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毎日生活していく上で色々なことに出会います。
「どうしてこんなことが起こるんだろう」
「なぜこんなに悩まなきゃいけないんだろう」
「うまくいかない理由は何なんだろう」
マイナス思考になった時、「なぜ」「どうして」そんな風によく考えます。
よく「神々は乗り越えることの出来ない試練は与えない」と言われています。
過去の結果を見ると、確かにそうかもしれません。
なんだかんだ言いながら、常に乗り越えてきた、そういった記憶はあります。
そんなように、多くの矛盾を感じた時、これは神々のストーリーかどうか、聞くことにしています。
答えはそこで出てくるはずもないのですが、結果的には、どんなに辛い出来事であっても、乗り越えることが出来たならば、良い方向へと進んでいきます。
今この危機的な時を迎え、多くの犠牲の中で、私達は生かされています。
しかしながら、その生きている意味を見失い、まだ先の不安に怯え、今何をして良いのか、その現実を見つめることが出来ず、迷いの時間を過ごしている、そんな日々もよくあります。
未来はどうなるのだろうか、そんな中で、平和ボケした人々の中には、この三次元のありがたさを忘れ、もっと素晴らしい未来を、そして、そこにどうやったらいけるのか、根拠のない話題の中で、楽しんでいる人達もいます。
アセンションとか、高次元化とか、そんな言葉の中には、この三次元のありがたみを忘れた、極めて不可思議な現象への、意識の旅立ちだと思われます。
起こるはずのない未来に、起こるはずのない出来事が交差し、ただ夢見ているのです。
しかしながらそれは、物質社会で起こると考えたならば、あり得ない行為ではありますが、意識社会においては、決して不可能な話ではないのです。
現実を見失うということは、そういった物質社会を、その観念からの脱出が、余りにも突拍子もなく現実に起こり、空想的に描かれた未知数の中で、意識と、思いと、望みとが、その間違った方向へと、考え方を変えていってしまうのです。
もし私達が、今より素晴らしい未来に行けるとするならば、絶対的にやらなければいけないことがあります。
立つ鳥跡を濁さずという言葉があります。
私達は、この地球に住み、多くの経験と、豊かな繁栄を遂げてきました。
この地球には、感謝しても感謝しつくせない程の、恩義があるのです。
この地球で起こった出来事は、全てこの地球のエネルギーに委ねられ、私達は、この地球の環境の中で生かされてきたことに、もう一度深く感謝し、私達が犯した大いなる罪を元に修復する、その行為を行わなければ、新しい未来へと旅たつことは、絶対に許される行為ではないのです。
愚かな人々は、自分が侵した罪を、その認識すらなく、未来の素晴らしい世界を望み、意味のないセミナーを繰り返し、今を無くしていくのです。
夢は大きく持つことは、決して悪いことではありません。
しかし、未来は、今という現実カプセルが、そう、私達が乗っている、このカプセルが、時間の壁を移動しているに過ぎないのです。
私達は地球号に乗って、そして地球号というカプセルで、時間の旅をしているのです。
過去から未来へと、このカプセルは移動していきます。
しかしそこでよく分かるように、起こること全ては、このカプセルの中で起こる現実であり、そのカプセルから抜け出し、次の世界へいけるわけではないのです。
この時間の壁を旅する私達は、カプセル内の危機的な現象を、私達に出来る範囲で、その修復をしなければならないのです。
神々のストーリーである、時間の旅を続ける限り、カプセル内での出来事が、私達に与えられた、絶対的な空間なのです。
この時間の旅とその錯覚が、今を見失う危険な結果をもたらし、現実からの逃避が、未来構築の思いへと変わり、そこに多くの望みを持つ人が、最終的に到達出来ないその壁を目の前にしながら、多くの悩みの中に落ち込むことでしょう。
私達が時間の壁を乗り越えることが出来るとするならば、それは、物質的に行われる状況の中で考えたならば、答えは、不可能ということになります。
しかしながら、意識的な環境で物事を捉えたならば、無理することなく、容易くその壁を乗り越えることが出来るのです。
しかし、その時、肉体はどこに存在するのでしょうか?
神は、物質社会を、この最大なるプレゼントを私達にもたらしてくれました。
三位一体という言葉の中にもあるように、私達は、この現実を、見失うことなく、今の修復に入りましょう。
そうしなければ、このストーリーの結末が見えてきません。
今、その清算が、始まったのです。
日本人にとって、特に武家社会の中では、一番重んじられてきた文字が、義というものでした。
この義という言葉の重みを強く感じ、武家社会は上手く統率が取られ、義理の世界を作り上げていったのでしょう。
今私達は、この義という言葉を少しだけ、忘れてしまっているように思われます。
この字から作られる、日本人独特の感性と、日本人が日本人であるからこそ、義をもって制すると、この社会に大きく君臨し、人と人との関係の中に疑いという貧しい心を持たず、信じ合うことが出来るのも、この義という言葉が大きく存在するからだと思います。
偽善者という言葉もありますが、その「ギ」の同じ音の中に、全く違う意味を持つのも、面白いものです。
義に反する意識の中で、私達は、裏切りという言葉を耳にします。
信じていたからこそ裏切られるのであり、信じていなければ、その言葉は存在することはないのです。
義という言葉を最前に出し、人間社会を作り上げていった武家社会では、非常に大きな統率が取れ、人間関係を完璧に作り上げていったことなのでしょう。
今は自由意識の中で、あまり義理を重んじた、そんな感覚はないのですが、しかし日本人の心から、その義という言葉が消えたわけではないのです。
政治家が会議の中で、そして国会議員が、義の中で論じているならば、それはとても素晴らしいのですが、中々それは上手くいっているものではありません。
義経が、弁慶と共に、そしてその義を一番重んじたのが、弁慶なのかもしれません。
この二人の名前のゆえんからしても、それは日本独特の、とても感性の高い、人間関係を作り上げているのかもしれません。
義をよしと読むなら、善もまたよしなり、吉もまたよしなり、良もまたよしなり、よきにはからえという言葉が、そんなところから生まれたのかもしれません。
基本的には日本人は争いを嫌います。
世界の人々が注目した、日本人の特徴の中に、牧師さんと住職さんと神主さんが一緒に酒を飲む、そんな光景が、日本では当然のように見られますが、世界ではそれは、まれな出来事なのだそうです。
もし世界中の人が、日本語を正しく理解し、日本語をもっと深く学べたならば、世界から戦争はなくなると、そう表現した外国の学者が居ますが、その通りかもしれません。
私達が素直に、日本語を理解し、日本人である誇りを持ち、その昔の倭民族としての誇りの中で、義の世界を作り上げていたならば、争いごとなど、起こるはずがないのです。
義の世界は、相手の立場や考え方を尊重し、それを覆すことなく、お互いがそれを認め合う、大変素晴らしい意識だと思われます。
相手を阻害したり、相手の考え方を覆したり、そんなことをしなくても、人間関係は上手く保てるということを、ここに意味しているのです。
義の世界が、もっと深く認識されたならば、何事にも尊敬の念が発生し、自分との照らし合わせの中で、大変友好的な時間が作られることでしょう。
日本語の中に隠される、日本人独特の意識の中で、もっと深くそれを知ることにより、この社会は上手く流れていくことでしょう。
今までのような、ごまかしと繕いの時代は、もう終わったのです。
新しい時代の中では、一番大切なことは、現実を見失わずに、目の前に起こる現象を素直に見て、それを受け入れる勇気を持つことです。
否定しても、そこからは何も生まれてきません。
認めたからこそ、次の段階へと進めるのです。
前に向かう為には、認めなければいけません。
そして、何をすれば良いのか、そこから何が生まれてくるのか、大いなる解決方法を、多くの人々と、情報を共有しながら、考えるべきではないでしょうか?
否定しないで下さい。
覆すことは、理論上いくらでもあることでしょう。
否定を説得するには、それが正しいなら別ですが、そうでない場合は、必ず自分に嘘をつかなければいけません。
この世の中で最も解決することが困難な出来事は、自分につく嘘なのです。
もう、そういう社会は、未来を新しいものにはしません。
自分に対する義の世界も、考えてみてはいかがでしょうか?
解決の道は探せば幾らでもあるのに、少し休みたいと言う安易な気持ちになった時は、特に注意が必要です。
1つの行動は1つの結果を生みます。幾ら考えても何もしなかったら、ただ無駄な時間を過ごしただけで、意味が無く成ってしまうのです。
その内に自分の能力に自信が無くなり、駄目に成る為の定義付を行い、自分を納得しようとするのです。
無理と決めつけた時、全てが終わります。挫折感に支配され、他の所に何かを求めようとします。仕事を変えたり、そして自分を理解してくれる、優しい宗教の誘いに乗ってしまうのです。
神は、乗り越えられない試練を与える事を、絶対にしません。全部自分で墓穴を掘り落ちて行くのです。
挫折感を感じた時は、豊かな自分の未来をイメージして下さい。またより具体的に希望して下さい。願いから、心のゆとりが生まれます。新しいひらめきが、新しい出会いが待っています。
そして少し前の、良かった時の事を思い出して下さい。答えはそこに有ります。
目の前に、伊万里焼の、大きな壷があります。
とても彩りがよく、誰もが素晴らしいと、その壷を見るに違いありません。
正面から見ているだけでなく、角度を変えて横に回ったときも、その壷はとても素晴らしく、生き生きとしていました。
また、後ろに回った時、こちらが表のように感じ、どちらが表か裏か、全くそういう観念を捨てさせてしまうような、とても素晴らしく焼き上げられている壷を見た時、私達人間は、その人がどの角度から見るのか、そしてどう思うのか、そういったことをもう一度考え直してみる必要があることに気付きます。
この壷を焼いた職人さんは、大きなホールの中央に展示されたことを想像し、誰がどこから見ても、それを魅了させるような作りをしたに違いありません。
作る作者が、誰がどこから見ても素晴らしく作り上げるということは、とても繊細な意識を持ってそこに関与しなければ、とても出来ないことなのかもしれません。
この壷と同じように、私達人間も、大ホールの中央に立ち、あらゆる角度から観察されていることに、気付かなければいけません。
正面だけを気にし、後ろを粗末にしたり、顔や頭だけを気にし、足元に気付かなかったり、私達人間は、全てを見ることが出来ない、そして全てを見られていることに気付かない、愚かな生命体なのかもしれません。
私達は見られているのです。
あらゆる人や、あらゆる生命体から、そして宇宙から、霊的現象をも含め、私達は覗かれているのです。
もちろん、心の中までですよ。
それに気付いたならば、非常に恐ろしい意識の中で、自分というものを見直し、自分が誰なのか、自分がなぜここに居るのか、どうしてこのような服装をしているのか、そんなことを、もう一度考え直してみてはいかがでしょうか。
いつも見られていることに気付いたならば、どう見られたら良いのかも、考えなければいけないのです。
逆に自分も、人を観察し、その人を捉え、意識の面からも、自分の中で作り上げているのです。
要するに、自分にとってどうなのかという問題と、相手が自分に対してどう思うのかという面も含めて、服装や外見からその人を判断し、友好的なのか、またそうでないのかを、確認し合っているのです。
それがマンネリ化しながら、日々の生活の中で生かされていることは間違いないのですが、一度その観念を捨て、もう一度違った角度から、人を見たり、物を見たり、自分を見たりしてみてはいかがでしょうか。
そうすることにより、新しい発見と、新しい意識に、出会うことが出来ます。
自分が見ようとして、見る角度を変えた時、相手のまた違った面が見えてくるのです。
自分の中に、この人はこうなのよという観念が、余りにも多く存在し過ぎ、人を見ることが出来なくなっている自分に気付きます。
思いが先に立ってしまい、見える現実を、意識が変えてしまっているのです。
そんな意識を捨て、角度を変えて、そこに勇気を持ちながら、まずは自分を見てみてはいかがでしょうか。
自分の今日の服装は、自分にとってそれはどうなのか、大いなる妥協と満足が、入り乱れているのではないでしょうか。
髪形一つ取ってみても、一度その角度を変えて、自分の姿を捉えてみたならば、自分の心の中のごまかしが、よく見えてきます。
私達は常に、角度を一定に保ちながら、それを平常心と勘違いしながら、毎日を過ごしているのです。
新しい時代が、もうすぐやってきます。
今までの観念で生きられるような時代ではなく、厳しくもまたそれは未来に行くための準備の一つに過ぎないのかもしれません。
今のような人間達なら、未来はそれを必要としていません。
私達が変わらなければいけない時代が、ついにやってきたのです。
その一つとして、まずは自分を、角度を変えてみることにより、新しい自分と出会い、周りも、角度を変えて見ることにより、新しい人々と出会い、そしてその有効性の中に、未来は築き上げられてくるのです。
是非、未来の為に、自分を変えてみませんか?
酸性雨が降り、地下水は汚染され、環境は悪化の一途を辿っています。
そんな中で、第三次文明が残してくれた、特にこの日本における、環境浄化システム装置が、このオリハルコンなのです。
今回のような原発の事故や、工場等における大気の汚染は、計り知れないものがあります。
ましてや、隣国である中国の発展は、その風の流れからいっても、日本に多大な影響が起こることは、避けて通ることは出来ません。
この地球の中の民族達は、いつも同じ過ちを繰り返し、この地球で生きてきました。
しかしながら、今私達が住むこの第五次文明は、環境破壊することはいとも容易く行いますが、破壊された環境を元に戻すというテクノロジーは、全く持っていないのです。
工場排水や雑排水、言い出したらきりがない程の水の汚染、空気の汚染、そして土壌の汚染、それを元に戻す、そういった科学は、存在していないのです。
やっとデルファトラの科学により、水への浄化のテクノロジーは、環境の一部を未来へと繋いでいます。
それもまだ、ほんの1ページをめくったに過ぎない程の出来事です。
これから、もっと進んでいく環境の悪化は、全ての生命体に大きな影響を与えることは間違いないでしょう。
しかもそれが、人間達の科学によって行われていることならば、それを修復することなど、ありうるはずがないのです。
そんな今、こういった危機を迎える中で、もしこれを解決することが出来るとするならば、第三次文明、神々の意識によって作られ、この日本に沈められた、オリハルコンを回すしかないのです。
1つはもう発見され、正しい意識の元で、緩やかではありますが回り始めています。
昨年の暮れ、もう1つのオリハルコンが発見されました。
これは北海道、洞爺湖に沈む、2番目のオリハルコンです。
まだ動いてはいませんが、輝きはどんどん増し、その存在は、ある種の人達には、大きくクローズアップされてきたことは間違いありません。
2月の最後の大安の日に、札幌にて意識を集中し、みんなで願うことで、この洞爺湖のオリハルコンは、少しずつ回り始めることでしょう。
2つのオリハルコンが、緩やかではありながらも、回り始めることにより、その優れた浄化能力により、全ての大気、そして全ての水、そして、全ての土壌は、浄化される方向へと導かれることでしょう。
これは、デルファトラの科学と、第三次文明が築き上げた、要するに、彼らが犯した罪を償うために、全ての科学を集中し作り上げた、大いなる存在なのです。
そして湖に沈むこの2つは、その湖と意識を一つにしながら、そこに聖なる意識と、愛のエネルギーにより、大きく回り始めることは、さほど難しい出来事ではないでしょう。
3つ目のオリハルコンが、もうじき発見されることは、間違いないのですが、これはムー大陸の崩壊で沈んだ、あの沖縄にあることは間違いないのです。
沖縄のある島の地底深く、今オリハルコンは、眠りの中にあり、まだ輝きを見せてはいません。
なぜならば、その島は、聖地でありながら、人間達の上陸により、また意識の悪い人々により、穢(けが)され、汚れきっているのです。
まずはそこの聖地の意識を改善し、聖地に入り込もうとする、意識の悪い人を除外し、そこで浮上させるか、または、その地底を少しずつ移動させ、そのときわずかな地震が起こるかもしれませんが、地殻の中をワープしながら、海へと向かう必要があるのかもしれません。
それも5月には、完了させなければいけません。
その為には、今、沖縄での意識の高い人の集いが必要となってきます。
オリハルコンの場所を明確に突き止め、そこに輝きを与え、邪念や邪気を祓い、清めなければならないのです。
他の二つのように、湖の清らかな水により守られていなかった、最もかわいそうなオリハルコンなのです。
早くその位置を選定し、全ての倭民族が、意識を送り、清めていく必要があると思われます。
この沖縄の悲劇も、過去に起こった出来事は、このオリハルコンを逆に錆び付かせていることでしょう。
本来ある姿に沖縄が戻り、海の神として君臨することが、一つの条件となることは間違いないのですが、中々現実は難しいものがあります。
だからといって、諦める訳にはいきません。
もうわずかな時間しかないのです。
聖なる意識をもって、オリハルコンが輝きを取り戻すように、祈って下さい。