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私達にとって、最も素晴らしい出来事は、生を持つことであり、命をいただき、この世に生まれてくることが、この次元において最大なるテーマであり、この次元があるからこそ起こり得る、一番素晴らしい出来事なのです。
その逆に、一番悲しい出来事は、死であり、その死から逃れるために新しい次元を求めようとしても、この死という帰着点に向かうことにより、生きていることの喜びを、逆に感じることが出来るのです。
死が悲しい出来事であり、一番の恐怖と考えると、死後の世界の不安が、今生きる私達の現実のものとなりますが、逆に死があるからこそ、生きることの素晴らしさを認識できるのかもしれません。
この三次元に起こる、生と死という二つの出来事は、喜びと悲しみを知るために、必要な出来事となっています。
そして、生まれることによって、生きることの厳しさや、具体的に言えば、生活のリズムそのものが、楽しかったり苦しかったり、そういった心の変動により記憶は作り上げられ、それを人生ということで、私達は認識しています。
その人生における、悲しみや苦しみから逃れ、また死という恐怖をどう考えるかにより、神社があったりお寺があったり、そういった宗教が、存在していることは間違いないのです。
でも逆に、その死という恐怖があるからこそ、そこで生きる私達人間は大きな役割を持ち、しかもその恐怖は、三次元にいるからこそ起こる現象であり、そこから逃れるために、高次元化とかアセンションとか、死のない世界を望もうとしても、それが正しいとは言い切ることは出来ません。
何故なら、死のない世界を望んでしまったならば、生まれることの喜びを失うことになるからです。
この最大なるテーマの、この地球で生きる、命が授けられるというこの喜びを、失うことになるのです。
そのような世界で生きて、本当に素晴らしいのでしょうか。
私達は肉体を持ち、その肉体は、ときに傷つき、病気で苦しむ人もたくさんいますが、また怪我などで生活に不自由する人もたくさんいますが、だからといって、その重い肉体を引きずることをやめ、死のない光の身体を持てたとしても、本当にそれは素晴らしいといえるのでしょうか。
あらゆる苦しみの中から見出される一片の光は、心を豊かにするのです。
触ることの出来る喜びは、安らぎと安心をもたらしてくれます。
見えること聞こえることの喜びは、豊かな心を作り上げてくれます。
要するに、肉体があるからこそ起こる現象が、私達の最大の喜びであり、そして寂しさを補うためにも、肉体における現象の中で解決が出来てくるのです。
三次元の出現は、前にも述べたように、この大宇宙の究極の科学によって、無から有への転換として行われた、最大のプロジェクトです。
この科学を超える世界は、この次元界において、存在することはないのです。
要するに、三次元を作り出すためにどれだけの苦労をしてきたのかということは、何度も言い続けてきましたが、この物質社会だからこそ、私達はこの豊かな心を持つことが出来たのです。
脳の中における、肉体のエネルギーが関与するからこそ起こる現象なのです。
とにかくこの三次元は、全ての次元が必要とするエネルギーを賄うためにも、絶対的に不可欠な存在なのです。
このエネルギーがない限り、何も起こりません。
この高エネルギー帯の中で、私達の肉体が存在し、物質化現象が起こり、だから人間達にも、全ての命に対しても言えることですが、生と死が存在するのです。
死を恐れることは、この三次元のあり方について疑問を持つ、歪んだ世界に陥ってしまいます。
死を恐れることはないのです。
人間の死がサイクルであるならば、また、情報という世界が理解できたならば、肉体の死が人間の死でないことが、たやすく理解できることでしょう。
それを恐れる余り、アセンションとか高次元化とか、天変地異が起こったり、人類滅亡説が唱えられたりする中で、究極の生を求め、死を否定しようとしても、それは何の意味も持たないことがわかっていただけたと思います。
この三次元を、否定してはいけません。
これ以上の次元は存在しないのですから、この次元の中のあり方を、その全てを受け入れることが、より豊かな生き方へと歩む大前提となることでしょう。
もっともっと楽しんで下さい。
触れること、見られること、聞けること、喜びも悲しみも、もっと楽しんで下さい。
この三次元が、とても素晴らしい次元であることを、もっと味わって下さい。
今起こっているこの危機的な現象も、この三次元下における科学は、もちろん人間の科学ではなく、神々達が作り上げた、その科学の持つ自浄作用により、必ず蘇ることでしょう。
恐れることはないのです。
このような出来事は、地球は何度も経験しているのです。
私達がそれを、知らないだけなのです。
私達は今、特にこの日本人は、とても裕福な生活をしています。
食べ物は有り余り、食べ残すことに、何の罪悪感も持っていません。
それどころか、ダイエット中とか、太らないように控えているとか、逆に贅沢な悩み事の中で毎日を生活しているのです。
また着るものが溢れ、ブランド品を求めたり、デザイン性を求めたり、用途や着心地よりもそのものの価値観の中で、くだらない見栄を張りながら、毎日を過ごしています。
穴の開いたジーパンや年代物のジーパンに、何の価値観があるというのでしょうか。
余りにもかけ離れた、この社会の仕組みの中で、単なる価値遊びをしているに過ぎないのです。
ブランド品の価値と非ブランド品の価値が違っていることなど、用途から見たら、何の意味もない、どうでもいい話なのに、そこに意識を集中し、そんなくだらない世界で、心を豊かにしようとしているのです。
確かに、見栄を張ったり、欲をかいたりすることが、全ていけない訳ではないのですが、ここで豊かさについて、少し考えてみましょう。
科学は進み、機械化された農業は、たくさんの利益と、豊かさを与えてくれました。
この豊かな地球に、今私達は生きていることに、もっと気付く必要があるのですが、その反面、貧富の差は激しく、餓死や、飢えで、死んでいく子ども達も、世界中にたくさんいることは、誰もが知っています。
自分の日常生活の中では、私達日本人は、それと照らし合わせることは、全くしないのです。
このような一部的な豊かさの中では、本当に地球が豊かだとは言い切ることは出来ません。
地球に住む、すべての生命体が裕福であるということは、大変難しいことではありますが、そういった平等的な意識の中でこの全世界を見たならば、今の地球は本当に豊かなのでしょうか?
いやそれよりも、逆にその豊かさを超え、荒んだ心の中に、貧困的な意識が、大きくはびこっているに違いないのです。
与えられた中の、人間が観念で作り上げてきた価値観は、本当の豊かさではないのです。
お金という世界が作り上げてきた、単なるマネーゲームに過ぎないのです。
そのゲームの中で、高価さと、豊かさを、勘違いさせるような出来事があるに過ぎないのです。
本当に豊かだった地球は、人間が作り上げた、こんな制度の中にあるのではなく、自然と人間が一体化する中で、地球と環境が、ひとつのテーマの中で動き出し、豊かであることの実証は、そこに自然が存在し、自然の中で意識が豊かさを作り、それを誰もが平等に味わうことが出来たならば、本当に豊かな地球といえるでしょう。
一部の人間だけが、突出した豊かさの中で、そんなものは、地球のレベルから見たら、大して意味のあることではないのです。
逆に最も地球が豊かだった頃は、草食恐竜達が平和と和みの中で生き続けた、6500万年以上前の、出来事の中にしかないのかもしれません。
自然が豊か過ぎて、その豊かさの中で、甘んじて生きてきた恐竜達は、草食主義であり、争いのない、豊かな思いで生活していたに違いありません。
今人類は、平和という名の下で武器を持ち、緊張感の中で安定を図っていますが、その安定が崩れたならば、すぐにその武器を使い、世界中が戦争の渦へと落ちていくのです。
戦うこと、人を踏みにじること、上に立つこと、肩書きを持つこと、優越感を持って生きること、今の社会は何一つ、まともな考え方は存在していないのです。
物事を平等に見るなど、差別のない世界を作るなど、初めから何も考えていないのです。
差別化の中の優越感に溺れ、自分だけの有利性の中で、人生を楽しんでいる人達が、余りにも多いことが、とても残念でなりません。
何故、上に立たなければいけないのでしょうか。
何故、平等は存在しないのでしょうか。
それはきっと、この地球環境が、余りにも貧困であるからこそ、起こる現象なのかもしれません。
隕石がぶつかり、環境が破壊されたとき、恐竜達の中で、その恐竜達同士の共食いが始まり、やがて肉食恐竜が生まれてきました。
地球環境が貧しかったからこそ、生まれてきたのが、肉食恐竜なのです。
そのときから初めて、この地球で、動物達の争いが始まり、要するに、殺し合い、そして殺して食べるという現実が現れてきたのです。
今飼われている家畜達は、全て人間達に食べられます。
そんなことに罪の意識が全くないのが、私達人間なのです。
もし本当に地球が豊かならば、こんなことは起こるはずがないのです。
肉食動物が生まれてきた理由と、この地球の貧困さが、同一線上に存在しているのです。
私達人間も、大半は、肉食動物なのです。
豊かな地球を取り戻したとき、未来の地球では、このようなことは起こりません。
私達も、未来の地球で生きるための準備に入りましょう。
何気ない毎日の生活の中で、私達は喜びまた悲しみ、そして多くの出会いの中で、何気なく毎日を過ごしています。
全てが自由であったり、欲しいものが手に入ったり、旅行に行ったり、食事をしたり、そんな世界で、楽しく暮らしているように見えていますが、実はこういった出来事は、人類という人種が乗る、列車の中で繰り広げられている出来事に過ぎないのです。
ほとんどの出来事は、観念の組み合わせによって作られ、要するに、夜になったら寝るとか、朝ごはんを食べたり、仕事をしたり、買い物をしたり、また、農業や漁業も、意図的に作られた世界の中で、繰り返される毎日を過ごしているに過ぎないのです。
全てが仕組まれた世界で、ただそのレールの上を走っているに過ぎないのです。
このレールの上を走る列車には、大いなる欠点が一つ存在します。
飛行場でみんなが感じることは、飛行機はバックできないということです。
だから前輪を押してもらい、前にしか進むことが出来ないという欠点を補っているのです。
レールを走る列車にも、大いなる欠点があります。
前へ前へと進みながら、交差点に出合ったとき、この人類という列車は、右へも左へも曲がることは出来ないのです。
今私達は、T字路という、極めてこの列車にとって、未来を失わせるほどの、現象を目の前にすることとなっているのです。
もうお分かりのはずです。
前へ進むことと後ろにバックすることは、余りにも容易にできる列車であっても、方向を変えようとすると、大きなカーブを描きながら、ある程度の距離を保って方向を変えるしか、列車が進む方向を変える手立てはないのです。
人類は、融通の利かない、そういった列車に乗っているのです。
ここで右に曲がれたらいいのにと考えても、また左に曲がれたらいいのにと考えてみても、その交差点を右折することも、左折することも出来ないのです。
人から何か言われたときも、自分の襟を正すことが、そして、自己否定することが出来ないのは、敷かれたレールの上を走っている列車に乗っているからこそ起こる現象なのです。
人は観念という列車に乗り、自己の欲と楽観的な未来を夢見ながら、その列車は、どんなに間違いに気付いても、前に進むしかないのです。
やがてT字路にぶつかることは、間違いないのです。
そしてそのとき、人類は、何を考え、どういった方向に進むのか、今の現実の中では、全くその想像は出来ていないのです。
想定外という言葉がよく使われますが、そうではなく、想像すらしていない、茨の道がそこに存在していることは明らかなのです。
何故ならば、T字路をまっすぐ進む列車は、その向こうに線路が敷かれていない中で、どう進めばいいのか、そこが明るいのか暗いのか、周りに何があるのか、全くの未知数の中で、これから人類は歩んでいかなければならなくなるからです。
今なら、少しだけ後戻りし、大きくカーブを回りながら方向を変えることは可能ですが、今この列車は、そういった考え方を、全く持っていないのです。
何故ならば、神々がどんなに警告をしても、人類はついに、行き着くとこまで行くことを望んでしまったからです。
この人類という列車は、間違いに気付いてもそれを改めることなく、前にしか進むことの出来ない愚かな列車ですが、唯一つ大きな残念なことは、わずかな意識によりこの列車が操縦されているということなのです。
乗客達は何も知らずに、ただこの列車に乗り合わせながら、何気ない毎日を過ごしているに過ぎないのです。
だからこそ、この乗客達に、いろんな危機的なことを伝えたとしても、列車を操縦していない彼らにとっては、どうにもできない出来事なのです。
人類が乗せられたこの列車は、未だに暴走を繰り返しながら、T字路を突っ切ろうとしています。
取り返しのつかないことは、もう起こり始めているのです。
未来はもっと、危機的な状態に陥ることでしょう。
もう打つ手はありません。
もし乗客の中で、気付くことがあったとするならば、この走る列車から、飛び降りる勇気を持って下さい。
それしか、方法はありません。
地球が生まれて、一番先に地球にやってきた生命体が、酸素を必要としない微生物達です。
彼らは宇宙を何億年もの間さまよいながら、隕石や塵に混じりながら、地球に降りる日を待っていたことでしょう。
この宇宙空間において、酸素も必要なく、また寒さにも影響されることなく、この宇宙を、距離すら超越しながら、地球にやってきた彼らは、その目的も、またいつどこでそれが誕生したのか、私達人間には理解することが出来ないほど、理解するには程遠い歴史を刻んでいることでしょう。
私達は、微生物というと、単なるばい菌とか、土壌菌とか、腸内細菌とか、または風邪やインフルエンザなど、身近でよく口にする存在ではありますが、実際微生物の生態系や、地球に彼らがやってきた目的など、そんなことを考え出したならば、気の遠くなるような長い歳月の中を駆け巡ることになってしまいます。
しかも、当時地球に落ちてきた微生物達には、死というものが存在していませんでした。
私達生命体は必ず、生まれることと死ぬことの中で、命が存在していますが、彼らは生き続けるプログラムの中にしか、存在がなかったのです。
やがて地球にも酸素が生まれ、好気性菌が発生し、微生物にも死がやってきました。
あくまで酸素がなければ、彼らに死は存在していなかったのです。
全ての微生物がそうだったとは言い切ることは出来ませんが、この宇宙空間をさまよいながら、地球にやってきた彼らは、繁殖と冬眠、分裂と休息、そこに時間というものは、何の関与もすることもなく、ただ環境の与える全ての中で、条件を満たしたならば繁殖し、条件にそぐわなければ、ただ冬眠に入るだけなのです。
こういった生態系の中から、この地球に降りてきた彼らの意味を、もう一度深く考え直してみると、彼らが地球に持ってきてくれたものは、彼らの遺伝子の中に刻み込まれた、莫大な量の情報であったことに気付かされます。
宇宙で作り上げられた、このプログラムと記憶された情報は、やがてこの地球に大きな影響を与えることとなります。
何故ならば、地球における全ての生命体は、この宇宙ウィルスからの情報と記憶に基づき、命として存在してきたからなのです。
私達人間にも、基本的には、彼らが持ってきた記憶がそのまま遺伝子に保存され、また後の世代へと伝えられています。
人間が感性を豊かにしたとき、また彼らの意識とうまく融合し合ったとき、宇宙の秘密も、地球における進化の謎も、その中には全てが記憶され、書き込まれているのです。
宇宙で生まれた微生物達は、この地球に大きな情報を与え、今ある存在とし、大いなる貢献をしてきました。
地球における彼らの生き様は、そのままの形で維持するものと、またそこに新たな情報を加え、進化の方向へと進むものと、大きく分かれてきました。
環境の中でどちらを選択するかは、あくまで彼らの自由であったことに間違いないのですが、やがて植物性プランクトンのように、光を利用しながら、生命維持活動を行い、苔や植物へと進化していくものや、逆に光を嫌い、光のない世界で生き続けようとした、宇宙生命体のような生き様も、この地球の中では存在しているのです。
私達はまだ、彼らの本能的な生き方の、全てを知っているわけではありません。
形も大きさも自由であり、酸素があってもなくても、光があってもなくても、重力があってもなくても、そんなことに深く関与しない形で、彼らは独特の世界を築きながら、逆にこの大宇宙を支配しているのです。
もし宇宙人がいるとするならば、それらすべて、彼らが意図する出来事の一つに過ぎないのです。
要するに私達は、彼らの意識により作られ、神との融合により、現在このような形で存在しているに過ぎないのです。
私達の身体の中に彼らがいるのではなく、彼らを生かすために、全ての生命は存在しているに過ぎないのです。
彼らが作り上げてきたこの世界は、彼らの自由に任され、全ての命は、彼らとの共存でしか存在できない、という結論に達するのです。
だからこそ、今彼らを知ることが、人類の未来や、宇宙や、地球の本来の姿を理解する上で、最も大切なこととなるでしょう。
もう一度彼らに意識を向け、彼らの存在を明らかにし、その思いを、理解して、未来に対して、考えを新たにする必要があるのかもしれません。