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世界が激動のときを迎え、何が起こるか全く解りません。
中国のバブルがはじけたり、アメリカのドルが暴落したり、ヨーロッパが破綻したり、何が起こってもおかしくない現実の中で私達は今生きています。
世界を動かしている人達は、物事は経済中心に考えています。
破壊することの、経済発展と、需要と供給のバランスの中で、ほとんどの国は今、安定した方向に進んでいますが、その反面、科学者達は、ものづくりに没頭し、その中でもとても高価な商品が、戦争兵器となります。
戦闘機が大変大きな金額で取引されたり、その技術は、宇宙を飛行する、ロケットよりも高い技術を持っています。
またレーダーやセンサーは、非常に精密に作られ、逆にそれを破壊しようとする破壊的エネルギーも、非常に大きなものになっています。
一体世界には、核弾頭がいくつあるのでしょうか?
このほど発表された中に、ひょっとしたら中国だけでも、3000発といわれています。
現実はものすごい量を抱え、世界中に一万発以上あることは、間違いないことでしょう。
科学者達は、作ったものを必ず、データ取りのために破壊します。
それを実験という言葉に置き換えているに過ぎないのですが、結果的には破壊です。
そういった破壊の実験が、ただデータの収集のためだけに、どれだけ行われていたのか、そんなことを考えると、科学者達のその横暴さには、一般市民はどう嘆いたらいいのか、確かに彼らは、作り上げた以上、その威力を確認し、あくまで使用するために作ります。
最初のうちは、お互いけん制しあっているのですが、あるときもし、そのスイッチが押されてしまったならば、核弾頭は世界中に飛び立ち、この地球の全てを、破壊することは間違いないと思われます。
何にも知らない人々は、どこに逃げたらいいのかも解らず、世界の要人達は、地下に掘った核シェルターの中で、その瞬間をどう過ごすかを考えています。
しかし世界中の人々が、その核シェルターに入れるわけでもなく、また例え入ったとしても、それだけの人が食べれる食料が確保されていないのです。
しかし、固定された核シェルターでは、逆に違う武器も存在してきます。
私達はこれから迎える、そういった恐怖の中で、今生きているのですが、その恐怖に、今すぐ怯える人は、ほとんどいません。
しかしながら、いつかその日が来る可能性は、必ずあるのです。
そんなときに、大きな総合船を作り、その中で農作物や酪農を行い、また現役ミサイルや兵器も備え、うまく融合できるような、皮肉なことに、それも原子力船となってしまうのかもしれませんが、その動く核シェルターの製造が、これから必要になるのかもしれません。
海の上に浮かぶ、その総合船の中で、人々達は生活をし、もちろん食べ物は自分達で作りますから、そこは地上と同じような、非常に有効的なスペースとなることでしょう。
大気汚染や、地上汚染の中で、また海洋汚染の中で、その核シェルター号は、青い海原を安全な場所へと移動するのです。
そういった船の生産が、これから急がれるのかもしれません。
いくらかかるのかはわかりませんが、今の地球の技術で考えたならば、さほど大きな科学を使わなくてもそれは可能なことでしょう。
そういった日が来なければ一番いいのですが、今の現状では非常に難しいものになるでしょう。
何故ならば、需要と供給のバランスが崩れ、経済は著しい変革の中で、未来の想像すら、中々うまくいかない日々を送っているのです。
そういった点では、世界で行ったマネーゲームは、もう終わりを告げようとしているのです。
経済という、化け物のような、大きなマネーゲームは、新しい時代を迎えようとしています。
そして、その終末は全ての終わりを意味し、経済の中で作り上げられた科学は、賞味期限が切れる前に、使用をすることは、間違いないでしょう。
作ったものは、使ってみたいのです。
それが人間の心理ならば、当然のことでしょう。
地球がどのように変化するのか、人々がどううごめくのか、作った人達は、そんな確認もしたいのです。
すべてデータに収められ、未来のために有効利用される、そういった期待の中で行われる現象であり、それは、世界における原則のようなものでもあるのです。
必ず核弾頭は、その威力を全世界で、そのデータ取りは行われることになるのです。
全てが実験という、その言葉の中に、正義という形で存在し、破壊という言葉をデータ取りというプログラムに変え、破壊工作は、正義のもとで行われることになることでしょう。
この日本の中では古くから、亡くなった人の魂は高い山の上に住むといわれてきました。
本当かどうかはわかりませんが、山には木曽の御嶽山や、山形の月山、四国の剣山とか、代表的なものでは、富士山といった、霊山がたくさんあります。
やはり、そういった意味から考えてみても、山は神秘的であり、亡くなられた霊体が住むには、とても環境のいい、現実なのでしょう。
山にそういう霊体が住むようになったのは、山の頂上が天に近いからといわれていますが、そして、自分が生きた大地を見下ろすことが出来るから、一番安心などといわれていることは事実です。
それ以外にも、山には神が宿り、凄い能力を持ち、その神の、修行に使われる山もたくさんあります。
高野山などは、たくさんの人が修行され、熊野の山奥も、そういった点では、多くの修行者達が、心の修行をされたことと思われます。
戸隠も、そういった点では、高僧達がその場を選び、悟りを開くための、いろんな解決の道として、その場を選んだことでしょう。
山という存在が、何か神秘的な意味を持ち、また気高い位の中で、その存在は明らかなものとなっていることでしょう。
しかしながら、山というと、反対に思われるものが、川ということになります。
川で霊的な現象の最高のイベントが、灯篭流しや精霊(しょうろう)流しです。
これも、霊達を清める、大変必要な儀式なのですが、一方では霊体は山に宿り、私達生きるものを見守ってくださると考えながら、もう一方では、川で流し、清めようとする考え方があるのです。
地方では、8月15日のお盆に、灯篭流しをするところが非常に多いことも事実です。
また地方によっては、紙で作ったお雛様や、紙で作った神様を、小さな小船に乗せ、川に流すという儀式もあります。
何か、川には霊体を清める、そういった意味があるのですが、逆にそれは流れていき、海へと向かうことも想像されてきます。
霊山と、精霊流しと、相反する行為の中に、私達日本人の、優れた思いと、意識の存在があるのでしょう。
亡くなった人を、これほどまでにも敬い、尊敬し、そして大切にする民族は、世界中で日本人ほどそういった考えを持っている人達はいないことでしょう。
亡くなったばっかりのその存在を、未来に生かそうとして、そしてそのものの存在を、否定することなく繋げようとした結果、ミイラ化という方法がありましたが、これでは、あくまでも肉体における現象の延長線上にあり、霊的現象の尊敬には、余り関与しないと思われます。
世界の各国には、まだたくさんの考え方があると思いますが、ここでは日本を中心に物事を考え、日本人のあり方をもう少し深く考えてみると、肉体を離れた霊体が、死という世界を持たないことが明らかになってきます。
要するに、この考え方の中には、霊的における、死という考え方は存在しないのです。
世界におけるアセンションとか、高次元化というのは、実は日本人のような、独特の考え方を持ち、生きているものが想像する世界ではなく、自分自身が霊体になったときの、その未来の発想を、どう現実の言葉で理解させるのかによって、こういった考え方が生まれてきたと考えると、非常に辻褄が合ってきます。
やはり、日本人が、肉体の死が人間の死でないことを、絶対的に理解できているはずなのです。
だからこそ、霊的現象を、これだけ大きなイベントで捉え、意識の中に存在させることの、その重要性を把握できるのです。
諸外国から見たならば、こういった日本人の感性は、とても不思議なことに思うかもしれませんが、権力の象徴であるようなピラミッドとは違い、霊的現象をこのように捉えるのは、かなり進んだ発想なのかもしれません。
確かに、インカやマヤや、エジプトの出来事もまた、全てが把握されたわけではなく、同じ現象の存在だったかもしれませんが、その魂が受け継がれ、現在に至っている日本人は、とても感性の豊かな存在だと思われます。
このように、日本人の感性を、世界中の人が持ったならば、生きる側の感性から捉えた存在ではなく、逆の霊的な立場から捉えた存在から見たならば、とても微笑ましい出来事になっているのでしょう。
私達も、今生きていますが、もし肉体を離れて、霊的な存在になったときに、生きている人達から、そんな風に理解されたならば、それはとても嬉しい出来事になることでしょう。
京都 月読神社
日本人は、とても不思議な言葉を持っています。
世界の誰もが理解できなくても、日本人だけが理解できる、それはとても不思議な発想の言葉なのです。
例えば、
「イライラしないで」
「ドキドキしてるの?」
「スヤスヤ寝てるね」
「キリキリ痛むの?」
「ゾクゾクするね」
訳の解らない、二つの文字を組み合わせ、そしてそこに、つなぎの言葉をおくだけで、何を意味しているか、全部解りますよね。
まだまだたくさんあると思いますので、それは皆さんが考えてみてください。
こんな風に作られている言葉と、その意味は、非常に解りやすく私達の心に伝わっています。
これはとても不思議な発想であり、もちろん、諸外国に全くないわけではありませんが、「ソヨソヨ」といっただけで、もう風のことって解りますよね。
「タマタマ」といっただけで、すぐ偶然ということを意味しますよね。
漢字がつけられているものもありますが、カタカナで十分それは意味を成してきます。
「フワフワ」といったら、もうなんだか想像はつきますよね。
この日本語が持つ、この不思議な、そして特異な分野の中で、私達は現実と非現実をうまく組み合わせながら、上手に言葉を使っているのです。
セミナーを開くときに、友達を誘うときに、
「ネエネエ○○ちゃん、来られたら来てよね」
「うんわかった。じゃあ、行けたら行くね」
何の意味かよく解りません。
英語ではこれをどう訳せばいいのでしょうか。
たらればの考え方は、日本人が持つ、独特の考え方であり、断定性の全くない、最もいい加減な発想の言葉なのです。
しかし日本人は、そういったいい加減な言葉の発想の中で、人間関係を作り上げているのです。
いくら会議をしても、いつまでたっても、答えは出てきません。
何故なら日本語は、そのように物事を決定付けにくくするような発想の言葉が、余りにも多いのが特徴なのです。
今まで書き続けてきた文章の中で、たくさんそういった書き方をしてきました。
そうなったらいいねとか、そう考えたほうが自然だよねとか、そういう考え方もあってもいいよねとか、これは、どういう意味を持つのか、外人にはわからないのです。
必ず聞いてきます。
「あなたは何を言いたいのですか?」
英語にはこういった感覚が存在していないのです。
逆に、今まで書いた本の内容を、断定読みしたならば、よく伝わるのかもしれません。
要するに、そう考えなさいとか、そうしなければいけないとか、そのような語尾を少し変えながら、読み替えてみると、非常によく伝わることがあるのです。
あえて、~だろう、~かも、そういった考え方で書くことにより、外国人の方には伝わりにくくしているのです。
しかし、今まで書いてきたこの文章を、2、3回繰り返し読むことにより、日本人だけには非常によく伝わるように書いているのです。
もちろん日本語を習得した外国の人達も、よく伝わることと思いますが、本能的な部分は、難しいのかもしれません。
日本人が持つ、独特の観念の中に、こういった現象が存在しているのです。
この日本では、牧師さんと、住職さん、神職さん、尼さんが、楽しく酒を飲むことが出来るのです。
宗教の枠を感じず、相手の立場を尊重し、決してそれを否定しない、すべての地球の人々が、もし日本人と同じ感覚になったとき、世界に戦争は起こらないと、そういった科学者がいました。
当たり前のことと思います。
私達は、人を裁くことをしません。
そんなことをしたら、バチがあたるよと、神様は全部見ているからねと、八百万の神は、どこにでもいるから、人間が人間を裁くことは、全く必要がないのです。
全て神様が、そういうことはやってくださると、信じていたからなのです。
そして、偶像を崇拝するという、とても素晴らしい考え方があります。
一神教の世界では、偶像を崇拝してはいけないという、逆の考え方が存在しているのです。
日本人は、全てのものを敬い、すべての現象に感謝し、自然も大地も、この全ての恵みが、八百万の神によって、作り出された現象だと、そのことを深く信じているからです。
全ての命が、自然という素晴らしい、神からの贈り物と考えているからです。
全ての偶像を崇拝するとは、全てのものに感謝する、そういった意味に繋がってきます。
手を合わせ、拝みながらいただく姿をよく見ます。
すべてのもの、そしてそのもの、要するに、目の前にある物質そのものに対して、感謝するのであります。
それが命であっても、そうでなくても、それはさほど大きな問題ではないのです。
日本語の不思議と、日本人の不思議さが、世界を救う日が来るのです。
以前、ホームページ本文の方で、依存管理の法則と利害関係理論という文章を書きました。
よかったらまた読んでみてください。
依存されると、必ず管理されるといった、不可思議な法則が生まれているのですが、ここではその、依存に対する有効性と、そのことによってたやすく生きる、証明のようなものも考えて見たいと思います。
どっぷり依存してしまった方が、要するに、管理に任された方が、人間は楽に生きられるのです。
宗教に飲み込まれ、そこに心の拠りどころを求めたならば、その人にとって、安らぎと安心は、その中に存在し、決してそれは悪いことではないのです。
逆にそうすることによって、余分なことを考えずに済み、一番楽な生き方が出来てくるのかもしれません。
そういった宗教団体が大きくなっていくのも現実です。
今のように、社会現象がとても不可思議な中に存在し、現実は厳しいもので、生きることがつらくなったとき、何かに依存したいと思うのが、当たり前の現象なのです。
赤ちゃんがオギャーと生まれたとき、人間の場合、母親がいなければ生きていけません。
おっぱいを飲ませてもらったり、優しく抱いてもらったり、要するに生きるためには、親の存在が不可欠なのです。
そして、赤ちゃんは常に、その親に依存しながら、子どもになり、また大人になっていくのです。
依存される側の大人になったとき、自分を依存させてくれる、そういった存在を求めるのは、それは本能的なことかもしれません。
この社会で強く生きようとすればするほど、社会の荒波は厳しく自分に迫ってきます。
その厳しさに立ち向かう勇気がなく、何か逃げようとしたときに、その逃げ場を見つけたとき、安らぎを感じることがあるのでしょう。
依存して豊かな生活が出来るならば、それ以上の幸せはないのかもしれません。
何かにすがり、守られ、一部管理されたとしても、心配事がないだけで、こんな安心できる世界は、他にないと誰もが考えたのです。
逆に、それをビジネスと考え、依存させるセミナーを開いている人たちも沢山いますが、それは決して悪い商売ではないのです。
それによって救われる人がたくさんいるならば、その人たちのお金をどんなにもらっても、それは決して罪なことではないのです。
依存する喜びを、お金で買えるならば、逆にこんな簡単な方法はないのです。
しかし、その依存が、常に継続されていくならば、それは素晴らしいことなのですが、あるとき、お金がなくなったとき、その依存は継続されることなく終わりを迎えるのです。
そのような現実の中の依存ではなく、今回は、自然という環境の中での依存ということを、もう少し考えて見ましょう。
自然という環境の中に、依存という世界を見出すことが出来たとするならば、自然は私達を、管理する側に回ることでしょう。
管理者である自然は、私達に何を要求してくるのでしょうか。
それは多分、いつまでもその日が続くように、それは保全という言葉で言い表すことが一番いいのかもしれません。
環境保全が、人間が依存した自然環境が要求する、絶対的な条件であり、彼らの言い分はその中に存在しているのです。
要するに、依存者であり、管理者であり、またその逆も存在するというのが、この自然というお金の関与しない、依存方法なのです。
私達は常に自然に依存しながら生きなければなりません。
自然は、その依存を、いつまでも存続させるために、最大なる努力を惜しまず、今という世界を作っています。
なのに人間達は、自然に依存して、生かされていることを認識せず、自然への破壊が、未だにそんな日々が続いているのがとても残念なのです。
自然依存する以上、自然界という管理者は、保全を求めています。
人間は、依存を続ける以上、常に保全をしていかなければいけないのです。
早くそれに気付かなければ、取り返しのつかないことになってしまいます。
この地球の中で住める人口は限られています。
この地球で住む人々は、地球に生かされる人々は、地球の自然環境を守る義務を持っています。
それが依存するための、絶対的な条件なのです。