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 元々あったこの自然界は、この地球、大宇宙、人間達の科学や、人間達の力が及ぶところではなく、人間達そのものはその中で自然に生まれてきた、一つの生命体に過ぎないのかもしれません。
 しかし特殊に生きてきた人間達は、一つだけ大きな過ちを、それは大自然を乗り越えようとした事です。自然界の何も分からない人間達が、自然界の法則を無視して、この地球における環境破壊が限界を超え、その結果、神々の逆鱗に触れ、今私達全員が裁かれようとしています。
 結論は、そんなに遠くない時間で出てくると思います。地球で生きる権利を失う事は、間違いない結果と成るでしょう。自分達の科学により自然を破壊してきた自分達に、大きなつけが回ってきて、失ってみて始めて分かるのが、人間という愚かな生命体なのかもしれません。
 地球で生きる権利を失った我々は、その権利をどうしたら取り戻せるのでしょうか。狂った科学はどんどん進み、環境を破壊し続けるのは今も続いています。誰も止める事の出来ないそういった現実が、そこには在るのです。どんなに神々達が、大きな声を出しそれをしてはいけないと叫んでも、人間の耳には届きません。
 そして人間達が犯した罪は、自然破壊と共に、人間以外の生命体にも大きな危機を与えています。我々人間が、人間の力だけでこの地球で生きているわけではありません。全ての命に支えられ、今日ある事を忘れてしまっているのです。
 何万何億という命を食べ、その食べられた命の代表的存在でなければならない人間が、その命の事を考えず、自分の手で自分を駄目にしていくのです。確かに神々達は怒りまくっています。人間に、早く気付けと大きな声で叫んでも、そしてその声が聞こえて気付いた人が沢山居ても、その声を聞こうとしない僅かな人達のその彼らの欲望を満たす為に、この地球はどんどん悪い方向へと姿を変えてしまっているのです。
 神はもう、人間達を救う事は出来ません。人間達は、その神をも冒涜し、封印をかけてしまったのです。届かなくなった神々達の声は、その日が終わる事を望み始めています。早くその日が来る事を、望んでいるのかもしれません。しかしこういう結果をもたらしたその原因は、私達全員にあるのかもしれません。
 今この危機的な時を迎え、この地球での生きる権利を失った私達は、新しい未来を感じる事もなく、今の残された時間の中で、精一杯生きるしかないのですが、これから迎えようとしているしばらくの歳月の中で、私達は何を感じ、どう思うのでしょうか。
 もう何年もないそんな時間の中で、恐怖にそして不安の中で、毎日を過ごす様に成ります。時間があまり長くない程、逆に良いのかもしれません。しかし私達はその苦しみと同時に、しばらくの間、この地球で生きなければなりません。そして人間が、そのボタンに手をかけそのスイッチを押した時から、人類の滅亡が始まります。神々の逆鱗に触れた人々は、自ら自分達を滅亡へと、そのプログラムはもう発せられ、取り返しの付かないところにあるのかもしれません。
 2019年以降、想像してみて下さい。意識の高いレベルでそれからの未来を見た時、悲しい現実が、そこに存在しているそれを見る事があります。今ならまだ、間に合うのかもしれません。逆に言ったならば、間に合わせなければいけないのですが、人間の想念により封印された神々を、どう目覚めさせ、そしてその教えを素直に受け取る事が出来るならば、それは可能な事と言えるでしょう。出来るだけ早くそうしなければなりません。人間達は、何度も神々から警告を受けながら、それを無視し続けて来たのです。その結果、この現実が存在しています。
 まだ間に合う可能性はあるという事を、ここでは言いたいのです。早く気付いて下さい。
 そして、気付いた人から始めて下さい。
 自然との共存の中で、生かされる方法を見つける事が出来るとするならば、それは自然が教えてくれます。人間以外の生命体、特に植物や微生物達は、次なる浄化蘇生能力を、もうすでに見につけています。人間だけがその準備を怠っているのです。
 彼らから学ぶ事です。そこにまだ、未来は存在しています。

 そこには、二人の人が居ました。ある人がその二人の人に、一つの商品を持ち出し、その商品を説明するのです。一人の人は、あっその商品とても素晴らしいので、私はそれを購入しますと伝え手にする事になるのです。もう一人の人は、私は今回はそれはいらないわと言い、その商品を購入するのをやめるのです。そういった事がよくあります。
 これは一つの例に過ぎないのですが、自分が購入した商品は非常に愛着を持ち、自分が納得しているわけですから、日常生活の一環の中で楽しく使いこなしているのですが、このもう一人の買わなかった人が、なぜ買わなかったのかという、自分における買わなかった事への自分を納得させる理論が必要となる事があります。
 この時に例えば、お金が無くて欲しかったのですが買えなかった場合、素直に本当は欲しかったのですが、お金が無かったから今回は我慢したの、買ったあなたが羨ましいわと思ったならば、とても素直で素晴らしい人ですが、それを隠そうとして、単なる虚栄心そのプライドがその人を変えようとする、その時、買わなかった事への正当性を、自分以外の理由付けを、自分の中で作り出します。
 最も卑劣なのが、説明した人の事を嫌いだったから、こんな人に儲けさせたくなかったから、又商品の欠点やあらを探し、こんなうさん臭い商品は使いたくない。私は騙されなくて良かった。こんな風に自分の欠点を隠す為に相手を悪く言ったり、商品を悪く言ったり、こんな事がよくあります。
 買った人は、そういった悪口を言わないのですが、買わなかった人は、自分を正当化する為に必ず自分以外のものに敵を作り、そこに圧力をかける事により自分を正当化させます。そしてこれが複数の時には、自分と同じ考えを持つ賛同者を、そして同じ想いである事の確認作業をする事があります。
 要するに他人を巻き込んで、あなたも買わなかったんでしょと、買わなかった人を複数、自分の仲間に取り入れ、そして悪口談義をするのです。そういった行為の中で実は、自分の魂を傷つけ、自分を駄目にしている事に気が付かず、人のせいにし、自分が絶対正しいという形に置き換えてしまう、その時傷付いた魂は、修復する事が非常に難しいのです。
 又ある時、自分を正当化する為に、いつも自分の周りに取り巻きを置き、自分がどんなに間違っていても、何々さんそうでしょ?と、確認を求め自分の意見に従う人を周りに置くのです。そうする事により自分を安心させるという、そういった卑劣な考え方も又そういった事をしている人も多く居るのです。
 俗に太鼓持ちと言われる、そういった存在になってきます。その人を常に正しいと思わせる様に洗脳し、自分の周りに置くのです。そして自分を正当化し、納得し納得させ、社会秩序から遠ざかっていく自分に気が付く事もなく、大きな落とし穴に落ちていくのです。
 要するに自分が仕掛けた罠に、自分が落ちてしまうという結果をもたらすのです。社会生活の中で、何が正しく何が悪いのか、人それぞれ考え方が違っていて当たり前なのですが、自分の考えが常に正しいとそういった思い込みの中で、それを正当化するには、それに賛同するそういった人の存在が不可欠になってくるのです。
 今この社会において、スピリチュアル的な意識も、自分の周りに賛同者を置き多くの人間を騙すという、よくある行為が行われています。ここに引っ掛かってしまう人も、沢山居るのではないでしょうか。そしてその周りの人達を上手く管理しながら、自分が有利な立場に立ち支配している様にも見えるのですが、最終的にそれは、自分を駄目にしている、二度と立ち直れない様な魂の傷ではなく、魂の損失に当たる行為になってしまうのです。
 それを自分で気が付く事は、中々難しい事なのです。又そういった人達に、その事を教えてくれる人達もいません。だから死ぬまで気付かないのかもしれませんが、これは仕方ない事なのでしょう。
 魂だけは、善悪、事の起こりの真実を、どんな人間でもそういう素晴らしい魂を持っているのです。だからこそ本能や観念や自己思想とは違ったところに魂が存在し、魂だけは、善悪を完璧に見る事が出来る、だからこそこういった行為の中で魂だけが傷付くのです。

 自分の考え方が常に正しいとは限りません。かといって人の考え方にいつも合わせていたら、自分の考えが分からなくなってしまいます。
 社会的には、少数意見は尊重されてもあくまでそれは象徴であり決定ではありません。
 何かこの社会で物事を繕いながら上手く事を進めようとしたならば、そして二人以上の人間がそこにいたならば、必ず起こる現象が意見の食い違いであります。
 そんな時人間関係を壊さないようにする為には、上手く言葉をコントロールして相手を傷つけないように持っていく方法、また自分も傷つけたくない為に自分の意識を明解にせず言葉を濁してしまう事がよくあります。お互いがはっきりものを言えたならば一番良いのですが、中々はっきり言う事が出来ず人間関係を壊さない最善の方法を言葉という分野の中で探し始めます。時にはそれも大変素晴らしい事なのですが、それが行き過ぎてしまった場合、大いなる勘違いがそこから生まれてきます。
 しかしその勘違いが自分にとって非常に有効的な場合、それを信じる事によって自分の環境を良くしようとする思いが生まれてきます。要するに人間は非常に甘く出来ていて自分にとって都合の良い場合はそれを容認し、それが正しいか間違っているかは別として、心地良さの中に自分を置くのが非常に得意とも言えるでしょう。
 こんな人間の大いなる弱点を利用する、極めて悪質な商法も存在します。言葉巧みに人を誘導し高価な商品を買わせたり、またその人の心につけ込んで自分を有利に立たせてしまったり、逆に言葉でその人に不安を与え自分に依存させようとしたりする、そこには必ず悪質的な利害関係が存在し、そういった人達が今、心の未熟な人々を蜘蛛が糸を張り巡らす様に待ち構えているのです。
 俗に言う霊感商法の様に分かりやすいものならともかく、余りにも巧妙に仕組まれたその罠の中には騙された事にすら気付く事もなく、逆にそれが自分が良い事をしている様に思わせ、その心の弱みにつけ込みながらお金というプログラムの方向へと人を導いていく、要するに利益を得ようとする考え方がそこに存在しているのです。
大抵の人はそういった罠にはまってしまいます。特におだてに弱い日本人は、おだてられるとすぐにほいほい乗ってしまいます。
 例えば服装や髪形についても、よく似合っていますねとかとても綺麗ですよとか言われると、それがお世辞だと分かっていても心地良い気分になってしまう現実が存在します。そういったところが入り口となり、悪魔の言葉はその心を上手く利用しながら奥にまで入っていくのです。
 そういった商法の中で現実が存在し、あらゆる分野にそれは利用されています。衣料関係においても、店員さんの目的は商品が売れる事です。その人にとても似合うかどうかという問題はその次の問題となるのです。ファッション関係や美容関係においても化粧法やそういった分野においても、絶対的な目的は商品が売れる事であり、その人の関係を豊かにするという問題は2番目に来てしまうのです。
 だからこそそこで利用されるのが、言葉という事になってしまいます。自分が似合っていると思っても誰かに後押しされると、本当に似合っているんだと思い込む事が出来ます。
 新幹線の中で沢山の人の服装を見てきました。似合っていない人の方がはるかに多い現実がそこに存在します。なのにそれは当たり前の様にその場を過ぎていく時間の関係にありますが、もっと逆にそういった事に対して他人行儀的な無関心さが、またそこに拍車をかけているのではないでしょうか。
 本当に必要な物を、自分にとってそれが確定的になるならばそういった商品の購入はとても現実的でありますが、時に言葉により衝動的に購入してしまう事も多いのではないでしょうか。
 満足させるという言葉の中に、やはりそういった意識が反映し、心の貧しさを言葉や商品で埋めていくといった現実が多い事も事実です。これからの時代は、ましてやこのブログを読んでいる人達はこういった言葉の技に騙されないように、自分というものを確立していく法則がここにあるとするならば、もう一度自分をそして周りを見直してみてはいかがでしょうか。

 社会生活の中で、沢山の人と出会い、又沢山の人と別れを迎えてきます。それも悲しい別れであったり、楽しい別れであったり、未来へ向かう為の必要的な一歩であるのかもしれません。
 ある時、子犬を一匹貰ってきました。母親から引き離されたその子犬は、すごくさびしがり屋で、傍から離れようとしません。本能的に分かるのでしょう。母親は、一晩鳴き続けたと聞いています。
 子犬はいつの間にか成長し、大きくなったのですが、未だに傍を離れようとしません。これを忠犬ハチ公の様に忠誠心だと人は伝えていますが、実はそんな大それた事ではないのです。
 要するに犬は、大変さびしがり屋なのです。誰かが傍に居てくれないと、要するに人間に飼われた事のある犬達は、人間と居る事が自分にとって一番望ましい行為と、遺伝子に記憶を持っているのです。
 だから人間を恋しく思い、そしてその傍から離れようとしないのです。長い時間、離れて帰っていくと、尻尾を大きく振り、クンクン鳴きながら身体をすり寄せて来ます。
 こんな様に犬はあからさまにやって来ますが、これを人間に置き換えた時、例えばマザコンという言葉がありますが、似た様な現象なのかもしれません。
 そして人々も多くの別れと、多くの出会いの中で遺伝子における、強烈な寂しさを上手く補う為に繕いながら生きているのです。
 そんな人間の行為や特性を上手く利用しようとして、そこに詐欺的な存在が生まれてくるのも、仕方ない事なのかもしれません。要するにお互いの心を隠す為に、騙し合いが始まってくるのですが、この騙し合いが自分でも気付かない内に、それが日常生活の中に上手く関与し、要するに自己暗示にかける様に、自分のしている事が常に正しく理解され、自己中心型な人間が生まれ、子犬の淋しかった時の記憶を持った人々を洗脳していくのです。
 しかしその実態が、そうしようとした本人のあの子犬と同じ様な、究極の淋しさを隠す為に行う行為である事に、気付く事はないのです。そういった形になってしまうと、一人で自分を判断する事が出来なくなります。誰かの行為に自分の考え方を委ねたり、お世辞を本気に捉えたり、上手くあやされてる自分がそこにある事に、気付かなくなってしまうのです。
 裸の王様の始まりです。何か上手く操られ、自分が非常に重要な人物であり、あたかも自分が居なければ、何も始まらない程の、そういった感覚に陥るのです。
 要するに自分が気付かない内に、自分の墓穴を掘っている事になります。終わってしまうとそこにはもう誰も居なくて、孤独な自分がただそこに居るだけですが、しばらくの間は取り巻き達は、少しだけそこで何らかの利益を得ようとしています。しかし利益が得られないと、それに気付いたならば、少しずつそういった人達は去っていくのです。
 猿の集団が居て、一匹のボスザルが沢山のメスザルを従えています。凄みがあってとてもかっこよく守ってくれているというそういう安心感が、一つの群れを秩序のあるものにしてくれています。
 しかしながら歳月が経ち体力も衰えてくると、その立場を狙おうとする若い青年ザルが、そのボスに戦いを仕掛けてきます。そして、戦いに敗れたボスは静かに群れを去るのですが、それはさほど大した問題ではないのですが、今までそのボスザルに忠誠心を誓っていたメスザル達が、新しいボスザルに一気に翻り忠誠心を誓ってしまうのです。
 敗れたボスザルの後を追うメスザルは、一匹もいないのです。人間社会においてもこの様な現象は沢山起こってきます。
 要するにボスになりきるからこそ、そういった優越感に立てるのですが、能力を失った時、非常に淋しい思いをするのも、ボスになってしまったからこそ起こる現象なのです。
 独裁的な欲の中でボスになると、必ず訪れる事がこういった現象なのです。今日まで忠誠を誓っていた仲間が、新しいボスが現れた途端に全く忠誠を誓わなくなる、これが自然界では当たり前の現象なのです。
 独裁的な立場に立つと敗れた時の孤独感は、非常に大きな悲しみと共に自分を駄目にしていく事でしょう。
 墓穴の理論の中に、こういった行為を上手くすり抜ける法則も存在しているのです。人をジャッジしない、人を傷つけない、そういった現象の中で上手く仲間を作り、要するに圧力かけずに上手く付き合う事が、これからは大切なのではないでしょうか。
 今一番、世の中で騒がれているのが、絆という言葉です。要するに人間関係を、出来るだけより良いものにしていく事が、安定した絆を維持する為にとても必要な事なのです。自分を有利に立たせようとすると、必ず絆は壊れます。
 今危機的な時を迎え、日本中が絆という言葉で統一されようとしています。
 とても素晴らしい事ではないでしょうか。

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デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
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