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日本の国旗は日の丸です。
世界の国旗を見ると、太陽をまあるく描いて、ど真ん中に一つ置いたなんて国旗は、とても珍しく、他に類を見ることはありません。
星とか、月とか、色とか形で、いろんな事を表す国旗はたくさんありますが、日本の国旗ほどシンプルで明解なものはありません。
地球的な時間の観念は、地球が東へ東へと回る以上、一番早く太陽が昇る国が、一番東の国とされ、地球時間と日にちがつけられています。
要するに地球の時間は、日本から始まっているのです。
日本が真っ先に、夜明けを迎えるのです。
地球に住む多くの人達は、全ての理論やすべての科学は、東にあると考えていました。
確かに、太陽が向こうからやってくる、そう考えていた時代から見ると、当然のことかもしれません。
先に夜が明けるわけですから、先に物事を考え出し、そこから学んだ方が、早くに多くを知ることが出来る、唯一の方法なのでしょう。
中国の文献の中にも、東の国より学ぶという記述があるそうです。
やはり、日本は、東を代表する、日、出ずる国ですから、世界で最も高い能力を持っていたことは間違いないでしょう。
例えば、漢字一つ見ても、日本語における漢字と、そうでない漢字のあり方を見ると、非常にそれはよくわかります。
中国から伝わった教えの中に、熟語が存在します。
そして、漢字には、音読みと訓読みがあります。
昔は全て訓読みであり、倭言葉は全ての漢字を訓読みにすることにより、それはよく見えてきます。
自分という漢字を書いたとき、その文字を分解すると、自らを分けるということになってしまいます。
全く意味のない言葉ですし、人間という漢字を、分けてみると、人の間ということになりますので、そこには何も存在していません。
希望という言葉も、その意味を探してみると、そうあることを望むということになり、なにが望みなのか、そこには存在してこなくなってしまうのです。
二つの意味が一つになり、熟語が作られてくるのですが、逆に、熟語という、そういった言葉が作られることにより、日本語が訳が解らなくなっていった現実も存在しているのです。
熟語が全ていけないわけではありませんが、一文字の意味を考えていくと、日本語の素晴らしさが、逆によく解ってきます。
学問が、学ぶことと問うことに分かれている以上、二つの意味が、それぞれ別の方向を持ってしまうように、学ぶだけで、十分ではないでしょうか。
この東の国から生まれた文化は、西に伝わり、いろんな国の考え方や、文化に触れながら、また東に戻ってくる、そんな地球環境の中で、言葉や文字は大きく意味を持っているのです。
日本語と漢字を、一文字にしながらみてみると、その意味が、非常によく解ります。
漢字が外国に伝わり、発祥の地である日本に戻ってきたとき、また新しい形に、それは変わっていったのです。
明治維新から、それは意図的に行われたような気がします。
日本の歴史や、地名や、隠し切れない存在の中に、改ざんされた意識が、その趣を変えずに残っている現実もあります。
いくら歴史を変えようとしても、致命的な発想の中では、それは不可能だったということになるのです。
青森の、戸来村(へらいむら)には、キリストの墓があるといわれていますが、何か、ヘブライ語とよく似た言葉ではないでしょうか?
ローマ字も、この記号が、非常によく作られた記号であり、凄くわかりやすく思われます。
四国で出合った人が教えてくれました。
遠くにいる人に、漢字では、もちろん声が聞こえないので、手旗信号のようにものを伝えようとしたとき、伝えることが出来ないのですが、アルファベットなら、数人いたならば、遠くの人に文字を伝えることが出来るのです。
この記号も実は、そういったために作られたと考えたならば、確かに素晴らしい記号であり、だから熟語的な発想だけ意味を持てば、それでよかったのかもしれません。
確かに、日本語は、そう、全ての日本語は、なぜかローマ字で書き表すことが出来るのです。
あの難しい、きゃきゅきょや、にゃにゅにょまで、何故ローマ字で書くことが出来るのでしょうか?
そんなことを考えていくと、やはり東の国が、いかに優れた能力を持っていたのか、そこですべてが発祥したのではないかと考えたほうが、よほど辻褄が合うのです。
世界各国の関係の中で、日本がそれを主張することは、さほど意味のあることではありませんが、少しそんなような発想で物事を捉えたならば、日本人の役割が見えてくるはずです。

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今日は、2012年3月13日、3の日です。
3という数字と、13という数字と、最近では11という数字に大きく興味を持たれていますが、何かの予言として、そこに観念を組み合わせると、いろんな考え方が生まれてきます。
13の月のカレンダーを見ながら、今日の日を考えたり、明日を考えたり、星占いを見て、楽しんだりもしています。
かつて地球上に生まれた、優れた民族の中に、超能力者達が何人も存在しました。
キリストや釈迦も、その1人だと思われます。
そして、みな、未来に対して、要するに、人々が一番不安に思うことは、未来であり、未来がどうあるのか、いつまで生きられるのか、生活は安定しているのか、どのような日々を過ごしているのか、未来を考えると、どうしても、そこを先に知りたいという願望が生まれてきます。
その欲望をうまく満たしてくれているのが、占い師達です。
もちろんそれは、当たるも八卦、当たらぬも八卦ですから、統計学から導かれた、勝手な考え方に過ぎません。
具体的な日時や、出来事の具体性は、あまり触れず、客観的な意見の中で、その人を振り回すような、また確認の取れないような言葉の選び方で、当たっていると思わせているに過ぎません。

そんな占いではなく、ここでは、予言者達、今まで現れた、数多くの予言者達の中で、未来を的確に当てている予言者達は、本当に存在したのでしょうか?
今回、日本で大きな地震が起こり、その前から地球全体の地殻変動が起こり、火山の噴火や、大地震により、地球の回転や軌道が、かなり大きな変化を見せました。
この日本でも、偏西風が安定せず、季節がおかしな方向に進んでいってしまっています。
統計学は、地球が安定しているときにこそ存在する理論であり、地球が大異変を迎え、人間達の心が変わろうとしている今、その統計学的な予言は、もうすぐ、意味の持たないものとなるでしょう。
今年は、2012年、マヤ暦を読みながら、過去の予言者達との意識の交流の中で、その読み方が、本当に正しかったのかどうか、大いなる疑問がわいてきています。
この2012年に、地球滅亡説を立てている人達は非常に多くいるのです。
12月になって、クリスマスイブのケーキをみんなで笑いながら、ろうそくの火を消している人達が存在するとするならば、それを否定した人達は、焦っているに違いありません。
確かに、2000年問題のときもそうでした。
コンピュータは、何の誤作動も起こさず、何事もなかったのです。
何のために、2000年問題があったのか、今となっては、どうでもいい話になっています。

2012年にターゲットを絞った中で、3月13日の出来事を、そして3の倍数と、13のプログラムを、どう組み合わせるかによって、また色々な法則が生まれてくるのです。
空白の1日をどう考えるかの、そういった意識の中で、日時を誤って計算している可能性が非常に大きいのです。
具体的にどうすればいいのかはわかりませんが、ヒントは、もうすでに申し上げた、13と3の定義の中にあるのです。
そして私達の意識は、7という定義の中で、宇宙とコンタクトを取りながら存在しているのです。
そして6のサイクルが、時間の観念と、宇宙のサイクルを作っています。
今年はうるう年で、2月に29日があり、4年に1度の修正が行われました。
たかだか4年間で、宇宙時間からいったら、わずかなひとときで、1日もの大量の時間を修正しなければいけないのです。

こういったサイクルの中で物事を考えたならば、これから起こる未来現象の中で、日時的な観念は、人間が作り出した、都合のいいだけの法則であり、宇宙のシステムには、何の関与もなく、ただ便利さと都合のよさだけで決めた出来事に過ぎないのです。
大宇宙はいつも、ファジー的な感覚の中で、10を3で割るようなことはたやすく出来るのです。
人間達の数学という学問が、自然界の法則の中で、非常に大きな邪魔をしているのです。
置き換え理論の中に、いくつもの過ちが計算され、現実を作り上げているのです。
よって、過去における予言者達の、意識の想像は、人類への警告であり、それは、滅亡や死を表すことは決してないのです。
どうこれから生きるのかが問われているのであって、この三次元が崩壊するわけでもなく、地球が消えるわけでもなく、人間達が滅びるわけでもないのです。
この三次元の中で、全ての清算が始まり、今年、そして来年をどう生きるかが、大変大きな問題となるのです。
未来は永遠に存在しますが、時間的な観念の中で、どう生きるかの方が、よほど大切なことなのです。

人は常に騙されながら、この社会で生きています。
逆に騙されることが、とても幸せに感じることもあります。
騙され続けていたならば、それで一生が終わるならば、何の問題もないことかもしれません。
しかしそれが、自分にとって不合理な現実を生み出した場合、心の傷は大きく広がり、意識の乱れが生まれてくるのです。
そして、騙された方が悪いのか、騙す方が悪いのか、その内容の頻度により、それを処罰する法則が存在しているのです。
最近、電話におけるいろんな詐欺が報告されています。
そうでなくても、私達はいろんな面で、騙され続けてきたのです。
経済の側面にある、金銭欲と、地位欲、名誉欲、しかしながら、それらは全て、金銭欲の上に成り立っているのです。
要するに、貧乏では、地位も名誉も得ることは非常に難しいということです。

こんな社会の仕組みの中で、ものすごいテクニックを持ちながら、人を騙し続ける、最大なる方法が、情報というプログラムと機関であります。
もっと解りやすくいうと、新聞やテレビ、特に勝手な意見で、騙し続け、人を迷わせる、それが数多く存在しているのが、コマーシャルメッセージということになります。
あくまで、主体性は向こう側にあり、私達がそれをどう判断するかに任されてはいますが、洗脳的な発想が多く、騙しのテクニックは、私達の記憶の中に、現実を見失うような方向で、忍び込んでくるのです。
例えば、こんなにきれいになれるのかとか、そんなにおいしいのとか、本当に具合がいいのかとか、あくまでそれは、発する側の意見であり、受ける側の意見ではありません。
しかしながら、コマーシャルをしなければ、逆に物が売れないのも現実です。
どうメッセージを伝えるかということに対して、それが正しいか間違いかということよりも、相手がより良い方向に勘違いしてくれたならば、そこに大きな利益が生まれてくるのです。
どこかの教授が、さももっともらしく、正しそうなことを表現したならば、それが正しくても間違っていても、肩書きにおける観念の中から、それを信じる人がたくさん出てくるのです。
そういった人間の弱点を利用しながら、この社会は現実に出来上がっているのです。

要するにこの社会は、誰もがみな、騙され続けて今があるのです。
それはどこか、訳の解らないところで操作されているのかもしれません。
学校に入ったら勉強しなさいと、何故勉強しなくてはいけないのかわからない、そう思う子ども達がいたならば、その方がよっぽど素直な意識でしょう。
必要でないことをたくさん学びながら、さもそれが必要なように教えるのが、学校という教育機関なのです。
もうすでに、そこから騙しが始まっているのです。
でもそれは、社会性の中では、必要不可欠なことであり、秩序を安定させるためには、それは必要な出来事なのです。
法律が存在し、束縛された管理の中で、私達は毎日を過ごしていかなければなりません。
食べ物に含まれる化学物質や、遺伝子組み換えも含め、私達が要求したから、それが存在しているように思われますが、実際は、科学者達のエゴから発生した、悪ふざけかもしれません。
多分笑いながら、過ごしていることでしょう。
この社会が新しく生まれ変わろうとする中で、未来をどう構築しようかという考えの中で、騙されてきた人々たちが、これからどう生きていくのか、未来を考えると、かえってわからなくなります。

この間、アセンションしたいという女性と出会いました。
アセンションすると、とても素晴らしい未来がひらかれていて、何の不安もない、とても素晴らしい未来で、光のような身体になり、死も存在しないほどの、これ以上ないという未来に、アセンションという言葉の中で、その女性は生きようと思っていました。
でもその未来にいくためには、もちろん高次元化の世界ですから、物質社会を超えた、未来ということになりますので、当然今の肉体をそこに導くことは出来ません。
その人に言いました。
「今の肉体は持っていけないんですよ」と。
何のことかわからなかったようですが、具体的にそれを解りやすくいうと、死ななければいけないということだと教えました。
初めて気がついたようです。
嘘に固められた未来に騙されていたことを。要するに、不利なことは何も言わないのです。
有利なことだけを勧め、心が豊かになることだけを勧め、楽しみや喜びだけを教えるのです。
不利なことや、欠点を言ったならば、その意識に触れることは出来ません。
騙しのテクニックは、非常に優しく管理されているのです。
しかしながら、避けて通ることは出来ません。
いかにその中で、社会を築き上げ、本当の心の豊かさをどう求めるかが課題となることでしょう。

後楽園の蝋梅
後楽園の蝋梅

京都 松尾大社
京都 松尾大社

自然界の中で全ての生命体は、本能の赴くままに生かされています。
私達人間もその例外ではありません。
本能的な関係の中に、社会生活があったり、生き様があったり、自然界との調和があったりしているのです。
本来ならば、本能の赴くままに生きることが、全ての生命体にとって、一番素晴らしいことなのですが、環境という中の適合は、時には本能を傷つけてしまうほどの、現実を持っています。
寒さとか暑さとか、明るいとか暗いとか、環境は常に変化の中にあり、その変化に対応するのも、実は本能なのです。
美味しいものを美味しいと感じたり、お腹がすいて何かを食べたくなったり、耳障りな音に、意識が動転したり、肉体的な本能は、環境の中でいつも正しい答えを見出します。

しかしながら私達は、余りにも観念が強すぎ、本能を無視した生活を毎日過ごしているのです。
本能から外れていけばいくほど、意識的な限界を迎え、要するに、本能的な自然治癒力や免疫力が失われていく結果になるのです。
肉体における本能的な意識は、心臓が動いたり、眠ったり、疲れが取れたり、身体が軽くなったり、沢山の本能的な現象の中に私達はいるのですが、それを観念や努力で補おうとし、逆の方向に進んでいってしまっているのかもしれません。
あれを食べたら健康になるとか、何かの機械にすがったら健康になるとか、この社会には、本能を破壊し、理論もそれにそぐわない方向で、利益ばかり追求した出来事が多すぎるのです。
電子治療器や健康食品も、本能には無関係な存在です。
本能は、美味しいものを美味しく食べたがっているし、必要なものだからこそ食べたくなるし、疲れたら眠くなるし、暗くなったら身体は安らぎを求めてくるし、朝の目覚めの中で起きようとし、身体は動きたがっているのです。
呼吸も少しずつ増えていき、心臓もその脈拍は少しずつ速くなってきます。
目覚めと共に身体は動き出し、暗闇の中では安らげる方向へ、本能的に導かれていくのです。
私達は観念で物事を考えすぎ、理論や言葉にごまかされ、教育という、限られた教えの中で、植え付けられた観念は、そこから抜け出すことが出来ず、本能を無視した社会生活が、毎日続くのです。
そんな中で、健康を求めたり、心の安定を求めたりしているのですが、それは中々うまくいくわけではありません。
遺伝子学的に物事を考えたならば、自然界の法則がそこに存在し、その自然界の法則の中に、本能というプログラムが存在するのです。

要するに、人間の観念の中には、それにそぐわない理論が多すぎるのです。
しかし社会性の中では、本能のまま生きることは出来ません。
管理された社会の中で、その法則を守りながら、私達は毎日を過ごさなければならないのです。
しかも、自然界にそぐわない食べ物が、余りにも多く存在し、本能的な意識は、いくらそれを拒否しても、逆にそれを食べなければ、生きていくことは出来ないのです。
人間達は、なんて愚かな間違いをしたのでしょうか。
自分達で作り上げたこの社会が、本能を傷つける最大なる出来事になっていることを、早く気付かなければいけません。
豊かさや便利さは、観念で作り上げた偶像に過ぎないのです。
本能は、初めからそんなもの望んではいません。
自然の中で、少しだけ知恵を絞り、いかに環境に適合していくかが、本能の真髄なのです。
観念は、脅しと恐怖の中から逃れようと、現実を無視し、有効性の中だけを模索しながら、今のあり方を、有利にしているに過ぎないのです。
要するに、心の満足度を得るために、人よりも高価なものを買ったり、宝石やバッグ、高級な家、そんなものは、本能には全く関係のない出来事なのです。
心の豊かさが、本能にどう繁栄するかは別とし、本能が求めている、本当の姿を、私達は今、認識することが出来ていないのです。
心の満足度だけに意識を集中し、本能的な満足度に対しては、全く無頓着な考えを持っているのかもしれません。

これからの未来は、本能の意識に、どう向き合い、それをどう反映させるのかが、一番の課題となるでしょう。
健康的な自然の中での生き方を望むならば、本能に従うしかないのです。
そこに環境を適合させ、社会を作り上げていくのです。
それが私達の望む、未来なのかもしれません。

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