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何故1日が24時間で、1時間が60分なのか、不思議に思ったことはありませんか?
もっと解りやすく、例えば1時間が100分ならば、時速何kmで走ったら何分後にどこに着くのか計算しやすいのですが、時間的行為の中では、そのようなことは全く無視されています。
1分が60秒であり、その6の倍数の中に、すべての時間的観念が存在しています。
何故そのような形で時間が計算されるようになったのでしょうか。
これは、太陽と月と地球の関係の中で、365日が1年であり、28日が1ヶ月であり、地球の自転の1周が、24時間ということになっているのですが、その24も、本来6の倍数であるように、時間的意識というものは、先人達が編み出した、最高の技ではないかと思われます。
そこに水が大きく関わったことは、言うまでもありません。
全ての生命体は、水を体内に取り込み生き続けている様に、私達の体内時計における時間的観念は、水のサイクルの中に、大きく関係しながら存在しているのです。
この、1時間が60分のような、1分が60秒のような、要するに、6秒がいくつ重なるかということによって、その単位が変えられてくる、これが時間的存在なのです。

水という漢字を、その一番外側を繋ぎ合わせると、六角形となります。
雪の結晶が六角形で作られるように、6という数字は、この水の結晶構造と、水のサイクルの中に大きく関係してくるのです。
水の1サイクルが6であり、また水の結晶といわれる水晶も、6の倍数の中でサイクルが刻まれています。
もちろん結晶体は六角形をしています。
中心から6方向に広がる軌道の中に、そして中心を合わせると、7という、現実性を持った形式が生まれてきます。
6と7の関係の中に、7は形が作られ、6は流動性の中のサイクルを表してきます。
この6サイクルの延長線上に、時間的観念が生まれ、私達が持つ時計が、そのように動いていることは言うまでもありません。
そして時計の発振に最も有効性をもたらしてきたのが水晶であり、この水晶のサイクルが、今の時計を作り上げていることも、言うまでもありません。
何故このような形で時間という観念が生まれてきたのか、とても不思議に思われますが、逆にこのことは、大変素晴らしい現実と、有効性をもたらしてくれています。
水のサイクル、大宇宙のサイクル、クォーツ発振における音のサイクル、こういった中に、私達の体内リズムとうまく絡み合いながら、現実の時間という観念が存在していることは、大変素晴らしいことと思います。
この時間という観念の中に、もう一つ素晴らしいことがあります。それは、夜中の12時が、0時0分であり、真昼の12時が、また0時0分のように存在していることです。
何故1日の始まりが、暗闇の中からスタートするのでしょうか?
このことをちょっと考えてみると、すぐ解りますよね?
月の始まりが、新月であるように、時間の始まりも、暗闇から始まり、時間の最高点が、真昼の12時ということは、それを月で表したならば、当然満月ということになります。

月の新月と満月、28日のサイクルと、24時間のサイクルは、7の倍数と6の倍数の関係の中に存在します。
この二つの関係は、先ほども言ったように、中心点を加えるかどうかで変わる、ただそれだけのことに過ぎず、現実的には、それは同じものと理解されても、全く不思議はないのです。
中心を入れると形になり、現実となり、中心をなくすと6となり、それは流動性の中に存在する、要するに、時間は常に過ぎることを意味します。
6の倍数の中にあるからこそ、時間は流れ続け、留まることを知らないのです。
7は形とし、現実とし、結晶とし、水晶のように持つこと触ること見ることが出来ます。
要するに、7と6の関係の中と、6のサイクルが流れていることがわかったならば、地球の回転と留まることを知らない宇宙の関係、要するに、動き続けているもののサイクルが、すべて6を基点とする法則の中に存在しているのです。
1日が24時間で、1時間が60分、1分が60秒と、この感性は、動くことを宿命とした、その流れの中に存在する、絶対的な定義付けなのです。

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他力本願という言葉を、よく耳にすることがあります。
また、このことを、棚から牡丹餅というような形で理解している人も多いでしょう。
実際私達が、色々な願い事をするときに、神様どうか宜しくお願いしますと願ったならば、確実にこれは、他力本願説を証明するような、現実の出来事なのです。
お正月、また二年参り、神社やお寺に行ったり、神棚のお札を新しくしたり、また仏壇に手を合わせたり、私達人間は、この日常生活の中やお正月の行事の中で、一体どれだけの他力本願をしていることでしょうか。
今までこの願いが叶うか叶わないか、神様や仏様へのお願い事が、これら全てが、他力本願説の中で存在する出来事ということを、改めて認識してみたならば、余りにも多いことに気付かされます。
人にちょっと声をかけるときも、気を付けて下さいねとか、お大事にとか、お幸せにとか、こういった言葉全てが他力本願の中にあることを、誰もが認識することは、今までなかったかもしれません。
自分が実際に手を下し、なすべき行為をしたときに、初めてそれは、実質的な行為であり、他力本願とはいえませんが、それ以外の出来事、要するに、誰かが何かをしてくれるだろうと思うこと、それも他力本願であり、それが意識的な行為の中では、ほとんど全てが、他力本願といっていいでしょう。
他力本願説を、逆にうまく利用しようとしたならば、私達は、豊かな思いの中で、そして不安が極力軽減され、願うことにより、幸せに生活することが出来るのです。
こういった行為から考えても、全てが他力本願の中に存在し、神への要望と自然への要望が、うまく交差しながら、現実というものが存在しているのかもしれません。
人間関係においても、仲良くしようねとか、けんかしないでとか、言い争いをしないようにとか色々ありますが、そう願う行為が全て、他力本願なのです。

 一体他力本願とは何か。
 そしてどうしてこういうような感性が私達の中に生まれてきたのか。
 何故他力本願でなければならないのか。
 自分の手で確実に築き上げることが何故出来ないのか。
それは、未来を予測する中で、逆に、未来のあり方が見えないからこそ、その未来の不安を解消するために、絶対的に行わなければいけない行為が、他力説なのです。
ここで、他力と本願を分けて考えてみると、よく解ります。
本願とは、自分が望む、最大なる意識の帰着点であり、本願を遂げることが、人生の全てでもあるのです。
本願という意識の中に、逆に本願を求めるために、私達は毎日生き、そして生活しているのです。
 本当の願いは何なのだろう?
 根本的な意識は何を求めているのだろう?
極楽浄土という言葉がありますが、この極楽浄土こそが本願であり、そこに向かって今何をすべきかが、大いに問われているはずなのに、その本願の前に、他力という言葉がついてくるのです。
この他力とは一体何なのでしょうか。
よく「私は無宗教」という人がいますが、果たしてそうなのでしょうか。
先ほどまで述べてきたように、願い事をかなえてくれるのは、確実に他力であり、それは神であり、自然なのです。
要するに、他力的な行為は、自分以外の大いなる力に対する願いであり、その大いなる力が存在するからこそ、起こる行為なのです。
その大いなる力を、それを人々は、神と呼ぶのです。

他力本願の、本当の意味が理解できてきたときに、本願を唱えることが出来るのが、それは神のみであり、自分では、願う以外に、自分の実力だけでは到底無理な世界なのかもしれません。
他力、要するに他の力に頼り、自分以外の力の中に、意識の豊かさが存在し、現実に甘んじた行為が、常に繰り返されているのです。
逆にこのことが理解できたならば、私達は他力で生きることが、最も自分の心を豊かにする方法となることでしょう。
しかし、他力が有効性を持つためには、自力で何を行うか、ということが求められてきます。
他力へのエネルギーは、自力の持つ潜在行為の中に発する、有効性を持ったエネルギーが、他力と共有しながら存在していることを忘れてはいけません。
要するに、他力のエネルギーは、自力によって生まれるということなのです。
この自力的エネルギーが、他力的行為を現実化させ、そしてそこに、本願が叶えられたならば、とても素晴らしい人生だったということが出来るのでしょう。

今年は、大変危機的な年だといわれています。
自力で解決できないことが、余りにも多く発生する問題があるのです。
より多くのことを願い、他力的な感性でここを乗り越えることは、決して悪い好意ではないのです。
自然神を信じることにより、そして内なる神を信じることにより、私達は大いに豊かな意識へと導かれることでしょう。

旧暦でいうと、今日が元旦です。
もちろん月は、新月に決まっています。
地球と太陽と月の関係の中で、私達は生きています。
しかし、明治維新後にこの日本は、新暦という今のカレンダーに変わり、1ヶ月が31日や30日であったり、1年が12ヶ月であったりして、全くこの太陽と月と地球の関係を無視した形で、毎日の生活を営んでいます。
カレンダーを見なければ、今日が何月何日か分かりません。
ほんのわずかな狂いかもしれませんが、こういったことから、日本人の本来持つ本能的な感性と、この日付から追われてくる日程的な現象が、体内におけるバイオリズムとそぐわない形で、今存在しています。
もうこんな過ちを、100年も続けてきたのです。
こういった行為から、人間の意識が観念的な方向に変わり、本能の目覚めを阻害する行為となっています。
多分これからも、このカレンダーは容認され続けることと思いますが、1日も早く、旧暦の暦に直す必要が、本当はあるのです。
体内のバイオリズムと月の満ち欠けが、同一線上にあるとするならば、こういった間違った行為は、人間の脳を狂わせる、最大の悪条件となることでしょう。

私達の体は、この月のリズム、要するに28日周期で動いています。
私達だけではなく、地球に住む生命体は全て、この条件のサイクルの中で生き続けているのです。
その条件が、社会生活上の都合により、このような形になってしまっているのは、非常に残念なことではありますが、仕方ないことでしょう。
この23日をもって、この日を元旦とし、毎日月を見ながら、自分の意識とバイオリズムと、日付を安定させることにより、倭民族である私達は、スピリチュアルへの意識の目覚めが可能となってきます。
この月と地球と太陽の関係の中でしか、研ぎ澄まされた人間の感性は、開花することはないのです。
スピリチュアル系の人達は、確実にこの日付で動きます。
もし今のカレンダーの日付で動かれているとするならば、絶対にそのスピリチュアルの意識は開花しません。
明治政府が、最も間違えた現象がこの辺にあるのかと思われます。
いや逆に、世界の仕組みが日本を巻き込み、あの明治維新が、ある種の意識体によって行われた、世界的な現象であり、この日本人のシャーマン的な能力を破壊するために仕組まれたものだと考えたならば、当然辻褄が合ってきます。
明治維新の謎は未だに解明されていませんが、このことにより、日付的観念が、肉体的本能を無視し、感性を鈍らせてきたことは間違いないのです。

今日から私達は、月のリズムと、月の日付により、毎日の生活をすることにしましょう。
そのことにより気付きが生まれ、そして感性が豊かになり、見えない世界が見えてきたり、リズム的なサイクルの中で、物事を読み取る力が養われてきたりするのです。
何かに照らし合わせながら、占いを読み取るようなことが、実は本能的に出来るようになってきます。
倭民族が本気で、月のリズムと向き合い、陰暦の中で過ごせる日が来たならば、確実に意識は高まり、本能的な感覚の中で、もちろん、自然を読んだり、人を読んだり、未来を読み取ったりする力が備わってくるのです。
内なる神を目覚めさせるためにも、意識の高次元化を図るためにも、月と密接な関係の中にあるこのバイオリズムを、もちろん、28日のサイクルの中には、7の倍数であり、チャクラに関係する出来事も、意識に関する出来事も、もちろん光や音も、全てこのサイクルの中に存在しているのです。
従って、絶対的な条件が、月のリズムで生活しなければならないということになってきます。
この月のリズムの中にこそ、私達の本来持つ、本質的なシャーマン意識が目覚め、豊かな感性と共に、未来への構築へと歩むことが出来るのです。
是非今日から、そのような方向へ自分の意識を向けてみてはいかがでしょうか。
今日の月の形がどうなのか、常に意識して下さい。
新月の意味を、そして満月の意味を理解して下さい。
そうすることにより、この環境の仕組みも、自然界の仕組みも、大いなる融合性へと導かれ、豊かさを気付かせてくれることでしょう。

よく、水とエネルギーは、高い方から低い方へ流れるといわれています。
この法則は、自然界においては絶対的な法則であり、これに逆らうと、逆にそれ以上のエネルギーを必要としてしまいます。
私達の生き方も、エネルギーの使い方も、高い方から低い方へと流した方が、より効果的で、スムーズにいくのではないでしょうか。
逆に、水の流れを逆流し、何かをしようとしたならば、その大きなエネルギーが、かえって大きな負担となることが、よくあります。
しかし、頂点を目指すという意識の中で物事を図ったならば、流れに逆らって生きるしかないのです。
あの川にすむ鮎も、海に行くことは非常に簡単に思われますが、そこで大きく育ち、川に戻ってくるとき、鮭も同じことですが、どんなに大変な思いをすることでしょうか。
安全なところで産卵したいという、また自分が生まれた故郷で生を持って欲しいという、大いなる優しさは、川の流れに逆らい、そこで本能を全うするわけですが、その結果、命を落とすことになるのです。
流れに逆らって事を起こそうとすると、逆に素晴らしい出会いもあるのかもしれませんが、命を落とす危険すら、そこには存在していることになるのです。

よく水は、流れたいところに流してあげたらいいんだという、そういったことを言う人がよくいますが、確かにその通りかと思います。
一番高いところに水を運び、そこから少しずつ水を流すと、いくつもの枝に分かれながら、下へ下へと流れていきます。
そのうちに奔流が生まれ、そこはやがて深さを持ちながら、多くの水を集めてきます。
逆に余所から流れた水をも吸収し、やがて大河となっていくのです。
その水の流れや方向性と、人間の生き方は、非常に似たところがあるのです。
下から上は、見えません。
どんなに背伸びしても、そこは見えない世界なのです。
色々なステージがあり、そこには階段が存在しています。
階段を一つ一つ上がりながら、鮭が卵を生みにいくように、頂点を目指すことも、その人にとっては大切なことかもしれません。
またその中間のステージの中で、立場を強調することも、それも一つの生き方として大切に思われます。
どれがいいかは別として、そういった自然界の現象の中から、現実を捉え、生き方をちょっとだけ変えてみたら、意外と解りやすく、物事が進むこともあるのです。
水が高い方から低い方へと流れるように、重いバケツを持って階段を上がることは、結構大変なことかもしれませんが、その上から水を流し、その流れる水に沿って、人生のあり方を少しだけ変化させながら、周りをよく見て、流れに逆らわず、例えばそこに浮かぶ木の葉のように、ゆっくりと流れて行ったらいいのかもしれません。

会社の社訓があります。
『柳に風』
『豆腐の意思』
『謝り上手』
『川に落ちたら落ち葉になれ。
 大海を見ることもある。
 川の中の石にはなるな』
いい加減な社訓のように見えますが、川の流れに沿って生きることが、波風立てずに済む、一番抵抗現象の少ない生き方なのでしょう。
川に落ちた石になってしまったならば、流れの抵抗を全部自分に受け、角が削れて丸くなります。
それはいいことかもしれませんが、そうなるまでの苦労は、大変なものでしょう。
出来れば落ち葉のように、ゆらりゆらり揺られながら、周りの景色を楽しみ、山の中に住んでいたら、こんなに大きな海があることを知らずにいたように、今まで気付かなかった世界が見えることもあるのです。
台風が来ても、柳の枝は折れることはありません。
彼らも、自然界の中で、とても上手に生きているのかもしれません。
人の意見を覆したり、逆らったりしてみても、いい結果が出るとは限りません。
その意識の中に便乗しながら、新しい方向を見出すためには、できるだけ柔軟性のある、豆腐の意思も必要なことなのです。
これも全て、水の流れに逆らうなという意味であり、そこから発見できる多くの事柄を、水という記憶の中で保存することと、また、そこから引き出すことが可能となってくるのです。
とにかく、流れに逆らわず生きることが、やはり、大切なことといえるのでしょう。

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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