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この間、四国の、ちょうど愛媛県と高知県の境にある、とても景観のいい、そんなところに、聖地探しに行ってきました。
そこで、山を案内してくれたその方は、普段造園業をなさっており、とても山のことや木のことは詳しく、色々なことを教えてもらいました。
そこで大変ショックな話を聞きました。
「最近、ここら辺の山に、鳥がいなくなったんだよ。
あのムクドリはもう何年も出会ったことはない。
いるのはせいぜい、カラスとかトンビとか。
その他の小鳥達の姿を見ることは、ほとんどなくなった」
と。
森深い豊かな緑の中で、小川は流れ、湧き水は湧き出し、松は何本か枯れて、山肌に少し目立つ形で存在していましたが、見た目ではとても豊かで、素晴らしく思えました。
しかし、小鳥達のさえずりはなく、もちろんウグイスの声を聞くことはないのでしょう。
あの素晴らしい四国の山中に、そのような現象が起こっていることを聞かされ、何故、どうしてと、急に不安が訪れてきました。
確かに最近、日本全国で、ミツバチがいなくなるという現象が起こっています。
何故ミツバチがいなくなったのか、そのことを考えると、やはり、その大きな原因の一つが、遺伝子組み換えと、農薬でしょう。
しかしながら、最近、大変増えてきたのが遺伝子組み換えで、農薬はもう何年も前から使われ、その農薬が原因ならば、もっと昔から鳥がいなくなってもおかしくありません。
そしてミツバチがいなくてもおかしくありませんが、そのミツバチがいなくなったのは、本当にここ2,3年の出来事であり、そんな昔からある出来事ではないのです。
やはりここで一番大きく考えられることは、遺伝子組み換えが原因であるとしか言いようはありません。
確かに遺伝子組み換えは、病害虫に強い、農薬をかけなくても大きく育つ、野菜や果物に多いのですが、その遺伝子組み換えは、本能で生きる昆虫達は、やはり食べることは出来ないのでしょう。
農薬は雨で流れたりし、鳥のえさである青虫達は、キャベツに群がったりしますが、遺伝子組み換えとなると、その青虫達も、キャベツを食べることが出来なくなるのでしょう。
今、野菜の85%が遺伝子組み換えといわれています。
昆虫達が真っ先にその影響を受け、生態系はどんどん崩れていきます。
その結果、昆虫を食べる鳥達が、激減していくことなのでしょう。
昆虫や鳥や、微生物達が生きられない社会に、人間達だけが生きられるような法則が存在するのでしょうか。
ある話の中で、ミツバチが全滅したならば、その後7年間で人類は滅亡の危機を迎えるだろうという、そういった予言をした優れた学者がいました。
それがもしあたっていたならば、人類は大きな過ちを今、犯していることに気付かなければなりません。
確かに現実は、ミツバチの激減は言うまでもありませんが、確かに、そういった点では、最近あれほどたくさんいたモンシロチョウが、あまり姿を見ることがなくなりました。
そういえば、スズメも、少し前まではうるさいほど飛んでいたのに、今は余り見ることはなくなったような気がします。
山奥に入っていけば、まだたくさんいるのかもしれませんが、里の中では最近、ニイニイゼミが全くいません。
沖縄には沢山のアブラゼミがいましたが、最近本州では、そのアブラゼミも減っているような気がします。
畑にたくさんいたコオロギも、オケラやバッタも、蛍は増えているのですが、トンボが減っているような気がします。
なんだか生態系はかなり乱れ、確かに気をつけてみると、いろんな昆虫や鳥が減っていることに気付きます。
あの予言が正しければ、人類は確実に滅亡する方向へ進んでいることは間違いありません。
東京直下型の地震が来るとかいって騒がれていますが、天変地異で人類が滅亡することはありません。
しかし、人間の科学は、神が作ったプログラムを破壊にまわりました。
ほとんど遺伝子組み換え食品や、添加物、香料といった化学物質、そして優性遺伝された、おいしい食べ物、こんな中で、人類は生き抜いていくことが出来るのでしょうか。
今、脳内における、意識障害者が激増しています。
精神病者が蔓延する中で、自然環境を無視した食品達が、ほとんどを占め、それを食べなければ生きていけない私達は、本能意識はもう限界に達していることでしょう。
滅亡していく運命にあるならば、それは仕方ない出来事かもしれませんが、もしまだ間に合うのならば、誰もがみな力をあわせ、人類の存続のために、今何をしなければいけないか考えてみてください。
人間がこの地球上で生きていくためには、絶対に必要な出来事なのです。
よく諺(ことわざ)で、信じるものは救われるという言葉がありますが、そんな諺ができた頃、世の中はとても平和だったんでしょうね。
この平成の世になり、オレオレ詐欺や、振込み詐欺や、もう情けないぐらいに、人を騙す産業が増えてきています。
騙すことによって、大きな利益が得られるのでしょう。
とても親切にしてもらい、なんていい人なんだろうと思い、お付き合いを重ねていく中で、あなたの言うことなら大丈夫よと、そんな風に感じた瞬間から、騙しのテクニックは始まってくるのです。
そして人間には、多くの欲が存在しています。
その欲を満たしてあげるような、優しい言葉、それを信じたことにより、大きな投資をし、大損することがあります。
確かに、儲け話には、裏があるものです。
投資をしたり、儲かるからといってすぐ手を出したりすると、必ずそこには裏があり、結果的には大損することになるのです。
本来ならば、信じるものが救われる世の中でなくてはいけません。
なのに、信じるものが騙されるような世の中になってしまったのは、非常に残念なことであり、しかも現実は厳しく、騙す人が大儲けをし、のさばっているのも現実です。
政治や経済や、環境や健康、豊かさの中に、落とし穴がたくさん作られ、その落とし穴の中に落とすために、あらゆるテクニックで信じさせ、誘導して、その落とし穴に落とすテクニックは、マニュアル化されて、そして気のいい人達だけがそういったテクニックに騙され、大損していくのです。
特に、最近は手口が巧妙で、金額も大きく、非常に残念な結果となっていますが、現在の世の中で、これは必然的に起こってきたことと考えた方が、辻褄があってきます。
人間関係は非常に複雑に絡み合い、インターネットや、テレビ、ラジオといった、報道関係や、情報の混乱化の中で、それは操作され、そしてうまく組み立てられ、意図的に行われる行為の一環なのでしょう。
政府機関も、わかっていても野放しにしたり、逆にそこから、暴利をむさぼることもあるのです。
投資で沢山お金を集めている会社が、詐欺であっても、そこを見て見ぬふりをしながら、税金を取り立てるなんてことは、平気で行われている行為なのです。
このように、コンピュータ化された時代の中では、ルールに反する行為が行われた場合、その把握はいとも簡単にできるはずなのですが、それをしようとせず、犯罪があるからこそ、それを職業にし、生活している人がたくさんいることも事実です。
もし、この世の中に、犯罪がなかったとしたならば、失われる職業はどんなに多くあることでしょうか。
誰もが人を裏切らず、そして惑わさず、盗みや詐欺がなく、騙しのない世界では、どんな生活が出来るのでしょうか。
そんなことをちょっと想像してみたら、少しだけ心が豊かになってきます。
嫌なことばかり考えているのではなく、少し楽しいことを考えてみてはいかがでしょうか?
とても親切に、優しい現実は、必ず存在しています。
一部の人達だけが、そういった悪い現象を起こしているのですが、ほとんどの人が騙される側に回り、穏やかな毎日を過ごしているのも当たり前の現象なのです。
しかしその、お人よしの人々に、神は欲という、そういった感覚を植え付けてしまいました。
もちろん、生きていくために必要な現象だからこそ、それはあるのですが、時にそれを悪用する人達が現れ、間違った行為が繰り返されているのです。
未来の地球では、欲は全て満たされ、環境も人々の感情も、穏やか過ぎるほどの社会生活の中で存在し、和みの世界は作られるといわれています。
何の不安もなければ、逆に安心という言葉すら要らないのかもしれません。
もちろん戦争はないから、平和という言葉もありません。
そのような未来で、人類は、今後生きられたならば、それはどんなに素晴らしい出来事と感じることでしょうか。今の現実の中で、そんなことを想像しながら、自分の心を豊かにしていってみてはいかがでしょうか。
想像の中でしかありえない現実が、とても豊かな自分を作り上げてくれます。
現実から逃げるわけではなく、想像の中から豊かな心を作り上げ、それを現実に反映させ、新しい時間と空間を作り上げたら、今よりかは、少しだけ、優しい自分になれるのかもしれません。
最近、町の中に増えてきたのが、自然食のお店や、オーガニックを主体としたレストラン等が、結構注目を浴びています。
しかしながら、なかなか本物と出会うことは出来ません。
何故ならば、自然とは、全く人間が手を加えていないことをいいますし、オーガニックは本当に安全な野菜や果物を想像します。
今の現状では中々難しいのかもしれませんが、富山の友人が語っていました。
「私は、雨に当たった野菜は出荷しない」と。
しかもビニールハウスには、空気清浄機までついていました。
確かに今は、農薬や化学肥料よりも、何が含まれているか解らないような雨のほうが、よほど危険といえるでしょう。
また、自然食のお店では、品種改良したものや、遺伝子組み換えのものを、ただ有機農法で育てたという理由だけで、非常に危険なものを堂々と売っていました。
これも仕方ないのかもしれません。
自然とは何か、もう少し深く考えて見ましょう。
春、小さな林の土手に、ケヤキがたくさん芽を出していました。
双葉のものから、少し大きく枝を伸ばした、10~15cmぐらいのものもありました。
土手一杯に芽を出したケヤキ達は、太陽の光を浴びて、とても嬉しそうに見えました。
何日かしたあと、そこには、ノカンゾウとヨモギが沢山芽を出していました。
成長の早い草達は、どんどんそのケヤキの苗を追い越し、やがて太陽を草達が占領してしまいました。
秋になって、同じ土手を見に行ったとき、ケヤキの新芽や苗木は、成長することなく、全滅していました。
その少し上には、多分その新芽達の親であるケヤキが、何事もなく、堂々とそびえたっていました。
自然界は、人間が手を加えなければ、自然淘汰という形で、そのテリトリーの中で、食物連鎖が繰り広げられ、枯れていったケヤキの新芽達も、その草やそこに育つ他の植物達の肥やしとなり、十分役割を果たすことになるでしょう。
それが自然です。
畑に大根の種を沢山蒔きました。
全部の種が、一斉に芽を出し、緑の絨毯を敷いたようになりました。
そのままにしておいたら、売り物になる大根は一本も育ちません。
こまめに間引きをして、残すべき大根とそうでない大根を区別してあげるんです。
放っておいたならば、全部が育ってしまうからです。
何故ならば、草がきれいに刈られた畑では、同等の立場にいる大根の芽は、争いながら、全部成長してしまうのです。
そして、争いあった結果、貧弱で売り物にならない、しかも、ストレスだらけの大根が出来るのです。
木曽のヒノキは、天然のものは檜と漢字で明記します。
植林したものは、ひらがなでひのきと書くそうです。
植林した檜は最初、間隔を非常に狭く植えます。
何故ならば、太陽の光を求めて、上へ上へと伸びる性格を利用しているからです。
15年ぐらい経つと、間伐(かんばつ)といって間引きをしてあげます。
そうしないと、立派なヒノキが育たないからです。
要するに、人間が植林した場合、同じ条件の中で、木達は育ちます。
最近、環境問題の中で、山にもたくさんの木が植えられ、何か緑の森を取り戻そうという運動が行われていますが、人間が植えた木は、自然ではないのです。
だから、お互いが争い、競い、ストレスの中で、とてもかわいそうに育っていました。
もう少し、間隔を広く、ゆったりと育つように植えてあげればいいのですが、自然は勝手に淘汰されるという、あくまで自然界での条件の中で行われる出来事を、植林にも当てはめているばかげた理論があります。
人間が手を加えてしまったら、自然淘汰は中々起こらないのです。
それは、海の中も同じです。
魚達は、卵をたくさん産みますが、孵化して1ヶ月も経たないうちに、ほとんどが食べられてしまいます。
そしてわずかに残った命だけが大きく育っていくのです。
これも自然淘汰の法則で、当たり前の出来事ですが、養殖で稚魚を育てた場合、全てが大きく育ちます。
人工と自然の違いは、明らかなのです。
自然とは、全く人間が手を加えないことを指すのであり、人間が手を加えてしまったならば、確実にそこには、自然界の法則が存在しなくなってしまうのです。
発想はとても素晴らしいのですが、植えられた木の立場に立ってみたら、とてもつらいことかもしれません。
以前、砂漠に木を植えないでと、何故ならば2年以内にほとんど枯れるからと、文章にしたことがありますが、自分が砂漠に植えられた木になってみたら、そのつらさはよくわかるでしょう。
そして砂漠で枯れた木は、確かに何かの役に立つかもしれません。
もちろんこの地球上では無駄がないからです。
老木が倒れ、朽ち果てて、でも自然にはゴミが存在しません。
それが例え、森の景観を悪くしたとしても、新しい芽吹きのためには、とても有効的な出来事なのです。
人間は、知ったかぶって、自然の一部を見て、何を考えているのかわかりません。
自然界は、厳しさの中にも実は、とても緻密に計算された、自然界のサイクルがあるのです。
大地と水、光と風、そして雨、成長の早いもの、そして成長の遅いもの、成長の早い草は、一年で枯れ、成長の遅い木は、何年も生き続け、そんなシステムの中で、自然界は存在しているのです。
人間が手を加えて、植えられたものは、条件が等しく平等ならば、全部が競い合い成長するのです。
しかしその成長は、とても惨めなものとなるでしょう。
テレビ番組で見たことがあるのですが、カップラーメンに、重石をつけて、海の底に沈めていくのです。
そうすると、あの大きかったカップラーメンが、ちっちゃなマッチ箱ぐらいに小さくなって、浮き上がってきました。
もちろんこれは、水圧があり、水に重さがあるから、そのカップラーメンは潰され、小さくなったことでしょう。
そんなことは当たり前の現象であり、何の不思議なこともないのです。
しかし、このことから、一つ疑問が湧いてきます。
深海魚達は、2000mもの深い海の底で、何故動き回り、この水の重さに押しつぶされずに生活できるのでしょうか?
あの中で、産卵したり、食事をしたりしているわけですから、あの海の水の重さにどうやって耐えているのか、小さな疑問が湧いてくるものです。
重さという、質量の観念は、その重さの違うものに対しては、非常に大きな影響を与えてきます。
その観念を、そのまま置き換えたならば、沢山の疑問が湧いてきてしまいますが、それはさほど難しいものではないのです。
飛行機が、空気に重さがあるために、飛ぶことが当たり前の現象です。
頭の上を、あの大きなジャンボ機が、空気を蹴飛ばし走っていきます。
頭の上に空気があり、その空気の上を飛行機が飛んだとき、その空気に押しつぶされ、飛行機の重さを頭の上で感じることはありません。
空気って、非常に重い存在であることは間違いないのですが、私達はその空気に押しつぶされることもないのです。
瀬戸大橋を渡っているとき、橋げたの余りにも大きなその存在に驚いたものです。
どうして、鉄は、その上の鉄の重さに耐えられるのでしょうか。
太い鉄の、上の方の部分はいいのですが、その重さに押しつぶされようとしている下の部分は、どうして破壊されることはないのでしょうか。
海もよく考えてみると、海の底にある水達は、その上に乗っかっている水に、何故、押しつぶされることはないのでしょうか。
そんなことを考えると、とても不思議な気持ちになります。
質量が同等ならば、何故、同一の質量に押しつぶされることなく存在できるのでしょうか。
一体質量というのは、どんな現象をもたらすのでしょうか。
同じ重さの物質は、同じ重さのものに、押しつぶされることがない、そこに、別の力が加わらない限り、それはありえないのです。
海の底に、ペットボトルに満タンに水を入れた、全く空気の入っていないペットボトルに重石をつけ、海の底に沈めていっても、そのペットボトルは、カップラーメンのように小さくなったりしないのです。
地底に住む深海魚達も、同じ仕組みで、生きていることでしょう。
そのように、この元素的な感覚が、質量という世界で、共通の中では、その重さに支配されないという、この現象そのものが、とても不思議な現象であり、重さという単位の中で、私達は、今その観念すら、危ぶまれる中で生きているのです。
人間が、頭の上の空気に押しつぶされることがないのは、空気より人間の方が、質量が高いからなのです。
たかだかそんなことで、重さという単位が、観念を超え、訳のわからないものになってしまいます。
物理学者から言わせたら、ばかげた発想かもしれません。
当たり前の現象を捉えて、何を驚いているんだといわれるかもしれません。
しかし、小学生の頃の1人に還って、こういった疑問を持つことが、これからの社会の観念からの脱出において、とても大切なことなのです。
どうして下の水は、上の水を重いと感じないのか、こんなどうでもいい質問の中に、新しい未来の観念が始まるのです。
逆に、これを、何故と考えなかった人の方が多いことでしょう。
こんな大きな鉄の塊があったら、上の鉄の塊に押しつぶされていいはずなのに、大きな鉄の塊の方が安定している。
こんな疑問を持つことが、新しい未来、幼い子どもに戻って、どうして、と考えることから始まる、未来なのです。
観念や理論や理屈ではなく、自由発想した上で、新しい意識を蘇らせることなのです。
人間達が作り出した法則で、まだまだ間違っていることもたくさんあります。
大宇宙の法則の全てが解った訳ではありません。
人間達は、ただ起こる現象を利用しているだけなのです。
そしてあたかも、知ったかぶりながら計算立て、そこに、君臨しているに過ぎないのです。
本来ならば、大変不思議な出来事なのかもしれないのです。
もう一度、発想の豊かさの中で、子どもに還ってみてはいかがでしょうか?