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時間軸が縦軸に変わるという話はずいぶん前にしましたが、それまでの考え方は、過去現在未来と、時間は常に未来へ進んで、動いていくように認識していました。
縦軸に変わった今、過去+未来=現在という形になり、私達は現在という、大きなカプセルに乗り、時間軸を旅しているのです。
この大きなカプセルからは、物質的には抜け出すことはできず、そのカプセルが左右どちらに向かっているのか、また上下どちらに向かっているのか、そんな確認すら出来ないのが現実なのです。
今というこのカプセルは、物質化現象の中で起こる全てを包み込む、時間の旅をし続けているのです。
未来がどちらの方向にあるのか、そんなことは、何の問題でもなく、観念で作り上げられた世界に過ぎません。
現実という今が、ただ時間の軸を、移動しているに過ぎないのです。
要するに、過去という存在と、未来という存在は、観念的な中で起こる現象であり、現実という世界では、起こり得るはずのない出来事なのです。
未来という世界は、今が移動していく方向性の中に存在し、そのカプセルが移動した結果、未来ではなく、現実となってしまうのです。
どんなに現実を速いスピードで移動させても、時間という軸を越え、未来に到達することは、ありえないのです。
逆に、到達してしまえば、それは現実となり、今という観念の中に存在してしまうのです。
未来に多くの希望を持ち、アセンションとか高次元化とか、たくさん騒がれていますが、ここで絶対的に見失ってはいけない出来事があります。
要するに、今という時間をどう生き抜くか、現実に起こっている現象にどう応えるか、侵してしまった環境をどう修復するのか、目の前にぶら下がるたくさんの課題を解決せず、未来へと向かおうとしても、おんぼろに、しかもぼろぼろに、傷ついてしまった現実というカプセルに、私達は乗っているのです。
この今というカプセルを抜け出し、未来という時間の中に入ろうとしたならば、そこに物質を移動させることは、極めて難しい出来事になります。
今というカプセルを抜け出すことは、ある意味死を表します。
アセンションや高次元化は、現実を見失う、非常に危険な考えの一つです。
今という時間の延長線上に、未来が確実にあると考え、逆に、未来という時間の観念の中に、今を置き換え、私達は時間の軸を旅しているのです。
光より速く走ったならば、時間を越えて、未来や過去へ行けるような、そういった考えもあったことは事実です。
光より速い物質がないと考えた彼らは、きっと光より速く走ったならば、時間の壁を越えることが出来ると考えたのでしょう。
しかし今は、光より速い素粒子がたくさん発見されています。
今まで、光のスピードを超えたときの、その想像してきた時間との戦いは、もうすでに終わっているのです。
つまらなくなってしまったのかもしれませんが、現実は今、そういった形の中に存在しているのです。
今というカプセルに乗り、未来へと旅し、過去の経験とその記憶の結果、今というカプセルは存在しているのです。
そして、時間というバネの上に乗り、上下運動を繰り返し、少しだけ先に未来を知ったり、過去に戻って、現実を修復したり、それはあくまで、わずかな時間の中で起こる現象で、長い歳月や、急激的な現象では起こり得ないのです。
今というこのカプセルを、どう乗りこなすかが、最も考えなければいけないことであり、このカプセルの中で生きている現実を認識できなければ、何の意味もないことになってしまいます。
このカプセルを抜け出して未来に行くことは、三次元の物質化現象の中では、絶対的に不可能であり、ありえない現象なのですが、物質社会を越えたならば、決して不可能な世界ではありません。
しかしながら、物質という現実のエネルギーに依存しながら、私達の意識や心が存在する以上、物質社会からの脱出は、逆に全ての意味をなくすことになります。
エネルギーのない世界では、何の現象も起こりません。
情報がエネルギーを持ち、物質社会に依存してこそ、現実という結果が生まれてきます。
エネルギーをなくした意識や記憶は、何の力もなく、要するに、それは消滅を意味します。
高い次元や、時間を越えた未来には、物質化されたエネルギーが存在しない以上、消滅してしまったと考えた方が、理解しやすいのではないでしょうか?
すべての現象にエネルギーが関与し、そしてそこから、意識や思いでさえも生まれてくるのです。
現実というカプセルは、大いなるエネルギーの存在でもあるのです。
だからこそ、私達に今があり、豊かな意識と心が反映されているのです。
冬になって雪が降り、野原は真っ白、なんか穢れが取れて、穏やかな気分になれるものです。
春になるとフキノトウが芽を出し、新緑の季節を迎え、桜が咲いて、菜の花畑には蝶が舞う。
夏の夜空は、天の川がとてもきれいで、多くの花が咲き、豊かな毎日を楽しませてくれます。
秋の実りは、喜びを与え、この宇宙も、この地球も、人間も、植物も、みんなこの地球の仲間として、何一つ不自由がなく、わがままと欲さえ少し抑えたならば、とても住みよい環境が、私達の目の前に繰り広げられています。
月が地球の周りを一周し、地球がまた太陽の周りを一周し、そしてその銀河も、もちろんその中の太陽系も、大宇宙を回転しながら、移動しながら、あたかもこの宇宙を楽しんでいるかのごとく、旅をし続けているのです。
少しぐらい変わったことがあったとしても、それはさほど大きな出来事ではなく、全体的に見たならば、全てが大宇宙の法則の中に存在し、今という時間を移動させながら、回り続けているのです。
この決められた法則の中に全てが存在し、感情も環境も、今起こる全ての現実も、緻密に計算された意識の中で、ただその法則に則り、動かされているに違いないことでしょう。
物理学における原子の世界が、また生命科学における遺伝子の世界が、全てが法則の中に存在し、そしてその法則により管理され、この全ての意識と生命体は、物質的な現象をも、その存在も、全てが管理された法則中に存在しているのです。
だからこそ、この乱れのない世界があるからこそ、私達はこの地球で生きていけるのです。
花が咲くのも、風が吹くのも、水が存在するのも、全て計算されたこの宇宙科学の中に、その法則が存在しているのです。
これほどまでに優れた科学は、今の私達の意識では、想像をはるかに超え、私たちが今、学んできた学問や知識は、この法則から見たら、一ページにもあたらないほどの出来事に過ぎません。
この大宇宙が存在し、ビッグバンやブラックホール、超新星、こんな出来事も、全て緻密に計算され、この宇宙の管理の中で、起こる現象に過ぎないのでしょう。
人間という身体一つとってみても、心臓があって、脳があって、心があったり思いがあったりしますが、この人間という物質の中で、注意力を持ちながら、この肉体が未来の時間へと進んでいきます。
自然という言葉がありますが、自らが天然であることを意味しますが、この自然という言葉こそが、法則を意味し、要するに、人間達の手を借りずに、現実が繁栄させる、結果的な出来事であり、私達はそれを見て、自然という言葉を使っていますが、彼らから見たら、月や太陽や、その関係の中で、計算された社会が存在し、その法則にのっとり、未来へと向かう時間を超越しているに過ぎないのです。
だからこそ、遺伝子が繁栄され、種族が産まれ、区別が出来るのです。
もし、この地球や宇宙に法則がなかったら、どんなことになるでしょうか?
一度想像してみたら、その恐怖の結論を見ることになるでしょう。
一日が24時間でなくて、ばらばらであったならば、地球が太陽の周りを、規則正しく回らなかったら、季節がばらばらで、夏や春や秋や冬が、周期ではなく、毎日のように変化したら、人々の考え方が、安定という世界をなくし、昨日決めたことが今日はもうすでに変わっていて、昨日考えたことがもう新しい考えに変わり、花が咲いたと思ったら、そこに雪が降り、蝉が鳴いたと思ったら、いつの間にか落ち葉が散るような、意識も物質的な現象も、もし法則がなかったら、私達はその世界で生きることが出来るのでしょうか?
逆から考えてみたら、もう分かったと思いますが、いかに私達はこの大宇宙の法則に守られているのか、逆に言ったら、法則に従わなければいけないのかを、もう一度認識して下さい。
夜は暗いものです。
冬は寒いものです。
なのに、夜は明るくし、冬を暖かくし、夏を涼しくして、私達は生活しているのです。
こんな社会で何が生まれてくることでしょうか。
私達は大宇宙の法則を、自分達で壊し、そしてよりよい生活をしようとしているのですが、やがてそのつけが自分にやってきます。
今、そのときを迎え、何を考えることでしょうか。
いかに、法則に従って生きることが大切かを、もう一度考え直してみてはいかがでしょうか
飛行機に乗って世界中を飛び回り、あちこちの国で、この日本人達も暮らしています。
中国人は世界中にいるとも言われています。
なんか地球が小さくなり、どこにでもいける社会が生まれ、凄く繁栄した、この社会の中で、私達は生きています。
東京に行って、なんだか地方の人達が沢山集まっていて、お正月やお盆になると、故郷に帰っていきます。
そこには親戚がいたり、両親がいたり、兄弟がいたりするから、そして自分の育った、そういったところを子ども達に見せたいから、また墓参りをしたり、仏壇に手を合わせたり、誰もがみな、故郷に帰ろうとします。
とても素晴らしいことですが、今のこの日本では、故郷のない人達も沢山存在しているんです。
今回、福島が大きな悲劇の中に包まれ、故郷をなくした人達が沢山いらっしゃいます。
どんなにつらい思いなのか、お墓に手を合わせられないこの苦しみや悲しみは、計り知れないものがあるでしょう。
本当に、故郷へ帰ることが、心の大いなる安らぎになることは間違いないのです。
自然界の法則の中で、鮎や鮭達も、故郷の川に戻り産卵します。
鰻(うなぎ)も、太平洋のど真ん中にある、なくした故郷であっても、そこに戻ろうとし、そして産卵し、子孫を繁栄させています。
肉体における現象の中で、子孫繁栄と言うプログラムの意識の中で、そして魂の行き着くところとし、そして最も安心できる、意識の原点が、故郷にあるのです。
私達は、そういった本能的な現象を、もう少しうまく捉えながら、現実の中で生きてみたら、新しい発想が生まれてくるはずなのです。
あなたの望みは何ですか?
あなたはどこに向かっていくのですか?
欲しいものは何ですか?
一番安心できる場所はどこですか?
何をすれば心が満足できるのですか?
そんなことを考えていけば、やがて結論が出てきます。
意識はいつの間にか野山を駆けずり回り、故郷の小川で、水遊びをすることでしょう。
幼馴染と出会ったり、通った小学校が異常に懐かしかったり、思いはどんどん故郷に向かい、豊かな意識へと呼び戻してくれます。
こんなことを追求しながら、原点に還るという言葉をかみ締めながら、一体私達の故郷はどこだったのでしょうか?
この地球における、大いなる故郷探しが、一番多くの希望となることでしょう。
大都会で暮らし、人波に揉まれながら、日常生活を、そして何気なく生きています。
故郷を忘れた人達は、映画やコンサート、そんなところに、感情のよりどころを求め、豊かな意識を作ろうとしています。
確かに、それも想像を超える素晴らしさが存在しますが、やはり、そういったものの中に原点を見出すことは、最終的には不可能となってくるのです。
何故私達の意識は、そういった方向に、そして故郷に向かうように出来ているのでしょうか?
この地球に、移民としてやってきたとき、みんなで一つの意識の下で、願い事をしたのです。
必ず、故郷に帰り、あの場所から出直すことが出来るよう、その日を待ったのです。
その故郷が、この地球であり、そして今いる私達も、その地球に住んでいるのです。
時間という観念の中では、理解することは非常に難しいのですが、私達の本質的な意識は、前世的な地球で生まれ、そしてその破壊の中からそこを旅立ち、長い歳月を宇宙で暮らし、やっと故郷の地球に戻ってきたのです。
私達が求めているものは、この意識にあのときの約束が、今も生きているのです。
みんなが集って、意識を集中し、故郷に帰る日を夢見て、宇宙船に乗り込んだのです。
いくつかの星を転々としながら、やがてこの地球に浄化が生まれ、そこに戻ってきたのですが、今の人類はまた、あの時と同じ過ちを繰り返そうとしています。
しかしながら今は、余りにも科学がみすぼらしく、あの時とは違っています。
しかし私達が、やっと意識の原点である、この地球に戻ってきたわけですから、この地球を修復し、住みよい社会を作り上げることが、絶対的な条件であることには間違いないのです。
故郷に帰ろうといった約束が、私達の遺伝子には書き込まれているのです。
いや、地球で生まれた生命体は、全てその遺伝子を持っています。
住み慣れた、そういった場所に帰ることが、意識の生まれた場所へ帰ることが、意識が求める本当の出来事なのです。
意識が安らぐ世界は、故郷に存在し、そこには時間を越えた、素晴らしい思いが、現実のものとなるのです。
今一度、地球を見直し、故郷を探し、原点に戻り、やり直せたらと思います。
全ての人々が、平等の意識の下で、豊かな繁栄を遂げながら、いつまでも暮らせたらどんなにいいことでしょうか。
しかしながら、この地球における環境の中で、上下関係や身分制度は、まだまだ続いています。
ヨーロッパのある国では、皮膚の色の違いだけで、人間を大きく差別します。
アジアでもそういった身分制度の中で、未だに虐げられている方がたくさんいらっしゃることも事実です。
知らず知らずのうちに、この身分制度、そして、もう一つ身分を分ける、歴然とした法則の中に、階級というものがあります。
スポーツでも、例えば剣道では初段と二段とか、お花やお茶でも、師範とか生徒とか、公務員試験でさえも、階級が存在しています。
上に上がるほど、確かに能力も上がりますが、身分も上がっていくのです。
このように目に見えない世界でも、多くの身分制度が存在しています。
そんな中で優越感を持ちながら、部下を従え、さほど能力のない人達が、楽しんでいるのもこの世界なのです。
昨日まで頭を下げ、握手を求めていた人が、バッジをつけたとたんに先生となり、横暴な態度に変わります。
こんな世の中の仕組みを、どうせこのような仕組みの中で生きるならば、もっと大胆に、逆にそれを利用し、秩序のある世界を作り上げることを、考えなければなりません。
何故ならば、全ての人が平等になると、それは正しいという意見になれるかどうか、非常に難しい問題が起こってくるからです。
考え方の相違が生まれたならば、どんなに平等であっても、派閥が出来上がってきます。
人々がみな同じ考え方で生きるとは限らないのです。
この地球の歴史を見ると、やはりそういった面から、平和を望もうとする意識が強くなり、どうしても階級という制度を作らなければならなくなってしまいました。
とても残念なことですが、これは仕方ない出来事なのです。
その昔、ムー大陸の頃、ラ・ムーの意識の下に多くの人達が集い、そしてそこを、穏やかな統一された豊かな島にするために、ある種の戦いが起こりました。
でもそれは殺し合いではなく、今で言う騎馬戦のような、帽子取りゲームのような、そんなイメージを持って下さい。
宇宙の全てを知った、倭民族は、その法則に則り、ムー12民族の襟を剥ぎ取り、首にかけました。
私達が、全宇宙の法則に従い、人々を未来に導くことを宣言しました。
要するに、未来を司る大いなる意識体として、農耕民族の誇りを持ち、首にかけたその襟が、やがて十二単となり、この世界を管理し、反映させていったのです。
神々達の世界も、やはりそういった身分とまではいかなくても制度があり、また逆に、全てが違う役割に君臨し、神としての関係が出来上がっていったのです。
あくまで上下ではなく、役割が違っていた、全ての役割を、管理するためには、沢山の神々が必要だった、それらすべては、この地球上の法則を、この全てを管理するためには、絶対的な条件の一つであったのです。
違う考え方を持った人々を、統一された国家の中で繁栄させるためには、やはり長(おさ)的な存在が必要となることも、これは仕方ないことでしょう。
十二単をまとい、われが神なりと宣言し、生き神の世界をつくり、人々を平和な方向へ導いていったに違いありません。
世界の民族衣装を見る限り、この十二単の繁栄と素晴らしさは、他に類のない、極めて突出した出来事であったに違いないでしょう。
倭民族は、十二単をまとえるほどの、高い位にいたのです。
その意志を継ぐ私達が、十二単をまとえることの出来なかった人々から、どれほどまでに羨ましがられたことでしょうか。
私達倭民族は、学ばなくても、本能の中に、この大宇宙の科学が存在しています。
しかも日本語でなければ、非物質的な用語を、的確に表現することは出来ません。
意識や感情や、見えない世界へ、過去や未来への、観念や想像も、全て、この日本語でなければ、表現することができないのです。
どんなに世界の高い意識を持った人達であっても、日本語を話せなければ、そういった世界の表現をすることが、非常に難しいものとなるでしょう。
言葉のない世界で、瞑想させることぐらいが、限界となってしまうのです。
私達日本人は、これほどにまで素晴らしく、多くの表現方法を知っているのです。
十二単をまとった、この宇宙一意識の高い、倭民族の誇りを持ち、もう一度、この日本を見直してみてはいかがでしょうか?