです。
あの危機的だった地球から、生命誕生へのその導きは、すべて微生物達が行ったといっても過言ではないでしょう。
その微生物達の恩恵を受けながら、植物は育ち、その植物を食べながら、動物達が生き続けてこれたのも、その根底にあるものが、微生物の存在なのです。
動物達の腸の中にもし細菌がいなかったら、動物達は生きることも出来ないし、土壌に微生物がいなければ、とても植物も生きることは出来ないし、落ち葉が枯れて腐るのも、川の水をきれいにするのも、そこには必ず、微生物が関与し、その彼らのテリトリーと環境の中に、今の地球が存在しているのです。
酸があれば、その酸を食べる微生物がいて、この環境は常にいい方向へと、要するに、この地球は微生物達により支配され、彼らが生きるために、うまく作られたのが、この環境なのです。
何か進化の過程で、微生物から植物、植物から動物へと、進化してきたといわれていますが、果たしてそうなのでしょうか?
それよりも、したたかな微生物達に、私達生命体すべてが、うまく利用されているような気がします。
そういった考え方から見た方が、よほど辻褄は合い、理解は深まるのです。
今環境的に、大変危機が迫っているといわれていますが、地球が生まれた頃の環境から見たら、天国のような状態ではないでしょうか?
今回原子力事故が起こったり、大変大きな災害の中で、微生物達は、その持つ能力を、新しいものへと進化させていくに違いありません。
もし、今私達が、新しい世界を築くことが出来るとするならば、真っ先に起こらなければいけない現象が、微生物の進化、要するに、突然変異の中で、彼らがこの地球を、より自分達が過ごしやすい方向へと導くために、この環境を整える方向に、動くことは間違いないと思われます。
彼らの意図で、すべての生命が存在するならば、それは当たり前すぎることだといってもいいでしょう。
その環境の中で、すべての元素は、微生物達によって作られたと、そんな考え方もありますが、確かに、圧力や高エネルギーをかけなくても、微生物なら、それくらいのことはいとも簡単にやり遂げても、決しておかしいことではないのです。
化学物質も、彼らがもし、この環境の中で不合理を感じたならば、それを分解し、正しい方向へと導いてくれるに違いありません。
あの6000度といわれるマグマの中でも、微生物達は生きているといわれています。
あらゆる環境の中に適合しながら、彼らは生き続けている以上、最もこの地球で力を持った生命体といっていいでしょう。
彼らの意識により作り出された、この命のプログラムは、やはりこれから新しいものへと、進化しようとしています。
今真っ先に、微生物達が進化することにより、私達もこの地球で生きる能力を持つのです。
放射能汚染をされても、放射能を食べる微生物がそこにいたならば、それはあまり大きな問題とはならないことでしょう。
要するに、彼らが先に生まれなければ、私達は生きられないということになるのです。
そのことを、深く理解することが、今非常に大切なことなのです。
微生物達を、ばい菌という形で嫌うのではなく、そして、清潔という科学の中で殺すのではなく、彼らに私達の未来を、託さなければならない現実が今ここにあるのです。
もっと深く、微生物のことを理解してください。
彼らが生きたいならば、私達は生かされるはずです。
必ずそれは、可能となることでしょう。
何故ならば彼らは、もっと危機的な地球で生き、今を作り上げた、一番の指導者だからです。
私達がこの地球に生まれたとき、すべての能力を持って生まれてきました。
この地球で生きるための、この遺伝子に刻まれた、自然界を乗り越えるための、いや、自然界と共存するための、知恵や感性が、そこには記憶されているのです。
赤ちゃんが、何も教わらずにミルクを飲むように、哺乳類である生命体は、本能という記憶の中に、この地球で生きるすべての能力を託されながら生まれてきたのです。
特にこの、倭民族に託された、自然神的な、要するに、シャーマン的な意識が、確実に記憶され、そして祈りの世界と未来への希望が、うまく融合し合いながら、現実を正しい方向へと導き、そこに自分達の意識が、うまく融合し合いながら、その持つべき能力が常に発揮され、そして生まれてきた意味を深く知り、何をすればいいのか、どう生きたらいいのか、そんなことを考えずに、感性が望む方向へ、それは常に正しく、未来へとうまく融合し合いながら、今の現実を過去へと融合し合いながら導いていったのです。
未来をすべて予測できる能力と、新しいものを生み出そうとする能力、感性は鋭く、すべてのものと対話でき、そしてその、多くの生き様の中に、命のふれ合いと、そして有効性、人間に生まれてきたことの誇りと、その役割と意味を、新しい未来のために、誰もが持つ能力として、与えられ続けてきたのです。
しかし今、教育といった、この社会の仕組みと、学問といった、教えによる科学と、意図的に仕組まれた、未来への構築が、今まで持っていたはずの、そういった優れた能力を失わせる方向へと導かれ、要するに当たり前の能力が、観念で押しつぶされ、その能力を封印させる方向へと、社会は動いていってしまったのです。
当然この失われた能力を取り戻そうとしても、社会生活という現実の中で、観念でなければ生きられない、今があるのです。
食べ物は、お金を出せば買えます。
衣服も、家でさえも、お金をだせば買えるのです。
このお金という、この道具の使い方を覚えた今、私達は、自分で生きようとする能力を、確実に失ってしまうのです。
どんなに偉そうなことをいっても、社会の仕組みの中で、生かされているに過ぎないのです。
自分が自意識の中で、そして豊かな心を求め、スピリチュアルな発想の中で、今日を過ごしたとしても、それは社会の中に仕組まれた、その法則から、逃れることは出来ないのです。
そこにお金というものが絡む以上、それはすべて、この社会が作り出した、観念論の中に存在し、仕組まれた構図の中で、自由的な勘違いが生まれているに過ぎないのです。
社会という手のひらの中で、遊ばれているに過ぎないのです。
こんな社会で、新しい発想を求めても、生きるための法則の中で現実が存在する以上、その失われた能力を取り戻すことは、きわめて不可能といえるでしょう。
しかし私達倭民族が、神から与えられた、そのシャーマン的な意識は、確実に肉体の中に存在しているのです。
脳や、意識、細胞の隅々に、その感性は記憶されているのかもしれません。
その扉を開く鍵は、さほど遠くにあるわけではありません。
その鍵を持つ、キーワードを、私達はこれから、知ることがあるでしょう。
その鍵は、俗に、天使が持つといわれていますが、内なる意識の中に、その天使は存在し、必ず私達に、それを伝えることが、天使という名のゆえんでもあり、彼らの役割なのです。
それを受け取ることができ、その鍵を差し込む、穴さえ見つけることが出来れば、ただそれを回すだけで、私達がオフという形で止められた、その能力を、そのスイッチがオンになるだけで、その感性は戻ってくるのです。
誰もがその権利を持ち、そして、その能力は、未来のために使われなければなりません。
失われた能力であっても、消えてしまったわけではなく、ただスイッチがオフになっているだけに過ぎないのです。
内なる神、そして天の使者、そこから鍵を預かるだけで、それはいとも簡単に可能となるのです。
その出会いは、必ず起こります。
自分の意識の中で、その光景を、現実のものとし、確実に見ることが出来ます。
信じなければ、それは起こりません。
そして自分の意識をそこに置いたとき、目の前に現れてくることでしょう。
歴史の教科書を紐解いてみても、あまりにも大雑把過ぎて、本当の歴史が分からない、そんな風に感じた人も多いと思われます。
考古学者や歴史学者は、それを追及することが、とてもロマンに満ち溢れ、こんなに楽しいことはないんだとおっしゃっていますが、その通りかもしれません。
日本の頭首が変わるたびに、その歴史は、その頭首の都合のいい方向へと変えられてきました。
要するに、天皇家にとって、歴史はなくてはならない、系図の一部なのです。
しかし、弥生時代や縄文時代、いきなり古墳時代、そうかと思ったら、飛鳥時代、そして、奈良時代、あっという間に平安時代、2世紀や3世紀のことが、まったく分からない状態で、日本の歴史が作られています。
しかし、こういった日本の歴史の中で、隠せなかった、いくら改ざんしようとしても、それは隠すことが出来なかった、そういったものがあります。
それが、地名であり、川の名前であり、山の名前なのです。
北海道に行くと、アイヌ語だということを、確実にわからせるような、当て字の地名が多くあります。
当たり前のことですが、その地名を見ると、アイヌ人がいかにそこで繁栄し、生活していたのかがよく分かります。
沖縄に行くと、普通の漢字でありながら、読み方がまったく違います。
学校で教わった漢字の読みでは、沖縄の地名を読むことは出来ません。
これが琉球民族の誇りであり、改ざんできなかった現実でもあるのです。
北海道や沖縄は、本当によく分かりますが、本州や四国でも、地名や古い州の名前の中に、そのゆえんが多く残されている現実があります。
天竜川が流れ、また犀川や、梓川といったその源流を見ても、その地名のゆえんや、そういった考え方の中の、いろんな生き様が見えてきます。
古墳群があったところは、そういった地名が、要するにそれにまつわる地名がつけられています。
一度日本の古い地図を持ち出し、地名や川の名前を、はじから見てみたら、楽しいのかもしれません。
一説によると、富士山も、アイヌ語で「おばあちゃん」という意味があるそうですが、とても面白いことだと思われます。
洞爺湖に行ったときは、そのとてもきれいな湖の回りに、たくさんのアイヌの地名が残されていて、やはり、江戸幕府もそういった地名を残すことが、すごい優しさのように思われます。
もう一度その地名から、日本の歴史を、何か新しい感覚で、感じてみたらいかがでしょうか?
四国に行ったときは、最近よく、松山に出かけるのですが、この伊予という古い名前の中に、ある人が教えてくれたのですが、一番先という意味があるそうです。
お能のとき、つづみを打ちながら、「いよーぅ!」といった掛け声がありますが、ここに何かの関係をつなぎ合わせてみると、非常に面白い感性が生まれてきます。
伝統芸能、この古くから伝えられてきた、伝統的な芸の中にも、隠せなかった歴史が隠れているのだと思います。
地名や、川の名前、古い州の名前や伝統芸能、そして日本語の持つ言葉の中に、隠せなかった真実の日本の歴史が、そこにはまだ、生きているのです。
自分の住んでいる地域やその周りの地名やそういったものから、もう一度、そこを深く考えてみたら、楽しい一日が過ごせるかもしれません。