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今、地球は、24時間で一自転しているわけではありません。
この時間にわずかなずれが生じていることは、皆さんもよく知っていることでしょう。
ほんのわずかな時間の狂いでも、それが繰り返されるうちに、その誤差は日に日に増し、一年のうちでは大変大きな違いとなってきます。
例えば、たった一秒違ったとしても、光のプログラムから見たら、30万kmという距離の誤差をつくってしまうのです。
30万km、それは私達地球に住む人間から見たならば、その1秒の誤差により、あらゆるものが変化を表していきます。
よく占いで言われる統計学、これは、地球の回転と時間の関連と、月との因果関係の中で、計算上作り上げられた、大変素晴らしい科学ですが、地球の回転に変化が生じた今、もうそれは通用することはありません。
星占いも、そういった面では難しい存在となることでしょう。
統計的に捉えてきた人間も意識も、たとえば前年度比という言葉もありますが、去年と今年はまったく違った環境の中にあるのです。
大震災が起こった後、日本の位置が、地図上でも大きな変化を遂げました。
日本が、そして日本の地形が、大きく変わったのです。
あの震災からは、厳密に言ったならば、日本地図、要するに地球儀から見た日本の位置を、今の地球儀は正しく表現できていないのです。
大きなところでは、2mもの誤差が表れているといわれています。
また地盤沈下も起こり、海抜という言葉も、地域によっては変わってきてしまったのです。
この大いなる変化の中で、去年と今年は、まったく違うと言ってもいいでしょう。
私達は、太陽と月と、宇宙の作用により、今この環境の中で、安定的な時間を得ていますが、その変化の中では、その変化についていこうとする、意識の存在が不可欠になってきます。
要するに、進化という言葉の中で、環境への適合が望まれるよう、私達日本人の意識の中に、新しい感性の芽吹きを見ることが出来るのです。
今回起こった現象を、人工的に起こそうとしたならば、非常に大きなエネルギーとまた大きな問題を現実のものとしてしまいますが、この現実を不合理と見るのか、逆に進化への糸口と見るのか、考え方の相違により、道は確実に二つに分かれてきます。
多くの犠牲者を出し、今この日本があるならば、それを有効的な方向に考えなければ、亡くなった方に申し訳なく思います。
新しい未来は、もう始まっているのです。
地球儀上で日本の位置が変わったように、また、日本の形が変わったように、もうすでに始まっているのです。
日本の一部が変わるだけで、エネルギー的な安定の中では、たったそれだけの出来事で、すべてに変化が表れるのです。
ましてや、地球の回転にも影響を与えるほどの、諸外国での火山の噴火や、そういった天変地異の中で、新しい地球、そして新しい日本の時間が始まっているのです。
進化するためには、真っ先に表れるこの変化の中で、どう生きるかへの対応が、未来をつくる一歩となるでしょう。
このことに気づいた人達が、この日本におけるエネルギーとそして大地の法則と、自然界におけるそういった月や太陽の関係の中で、日本の位置付けは確実に変化し、新しい未来をつくろうとしていることは間違いないでしょう。
そういった認識の中で、私達の意識も、新しく変化していくのです。
まずはそれを認めなければ、新しいプログラムの中で、私達の意識は、未来へと進むことは出来ません。
これをチャンスとして考えるのか、そうでないのかはその人の自由ではありますが、与えられたこの環境の中で、そこをどう乗り越えていくのか、この究極の選択の中に、新しい進化と新しい科学は目覚めてくるのです。
追い詰められた意識の中で、逃れようとする思いと、それに立ち向かおうとする意識が、うまく融合しあったとき、初めて新しい感性と出会うことが出来るのです。
結果的には、未来は必ず開かれ、そのための準備は、今すべきなのです。
早く気づいてください。
今起こる現象は、私達に何を教えようとしているのか、また、私達に何を気づかせようとしているのか、今まだ始まったばかりです。
そこに目を向け、そこに意識を置き、新しい位置付けを、そして新しい感性を、未来のために今の時間と今起こる現象を、確実に捉え、意識することです。
福島の原発事故から始まり、今一番私達に問われていることは、安全性という言葉ではないでしょうか。
今までは安全性よりも、有効性であったり、または機能的なものを求め、安全性を阻害してまでも、有利性的なことを考えてきたものです。
中でも代表的なものが、美味しければ何でもいいという考え方の中から、食品添加物や、物を長持ちさせるためには何をやってもいいという考え方から、防腐剤等が作られてきました。
また、似たような味であれば脳が悲鳴を上げてもかまわないんだ、という考え方から、人口甘味料や人工香料が作り出されてきたのです。
放射能汚染された食品や農作物に対しては、その安全性をものすごく追及している人達も、そのほかの食料に含まれる危険性については、まったく認識していないのが現状なのかもしれません。
自然界の法則の中から見たならば、逆に微弱な放射能であれば、そんなに恐れるものではありません。
しかしその自然界の法則から反する、現実の中で起こる現象は、脳にかなりのダメージを与え、本能へのストレスは、限りないものがあるでしょう。
おじいちゃんやおばあちゃん、両親も、また遺伝子の知らない、腸内細菌の知らない、そんな食べ物が、あまりにも多い現実が、今ここにあります。
こちらの方が、どんなに危険な行為なのか、消毒という名の下で、毒をばら撒き、菌を殺す、菌を殺したから安全、これはまったく逆の行為です。
菌を殺すほどの猛毒物質を、ばら撒いたに過ぎません。
ゴキブリが死ぬほどの、大変な物質を、部屋の中でばら撒くこともあります。
その他に、自然界の中では絶対に存在しないような、化学物質でつくられた、味覚的な物質が多く存在することも現実です。
やはりこれらも、安全性という面から見たならば、どこにもその安全性を確認できる事実は存在しません。
特に遺伝子組み換えが蔓延する中、本能で生きる彼らはそれを食することはありませんが、観念でごまかされている私達は、平気な顔をして、遺伝子組み換え食品や、種なしぶどう、科学的に処理されたものなど、何の不安も感じず食べ続けています。
この危険極まりない現実の中で、安全性を度外視した、そういった食品が、私達に何を、そして人間以外でも今、たとえばペット達に、人間と同じ病気が多く存在してきました。
やはり食糧事情の中で、今行われている行為は、安全性という言葉が当てはまる、そういった食品が少ないことは言うまでもありません。
食べ続けたらどうなるか、答えは未来にしかありません。
何故ならば、いつまで食べたら病気になるのか、いつまで食べたら脳が狂うのか、その判断が出来ていないからです。
これから急激に増える病気が、脳における意識障害といえるでしょう。
これだけの自然界を無視した、また、安全性を度外視した、そういった食べ物を食べ続けたならば、何億年もかけて築き上げた、遺伝子における安全性が覆され、脳はその比較との中で、計算し得ない、不可思議な現象と出会い、暴走するしか方法のない、極めて危険な方向へと導かれることでしょう。
世界中が、気違いだらけになっても、何の不思議もないのです。
当たり前に起こる現象が、起こるだけのことなのです。
ある種の科学者達は、脳が狂うことは、はじめから予測できたといっていました。
何故なら、脳によって管理されているシステムが、その管理の領域を上回ったならば、暴走することは当たり前に起こる現象だからです。
今、本能における脳内ストレスは、限界を超えているといってもいいでしょう。
安全性を失った食品を、もう50年以上、年齢差はあるとしても、食べ続けているのです。
人間の科学は何を考えているのでしょうか。
原子力に、エネルギー依存するように、この科学の行方は、理解することは非常に難しいものとなっています。
脳の知らない光が、テレビから発せられ、そして脳の知らない光に、家の中は照らされ、そこから何が生まれてくるのか、いまだ未知数です。
安全性という言葉の中では、自然に対して人間が何もしない方が、一番正しい安全への考え方といえるでしょう。
自然を乗り越えるために、どれだけ不自然な行為を繰り返し、それが安全を失う行為だということを、どうして認識することが出来なかったのでしょうか。
欲の中で繰り広げられた、人々の意識が、要求する側を満たすために、要求される側は、今の社会を作り上げていったのです。
要するに、私達全員が、このように導いてしまった現実を、認識してください。
すべて私達がいけないのです。
地球があって、太陽があって、月があって、一年というサイクルの中で、何をどう考え、どう生きたとしても、その人にとって、それは決して不利益な出来事ではありません。
自然界や神々は、人を差別することはありません。
どんなに悪人であったとしても、逆にどんなに善人であったとしても、同じく太陽は照らされ、夜の月はやさしく微笑んでくれます。
この世における自然界の現象は、すべての生きる生命にとって、常にその立場は平等であり、その光を受ける権利も、平等なのです。
万能であり全能な神は、たとえば神社に行って、深くお辞儀をし、後ろに人が待っているにもかかわらず、長い時間祈っている人がいますが、それは大変無駄な行為ではないでしょうか?
何故ならば、神は、目の前にその人がいて、柏手を打ち鳴らしたとき、もうすべての思いを神は読み取っているのではないでしょうか。
あなたが何しに来たのか、何を願いたいのか、その目の前にあなたがいるなら、神はきっとこういうに違いありません。
「何も言わなくていい。
すべて分かっている」と。
神々に、こと細かく自分の思いを伝える必要はないのでしょう。
逆にそれを伝えようとしたならば、神はそれを、うるさく感じるかもしれません。
私達人間は、すべての自然界の恵みにより生かされているのです。
ある特殊な人が、特殊な人に、何かをしてあげる、それも変な出来事です。
光も風も、月の優しさも、すべての命に平等であり、上下関係や、肩書きに左右されず、人間であるかそうでないかは、そんなに大きな問題ではないのです。
この地球に生きる、すべての現象は平等に振る舞われ、そして、それを受ける権利も、常に平等なのです。
与えられるすべてのことを、どう受け取るかが問題であり、そのことを分かったならば、いつまでも自然の恵みを、受け続けることがすべての命の権利といえるでしょう。
その権利を放棄せず、そこに感謝を持って、自然界のすべてを受け入れたならば、いかにこの世の中が平等なのか認識することが出来ます。
五智如来(ごちにょらい)の中でも、物事は平等、すべての物事を平等に見ることが、五つの中の大きな知恵の一つだといわれています。
いかに平等に捉え、それを素直に理解するかが、大切なことなのでしょう。
不平不満は自分の中から生まれ、それを他人にぶつけることにより、全体の雰囲気を悪くしてしまいます。
愚痴や怒りも、すべて自分の中から生まれ、誰かにそれを伝えることにより、人の心を傷つけ、そこに何の満足感を得ようとしているのでしょうか?
自分の中から生まれることに早く気付き、それを自分の中で解決し、平等に与えられた権利を、最大限に受け取り、そこから生まれるものを、いかに有効的に利用するかが問題なのです。
誰もが、同じ能力を持ち、この地球に生を持ちました。
人間だけが差別や区別があるわけではありません。
畑に種を蒔いたとき、同じくその種は芽を吹き、同じ大きさで、双葉を広げていくことでしょう。
ただ大きく育つ中で、日なたを選ぶか、日陰を選ぶか、その置かれた立場の中で、どう権利を構築していくのか、また、与えられた平等性の中で、その与えられたものを、どれだけ有効的に取り入れていくのかは、すべて自由に振る舞われる、出来事の中の平等の権利なのです。
私達は、すべての権利を、平等に持っていたはずなのです。
それを失わなければ、それだけで済むことだったのではないでしょうか?
自分が苦しいときは、それに関係するほかの人達も、同じく苦しいはずなのです。
そういったことが理解できたならば、できるだけ人に優しく、そして自分を強く持っていけることでしょう。
新しい年を迎え、あっという間に春になり、夏を迎えようとする季節となりました。
お正月に、注連縄飾りをしたり、門松を置いたり、優雅に過ごした日々を、もう思い出すこともなくなってきました。
お節料理が、今では懐かしいのですが、今目の前にあったとしても、美味しく感じるかどうかは分かりません。
なぜならば、いろんな野菜や苺がなり始め、とても豊かな食糧事情がそこに生まれてきているからです。
お正月を冬に迎え、そんな中では良かったことも、時間が経つにつれ、それは変わっていくのは仕方ないことですが、何か懐かしさもあるのです。
神棚を掃除しながらあの注連縄を神棚に飾ったとき、年末と年始を強く感じるものです。
ところで、注連縄のゆえんを調べてみると、とても面白い現象がありました。
ある書物の中にあった出来事なので、そう言い切ることは難しいのかもしれませんが、書いてあったことをそのまま伝えますと、あの注連縄は、天照大神が隠れた、天岩戸にかけられたのが始まりといわれているそうです。
須佐之男命(スサノオノミコト)が、大声で泣いたり、馬の皮を剥ぎ取り投げつけたり、あまりにもの横暴さの中で、天照大神は天岩戸に隠れてしまったといわれています。
世の中は真っ暗になり、神々達は嘆き悲しみ、何とかしようと、そのときアイディアを出した神様が、天八意思兼命(アマノヤゴコロオモイカネノミコト)、そしてそのアイディアは、天岩戸の前で皆で祝宴を挙げ、楽しんでしまおうという作戦でした。
その時の踊りを踊ったのが、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)と言われていますが、相当楽しかったのかもしれません。
夜がずっと続いていますから、朝がきたのか分からず、それを告げてくれるため、鶏を用意しました。
その鶏を繋いでおいたのが、鳥居といわれています。
そして、大きな鏡が用意され、祝宴が続くのですが、あまりにもの騒々しさと、その宴に、好奇心旺盛な天照大神は、天岩戸を少しだけ開け、外の様子を見てしまったのです。
そこに鏡を向け、自分よりも素晴らしい、その存在があるのではないかと勘違いさせ、その度肝を抜かれたような瞬間に、神々達の中で最も力の強い、天手力男命(アメノタジカラオノミコト)が、天岩戸を開け、天照大神をこの世に引きずり出したといわれています。
そして、天手力男命は、あわてて天岩戸を閉め、二度と天照大神が天岩戸に入らぬよう、その岩戸にかけたのが、締め出す縄、ようするに、締め縄(しめなわ)だったといわれています。
今は字が変えられ、その意味を持たなくなってきましたが、神様でさえも入ることが出来ないほどの魔力を持った縄を、その岩戸に括り付け、二度とその扉をあかなくしたと伝えられています。
そういった意味から考えたならば、しめ縄のゆえんは、本来は締め出す縄から来ているわけですから、縄を張っては、神々達はそこにはこれなくなってしまうのかもしれません。
稲わらで作った、それを捻り上げた縄には、そんな大きな魔力があったのでしょう。
その後、天照大神は、天津神としての地位を永遠に守り、今を照らし続けてくれていることは、大変有り難いことに思います。
お祭りのときに、何か村中に注連縄を張り巡らせ、人間達が楽しんでいるのも、何か変な気がしますが、最後には天狗がその縄を切り、お祭りはクライマックスを迎えますが、注連縄の意味を考えてくると、何かわけの分からない、そんな感じがします。
なんのために、あの出雲大社には、あんなに大きな注連縄があるのでしょうか?
その本に書かれていた意味からするならば、神様を入れなくするため、もしくは、中にいる神様を、出れなくするため、そんなような意味にも捉えられてしまいます。
そのことが、正しいことか、間違っているかは別として、多くの古代神達が封印され、解き放たれる時期を待っているのも、その意味からは見えてきます。
この日本は、すべての場所に神々達が宿り、私達の日常生活を見守ってくれています。
人間達が、神を締め出し祝宴をする、五穀豊穣の祭りと、天岩戸の前で広げられたその祭りが、何かうまく交差しながら、豊かな日本人を作り上げているのかもしれません。
何か悪いことという意味よりも、神々達は人間達をかわいく思ってくれることでしょう。
何故ならば、人間達は神によって生かされ、神によって生まれ、魂(みたま)分けを受けながら、今ここにいることを、そしてそれに感謝することを、自然が存在し、明日を迎える喜びを、やはり日本は、大自然の中で、八百万の神のおかげで、今あるのでしょう。
一緒に騒げるお祭りは、永遠に続くことが、日本にとって人間と神との統一されたテーマなのでしょう。