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よく仙人は、霞を食べて生きているといわれています。
本当に霞だけで、人間は生きられるものとは思えませんが、仙人ほどの優れた能力がある人ならば、それも可能なのかもしれません。
奥深い山の中で、そこにそびえる岩の祠に、誰かが修行したような跡がよくあります。
たとえば戸隠の、屏風岩に、ちょっとしたくぼみがあり、修行僧達は、その岩の陰で、悟りを開くよう修行したといわれています。
岩に伝わる夜露を口にしながら、眠ったら谷底に落ちてしまいます。
そんな死と背中合わせのような、緊張した面持ちの中で、彼らは修行したことでしょう。
今の私達に、そんなような緊張感が、起こってくるはずもなく、安易に考えている自分の姿が、逆に浮き彫りにされてしまうような気がします。
それほどまでの、究極的な修行の中で、いったい彼らは、何を得ようとしたのでしょうか?
また、それが、社会にどう貢献できたのでしょうか?
そして、何を知ろうとしたのでしょうか?
仙人という、そういった存在は、何のためにそこにあるのでしょうか?
よく言われる、森の精霊とか、神々のような、そういった存在と、仙人とは、どう区別していったらいいのでしょうか?
そして、修行僧が、仙人の位まで能力を高め、この宇宙の法則のすべてが理解できた、そういった悟りの、窮地の中で、自分を追い込み、死と直面した、そういった意識の中で、わずかな命をつなぎ合わせるために、岩に生える苔の存在があります。
人間が手の届かないような、非常に危険な崖の中腹に、その苔は存在します。
仙人になるための修行の中で、その苔は非常に貴重であり、一歩足を滑らしてしまったならば、命を失いかねないほどの、そういったところに、その苔が存在する意味は、非常に大きなものがあると思います。
その仙人達が食したといわれる、貴重な食材、それを人々は、霞苔といいました。
仙人が霞を食べて生きている、そのゆえんが、この辺にあるのかもしれません。
あの霧のような、水蒸気だけの霞ではなく、その霞を食べて生きる、苔、すなわち、霞苔が、仙人を生かす、すばらしい生命体であったことは間違いないのです。
その霞苔に、すべての命を託し、仙人は、この自然界に大きく君臨したと思われます。
人々が、迷い、そして苦しみ、未来を見失ったとき、仙人はこの世に現れ、危機的な状態から、私達を導いてくださる、大変素晴らしい指導者だといわれています。
そういった彼らが存在する限り、私達はまだ見捨てられたわけではないのです。
日本における、これから起ころうとする、いやもう、すでに起こっているかもしれない、大きな変革の中で、今こそ、日本古来の意識を持つ、究極の人間、そして、人間を越えた神的存在な仙人との出会いが、私達をこれから新しい方向へと導いてくれるに違いありません。
今まで、神話の中だけに存在していた仙人達が、ようやく姿を現そうとしています。
この悟りを開いた、特殊能力を持った、ある種の集団は、山の中で意図も簡単に生活することができ、何の不自由もなく、そこで行き続けることができる、素晴らしい能力を持った人々なのです。
仙人的な存在の中に、私達の未来は、これからどうかかわっていくのか、その指導をどう仰ぐのか、それが一番大きな課題となることでしょう。
この危機を乗り越えることが出来るとするならば、そういった彼らがよみがえることが、とても大切なことだと思われます。
一度も会ったことがない人がいて、でも、噂話やいろんな書物、その中から、とても良く知っている人がいたりもします。
会ったことのない芸能人のことを、性格がいいとか悪いとか、意識がいいとか悪いとか、勝手なことを言い合うのも、言う側の言論の自由なのかもしれません。
会ったことのない人の悪口で盛り上がったりすることもよくあります。
逆に、会ってみたら、なんていい人なんだろうと気付くこともあります。
人間達は、日常生活の中で、演技しながら今日を生きています。
見かけだけで人を判断することは、とても難しく思います。
汚い服を着て、宝石を売りにきたとしても、誰もその宝石を買う人はいないでしょう。
何故ならば、その服装を見て、そんな宝石を持っているとは思えず、偽物を売りに来たのかと思っても、仕方ないことだからです。
もし、きちんとしたスーツを着て、アタッシュケースを持ち、宝石を売りに着たならば、その宝石の価値観は、その人から生まれる雰囲気の中で、とても素晴らしいものとなるでしょう。
品位と品格という言葉があります。
あまりいい服を着ていなくても、品格は備わってきます。
それがその人が作り上げてきた、人生の結果といってもいいでしょう。
品位も、その人の心の繁栄とともに、口元から目元へと、またちょっとしたしぐさの中で、それは大いに感じられるものであります。
どんなにきれいな服装をしても、品位と品格は、見抜かれてしまうのです。
きれいに化粧をしても、その品格は、見抜かれてしまいます。
人間というのは、大変大きな意味を持ち、この世の中に生まれてきました。
人を見たら泥棒と思えという諺もありますが、そんなことばかり言っていたならば、楽しい人生は送れません。
この、人は見かけによらないという言葉の中に、悪くとることも、よくとることも、両方の意味を持っています。
「何だ、みすぼらしい格好をしていたのに、こんなにすごい先生だったなんて」
そんなこともよくあります。
そんなとき、やはりどこかに品があったよねと、そういう感想がよく聞かれます。
確かに、隠しきれるものではないのかもしれません。
きちんとした服装と、身なりをしていても、一緒に食事をしたとたんに、その人の本性が表れ、なんか嫌な気持ちになることもあるのです。
隠せるものと隠せないもの、これが、品位と品格、そして人は、見かけで判断してはいけないという教えの中に、人への観察力と、自分の行いが、未来に対する意識の変化の中で作り上げられる、人柄ということになってくるのです。
人には個性があり、その個性は、一人ひとりの判断にとても大切なことですが、中々、その個性を生かしながら物事を行おうとしても、すべてがうまくいくというわけではありません。
そういった考えもある中で、ある日突然目覚めるような、新しい感性や意識が存在します。
特殊能力は特に、そんな瞬間に表れ、自分も他人も知らない中で、ある日突然芽生えることがあるのです。
自分でも知らない、未知の自分との遭遇は、とても楽しいものでもあります。
まだまだ人間は、すべての能力を発揮しているわけではありません。
確実に存在する、新しい自分と、そして新しい感覚の中で、いつでもその瞬間はやってくるのです。
見かけによらない自分を見つけることが出来たら、とても楽しい出来事となるでしょう。
霊感商法と聞くと、なんだか胡散臭い、ものの売り方のように感じます。
確かに法律的には、霊感商法は許される行為ではありません。
ただしこの霊感商法の中で、そこにものが存在するのかしないのかによって、まったく意味が違ってきます。
今行われている、いろんなセミナーや、講和会の中で、宗教的な現象は、決して否定されてはいないのが現実なのです。
そこに高額な商品が付きまとったとき、そのことによって高額的な付加価値がついたとき、それを違法販売と呼ぶのです。
原価わずかなものに、霊的な現象をプラスし、ものを高く売ったならば、それは違法商法ですが、原価に見合った価格で、そこに付加価値を見出さず、相手が納得するものであるならば、それは決して霊感商法とはいえないのです。
何か飲んだとき、スッキリさわやかとか、喉越しとか、いろんな言葉が使われますが、そういったコマーシャル用語であっても、相手がそれに魅了されるような意識が存在すれば、ある種の霊感商法に過ぎないのです。
誰かが持っているとか、それがブランド商品というような、意識を高める商品であり、優越感をもたらす商品であるならば、それも完璧な霊感商法なのです。
人よりもいい物を持ちたいという、そういった意識を満たすために、その満足感が、何によって得られるか、そこを捉えたならば、テレビコマーシャルにおける、たとえばきれいな人がその化粧品を使ったならば、きれいになれると勘違いするような現象が起こってしまうことがよくあります。
自分もそうなりたいという欲望を持たせるために、きれいな人をコマーシャルに使うのです。
これは物質における、相手の感情の勘違いの中に存在する、大いなる霊感商法なのです。
そんな風に考えたならば、雰囲気とか、その場の情景とか、言葉とか、登場する人物とか、そういった相手がそこにそのものが持つ以上の感性を要求し、そしてそれに従ったとしても、要するに、違う人がそれを使ったからといっても、同じく表現されることはないし、それを飲んだからといって、素晴らしい出来事が起こったわけでもなくても、それを批判したり、それを攻撃することはないのです。
一般的な社会の仕組みの中では、そういった現象はたくさん起こってきます。
ただそこに、言葉巧みなテクニックの中で、霊的な現象を有効的に使おうとし、確認の出来ない、物質以外のものをその中に要求したり、例えば、転写とか、感情の入力とか、霊的に裁かれるとか、いろんな現象の中で、高額的な付加価値が存在したならば、それはあまりいい商法とはいえないでしょう。
そしてまたそれを使う人の感性を批判したり、その人の意識により、変化を要求したり、またその、意識により、それがうまくいかないかのように表現することは、あまりいいこととはいえないでしょう。
波動の科学の中ではよく、そのような転写という言葉が使われていますが、決してそれは、侮れない現象なのです。
確かに霊的なそういう感性の中で、変化を生じることもよくあるのです。
それが少しだけ高い値段で売られるならば、あまり問題にはならないかと思いますが、その付加価値が本来そのものの持つ価格の、20倍ともなれば、話は別になってきます。
その倍率がどうかという問題、確かにそれもあるのですが、それを高いと判断するのは、その人の判断にゆだねられています。
中には50倍のものだって存在するのです。
でもそこから、大いなる満足感が得られたならば、それは何の問題もなく、現実のものとなっています。
今、こういった社会の中で、人の心が中々理解できない、そういう人達が増えてきています。
だまされ続けて、この100年間の中で、人々は人を信じることが出来なくなってきたのでしょう。
信じて使えば結果の出るものであっても、疑って使ったならば結果の出ないものもよくあります。
人間は意識であり、感情の動物なのです。騙されまいとする心が、逆に自分をだめにすることすらあるのです。
霊的現象を侮ることは出来ません。
意識障害に悩む人々の中には、そういった霊的現象が、絡んでいる場合も多く存在します。
そういった、社会現象の中で、それを逆手にとり、利用している人達もいることが、とても残念に思えますが、逆にうまく有効利用したならば、大変素晴らしいものとなるでしょう。
何か新しいことをしようとしたとき、大きな壁に突き当たるものです。
その壁を乗り越えようとしたとき、スムーズに行われることはまれであり、足を引っ張られることもよくあります。
何か新しいことをしようとしたとき、前あった古い出来事を覆すような現象が起こったとき、そこにしがみつこうとする意識が、妨害という形で表れてきます。
要するに、新しいものに挑戦しようとすると、古いものが妨げになったりすることもよくあるのです。
常に世の中は変わり行くものであり、新しい方向へ向かおうとするならば、古いものを捨てなければなりません。
そこに矛盾が生まれたとき、妨害者が現れ、石をぶつけてくるのです。
辻褄の合わない話の中で、妨害しようとしたとき、そこに大きな矛盾と、また嫌がらせとも思えるような、どうでもいい感情が生まれてきます。
しかし新しいものへの挑戦は、常に続けていかなければなりません。
そういった妨害は、さほど大きな意味を持つわけではありません。
一時の感情のもつれや、考え方の違いが、たまたまそういった形に現れただけで、本当に進もうとしている道が、正しく明るいものであるならば、勘違いや誤解は、必ず解かれてきます。
いくら妨害しようとしても、真実は、変わることはありません。
そこにどんな嘘を並べたとしても、そんなものは通るはずがないのです。
逆に妨害しようとするその側に立って物事を考えて見ましょう。
自分から見たらどんなに不合理性の中にある出来事だとしても、そこを合理的に持っていこうとすると、エゴ的な妨害しか出来ません。
何かをしようとしたとき、本能的に、自分を防御しようとする、防衛本能が出てきます。
この防衛本能が、新しい出来事との出会いが、自分にとって有効的でないときに、その能力が発揮されるのです。
防衛本能は決して悪い本能ではありません。
自分を守ろうとすることと、人がこれから行おうとすることを妨害することは、本来まったく意味が違うはずです。
なのに、新しいことへの出会いを妨害することにより、自分を守ろうとする、浅はかな防衛本能は、決していいものとはいえません。
そんな姑息な、テクニックを使うような、情けない自分を、ただ発見するに過ぎないのです。
防衛本能を、自分を強くする方向に、より素晴らしい自分を築く方向に向けたならば、とても素晴らしいことなのですが、相手をこき下ろすような、妨害行為を行って、自分を守ろうとしたならば、おろかな人の単純な発想に過ぎません。
そんなに心を、惨めに自分を置き換えることは、しなければいいのですが、中々人は、その過ちに気づくことはありません。自分が正しく、正しい方向に意識があるならば、自分に携わった人が、新しい方向へ行こうとしても、自分がより素晴らしければ、必ず帰ってきます。
自分を信じ、そのときを待てばいいだけなのです。
要するに、妨害しようとする人は、自分が持つ能力の無さを露呈しているに過ぎません。
自分で自分の能力のなさを、暴露しているのです。
こんなばかげた現象に追い込まれるのは、そこにおける虚栄心がもたらす現象の一つなのです。
誰もが皆、少しだけ見栄を張って生きています。
その見栄が、防衛本能を乗り越え、相手を陥れるような妨害行為に陥り、自分を高めようとしても、そこに新しい時間は存在してきません。
逆に、そこから離れていく人が多くなることでしょう。
本物ならば、正しければ、待っていれば、必ずそこに、そういった正しい方向に導かれ、仲間は戻ってきます。
それを信じられない、要するに、自分の仲間内を疑っていることになるのです。
人の粗(あら)を探したり、相手がこれからしようとしていることの、落ち度ばかりを探し、そこを有効的に利用しようとし、自分の仲間に知らせたならば、そしてそこにまた、近づくなといったならば、それは本当に自分を惨めにする、自分から仕掛けた、自爆ボタンのスイッチを押すことになるのです。
自滅の方向性は、何も生み出してはくれません。
逆に有効的な出会いの中に、お互いの有効性を見出し、心広く接することが、新しい観念を作り上げる、一つのエネルギーとなることでしょう。
広い心で物事を判断し、意味の無い妨害行為を繰り返しても、そこに得は存在しないのです。
そんなことより、そこから多くのことを学んだ方が、どれだけ自分にとって有利なことでしょうか?