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しなの電車から見える風景。
日本三大車窓に選ばれた、姨捨山(おばすてやま)。
車内アナウンスが流れる日には、電車はゆっくり行くので
雄大な 景色を楽しめます。
 
 

それから…
夜空を見ると、月と金星が並んで見えました。
その日の夜空は、広くて澄んで見えました。
 
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 お盆になると日本の古い風習としてお墓に行ったり仏壇に手を合わせたり、これは今も続くお正月と同じ程の力を持った、日本のメインイベントではないでしょうか。先祖を供養するという事はとても素晴らしい事で、私達が今生かされているのはご先祖様がいらっしゃったからこそ、そんな考え方がこの日本の風習としてはとても素晴らしく思います。
 諸外国ではこの様な風習は余り見かける事はありません。日本人ならではの大変心温まる儀式ではないでしょうか。
 この様に私達が今生きている上で、非常に大切とされるのがご先祖様の存在です。何か悪い事が起こった時ふと心をよぎるのが、そういえばお墓参りしていなかったとか、最近仏壇に手を合わせていなかったとか、そんな風に考える事もよくあります。この日本では神道と仏教は一対のものであり、大変素晴らしい私達が生きる為の教えではないでしょうか。
 先祖を供養するというこういった考え方の中に、いつも私達は先祖と供に生きているんだという共存の考え方が存在しています。だからこそ、お盆は楽しいものでありまたお正月は神聖なものであったり、日本人は常に先祖や神々とともに生きて、自然を大切にして大地と共に生きた民族だったはずなのです。
 この様な考え方から、日本人がとても自然に親しみを持ち亡くなった方への尊敬の念も強く、生きているだけが人生ではなく、亡くなってからの過ごし方が問われる様な、逆に言ったならば肉体を持って生きていることが人間の全てではなく肉体が消えた後も霊体的な存在が生き続けている、そういう極めて特質的な考え方を持っているのでしょう。
 よく日本人以外の人達が切腹出来ないと言われています。なぜならば他の国の人達は肉体の消滅すなわち全ての終わり、そう考えているからでしょう。
 しかし日本人は死んで名を残すといった様な大義名分を持って、肉体を持って生きていることが全てではなく死後の世界へのプライドを強く持ち、肉体が消滅してからの生き様を非常に強く考えている民族なのです。こういった日本人の考え方は大変素晴らしい考え方と言えるでしょう。
 なぜならば死んだら全てが終わりという考え方がない為に、生き方が強く問われてくるのです。要するにまともな生き方をしなければ、死んでから苦労するといった考え方がそこには存在しているのです。そして死後の世界の恐怖の中で地獄に落とされるといった、極めて人間の心を反省の方向へ導く程の恐怖的な教えが存在しています。
 誰もが死んでからも苦労したくない、そんな考え方からどう生きたら良いのかというその現実を見極めた方向性をいかに正しい方向へと向けるか、日本人だけが持つこの考え方は今生きる私達にとって間違った道へと行かない、大変大きな教えではないでしょうか。死後の世界が存在することにより、生きている私達がどう生きたら良いのか逆に死んでからの苦労をしたくない為に今をどう生きるのか、そんな事を教えてくれるのがこういった現象からうかがえる事ではないでしょうか。
 今生きている自分を戒める様なそういった法律が存在するならば、それに従わなければなりませんが、自分に自分がどう関与するかによって自分の生き様を決めていく、なぜならば肉体が消滅した後も魂が生き続けるというそういった考え方は、人間は肉体が滅んでも霊的には滅ばないという、大変特殊な考え方の中から生まれてきたものであり、だからこそ日本人は争いを避け、出来るだけ和みの世界で生きようとするのではないでしょうか。
 死後の世界の存在は、生きる私達にどれ程の思いとそして生き方を学ばせてくれているのかもしれません。だからこそ今どう生きたら良いのか、精一杯生きる事がどんなに素晴らしい事なのかどうしたら社会に貢献出来るのか、罪を犯さず人に優しく、死んでからの自分の魂がどう浮かばれるかという事を念頭に置きながら、今を生きるこの素晴らしさをもう一度考えてみてはいかがでしょうか。

 生きている時の不安を死んでからも持ち続ける事は、大変不幸な事と言われていますが、死後の世界はその存在は誰もが知らない未知の世界である事も間違いないのです。
 この日本では、魂とか霊体とか肉体とか分けて考えられていますから、肉体の環境における辛さとか霊体の意識における辛さとか分けて考える事がよくあるのですが、なかなかそれは難しい考え方なのかもしれません。
 しかし死んでからも魂の存在があると考えたならば、死後の世界を安定させたいと考えるのは当たり前の事ではないでしょうか。要するに、生きている内は多少の苦労は構わないのですが、死んだら究極に楽をしたいその為に今何をしたら良いのか、そんな教えがあってもそれはそれで良いのではないでしょうか。
 死ぬ事が恐怖だという考え方はそれが一番の恐怖と考えたならば、死後の世界を色んな形で理解する事はとても大切な事ではないでしょうか。
 極楽浄土やはりこの言葉は、死後の世界では大変素晴らしい意味を持っている言葉ではないでしょうか。だからこそ今何をすべきなのか、どういう方向に向かっていけばいいのか、極楽浄土で生きる人達はどの様な人達なのか、仏教に熱心でそこを極めた人達が誰もが行ける世界とは限らないはずです。どうやったらその世界に行けるのでしょうか。そして又極楽の世界とはどんな世界なのでしょうか。苦しみも悩みもそういった意識の乱れは存在しなくて、毎日が平安でそして楽しく過ごせるのかもしれません。
 浦島太郎が行った竜宮城の様な所なのかもしれませんね。確かにあの話を聞いた以上、竜宮城は特に男性にとっては極楽浄土以上のものかもしれません。しかしその後、いきなり年をとってしまったのでは仕方がないのですがもしそれが、永遠に続いたならば生まれ変わってくるなど馬鹿げた事をする訳がありません。
 しかしこの生きている世界にも、極楽浄土以上の楽しみや喜びが存在しています。大変気の合う仲間と有意義な時間を過ごしたり、恋人同士が大変楽しい時間を過ごしたり、そういった環境の中では極楽浄土以上の快楽や娯楽やそれが同時に、そういう楽しみが出来るのも肉体が有るからではないでしょうか。肉体や魂や霊体が同時に楽しめたならば、そんな事がもし可能ならそれは生きている私達が得られる、唯一の法則ではないでしょうか。極楽浄土に生きるのは肉体ではありません。
 肉体を置いてその世界に行っても、快楽的な究極の楽しみは得る事が出来ません。この生きている社会において、肉体と共に過ごした日々の中で得た究極の楽しみが記憶に残り、その記憶を元に霊体が未来を構築したならば、要するに生きている間の全ての嫌な事を忘れ楽しかった、要するに究極に楽しかった事を連鎖的な意識を作り上げるその記憶が極楽という世界を作り上げていくのであって、極楽という世界に行くことによって極楽を得られるという事は違っているのです。
 要するに記憶から発生する出来事であり、楽しい経験のない人に何が楽しいのかそれを、理解する事は難しいからです。やはり美味しいという食べ物を食べたくなって初めて、美味しいという経験や記憶がそこに反映しているのではないでしょうか。極楽浄土の世界で本当にそれを極める為にはやはり、生きている間のそういった経験が非常に大切な事ではないでしょうか。だからこそ、この教えの中で私達は今をいかに大切にするのか、そして命や自然をどう大切にしていくのかそんな事を深く考えた上で、極楽浄土という世界をその世界に行ける自分を楽しんでみてはいかがでしょうか。
 そして記憶の中の素晴らしい出来事が大きく反映し、より素晴らしい浄土の世界が作り上げられたならば、大変素晴らしい出来事ではないでしょうか。

 とても気の強い人が居たとしても、又すごく優しい人や、他人にはとても優しく穏やかに見える人でも、一つだけ大きな弱点が存在します。
 それが自分の弱さを露呈してしまう、そして自分へのこだわりと、それをカバーする為の、とてもずるい法則が存在しているのです。
 タバコを吸っている人がその吸殻を、道路に捨てたとしましょう。その後ろを歩いていた人が、それを注意するなんて光景はほとんど見る事が出来ません。本当は注意したいと思っていても、勇気がなくて又、逆上されたら困るので、自分をかばう事により注意する事をしないのです。この時どちらの人の方が、悪いのかと言うとそれは2人とも悪いと言う答えになってしまいます。ここが難しい所なのです。人間とはとても弱い存在なのです。
 自分にとって、一番弱い自分を知っているのは、本人そのものなのです。そこをどう克服していくのか、これが一番難しい問題なのです。
 本当に強い自分が居れば、もし自分が間違っていたら、正直に謝ってくるはずです。でも弱い自分はそれをせず、さも自分が正しかったかの様に多くの人に振舞い始めるのです。これは自分の弱さを、見事に表現している現実なのです。
 人の賛同を得なければ、怖くてたまらないのでしょう。
 小さな子どもが、母親の後ろに隠れながら、向こうの子どもに、あかんべぇをしています。でも、もし母親の陰に居なかったならば、その子はそんな事が出来たでしょうか?そんな子どもの頃から培ってきた、そういった社会の中で守られている自分を、どう確認し合うのかはその人の環境に、大変大きな存在となっているのです。
 要するに仲間意識という、上手くいっている時はとても素晴らしい事なのですが、間違った事をしている仲間を、仲間だからといってかばうとてもみっともない集団に過ぎません。そしてその悪い仲間に、他の人も誘い込み、巻き添えにしたならば、身勝手としか言いようがありません。その様な大人が増えている事も確かなのです。
 その始まりは、子どもの頃、両親に守られていたという甘えから今度、子ども達を守るという立場になっていても、変わる事の出来ない愚かな存在なのです。
 今、私達が一番考えなければいけない事は、勇気を持って地球の未来を考え、未来の子ども達がこの地球で安全に暮らせる様に、それを可能と出来るのは今、居る大人達しかないのです。ここで変えなければ、永遠に変わる事はありません。
 影に隠れてこそこそしながら、人の悪口を言っているようでは、未来は何一つ変わっていかない事でしょう。そのみすぼらしい姿を誰もが確認しています。本人だけが分からない、とても滑稽な姿なのです。
 自分の弱さに自分が負け、そして何かにすがる様に自分を失くしていってしまう。
 誰かに頼らなければ生きていけない環境問題が、とても不安定な中に今在ります。社会的にも未来がどうなるか分かりません。
 結婚している夫婦であってもそこには、安心とか、安定とか、いつまで続くか分からないのです。
 もちろんそれは、恋愛に関しても同じ事が言えるでしょう。
 人を信じるには、大変大きな勇気が必要です。この人に裏切られたならば本望という、その位まで信じ合わなければ、何の意味もない事となってしまう事でしょう。しかし現実は営利で結びついており、この営利が金銭的であったり、心の豊かさであったり、テーマに向かう力であったり、それぞれ形は違っていてもその世界の中で、欲という現実が存在している事は間違いないのです。
 お金だけをテーマにしてしまったならば、必ず道を外す事になる、そういった時代が今来ているのかもしれません。
 将来の不安からお金を集め、そして安心を得ようとしても、それは余り好ましい事ではないのかもしれません。それよりもやはり強い自分になれる様、何があっても負けない、そういった自分がそこに居たならば、何の不安も感じる事がないでしょう。
 これから起こるかもしれない大変大きな出来事の中で、地球上どこに行ってもそれは回避する事が出来ないのです。
 なぜならば、人類が一つになってこの地球を破壊したから、神の裁きは平等に受けなければならないという現実が、そこにはあるからです。

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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