忍者ブログ
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 私達が生きていく中で自分の身を守る法則の中によく言われる事が、守護霊がついているとか指導霊が守ってくれるとか、もちろん現実の中では親であったり友達であったり、色んな形で私達は守られながら毎日の生活をしています。身の回りには危険な事が一杯で自分で自分の身を守る事は言うまでもありませんが、自分では守れないそしてそれは突然やってくる、例えば交通事故や天変地異における災害とか、私達の周りには常に危険が伴っているのです。
 そんな中で少しでも自分を有利に立たせてもらったり、危険から避けて通る方向へ導いてくれる、そういった見えない世界の存在がそこにある事は否定出来ないのです。誰かの声がしたり振り向いた途端に目の前を車が通り過ぎて行く、もし振り向かなかったら車に引かれていたのかもしれません。その様に誰もが一度ぐらいは経験する一瞬のその感覚の中で、命すらも危ぶむ程の危険な出来事は起こっているのです。
 何かに守られて、神様がきっと思ってくれている、そんな風に考える人も沢山居ると思います。仏壇に手を合わせたり先祖の霊に願い事をしたり神社でお祈りをしたり、この日本では沢山の自分を守る方法がありますが、そんな中でも究極の守りが精霊降という儀式の中に存在しています。
 この森とか山には沢山の精霊が住んでいます。外国に行ったならば、天使の様な存在かもしれません。しかしこの日本では精霊と呼ばれ、その精霊に守られる事が自分にとって一番都合の良い事になるのです。
 先祖の霊体達も位が高くなり精霊となる事もあります。しかしながら森に住み着く多くの精霊達は、本当は人間が大好きで自分を呼んでくれるのを待っているのです。人間と共に生きたいという、私達がここに居るのよと、いつも呼びかけてきています。しかし人間達はその森の精霊達に気付く事はなく、だからその精霊達の能力や思いと上手く付き合う事も出来ないのです。
 私達が花を見て美しいと思い、心が和み、友達の誕生日に花を贈ったり、パーティーやお祝い事でも花を贈ったりします。もちろんお葬式も、どこかの開店も花を贈ります。なぜそういった花を贈るのか、その花の中には必ず精霊達が住み着き、大いなる役割の中で人の心を和ませているのです。
 花の意識が人間達の為に咲き誇っている訳ではなく、子孫繁栄とか生きる為の原理であり、法則の中、昆虫達に見つけてもらい花粉を付けてもらう、その為に綺麗な色で咲き素敵な香りをかもし出し蜜を作り、目的はそこに集中されています。しかしその花が一旦そこから離れ私達の目の前に現れた時、私達は花の目的以外の大変大きな豊かさの愛を感じる事が出来るのです。
 なぜ心がこれ程までに洗われ和まされるのか、美しい心を取り戻すのに美しい花は大きな役割を持ってそこに存在している様に見えます。欲を言ったならば、私の為にこんなに綺麗に咲いてくれた、そんな感覚にも陥るのです。なぜそこまで人の心に入り込み和みの世界を作り上げてくれているのか、それはそこに住む花の精霊達が、私達人間にその和みの世界を作り送り続けているからなのです。
 花と花の精霊達が私達人間をどれだけ豊かな方向へと導いてくれているのか、そこに住む精霊達の存在を、今私達は認識しなければなりません。人間社会が荒んでいく中言葉を持たない彼ら達は、本当の情の世界で私達を励ましてくれているのかもしれません。
 精霊達の付き合いは日常生活の中で沢山存在している訳ですから、彼らの存在を今こそ分かってあげたらいかがでしょうか。自分にとって素晴らしい植物があった時、その植物と固い絆で結ばれてみたら、それは素晴らしい事ではないでしょうか。
 花の精霊降はとても神聖な儀式であり、それを受ける事が出来たならば未来は不安のない明るいものとなるでしょう。

 根性にも色々ありますが、僻み(ひがみ)根性だけはあまり良いものではありませんね。しかしそれを利用した商売も沢山あります。例えば高級なバックや車など優越感を利用して高い物を売りつける、こういった心理の中にも第三者に対する心の動揺が関係してくるのです。
 要するに妬ませる事により自分が優位に立つ、相手の僻み根性を利用した結果起こる現象なのです。人より良い物を持って町を歩いた時、それがいくら高級な物であっても高校生が持っていたり、沢山の人が持つ様になったら満足感が得られず勿論、優越感も無くその商品対する価値が薄れていくのです。やはり人に僻んでもらい初めて成立する出来事なのです。
 僻み根性というとあまり良い事ではないのですが、人の心の中にはその心があるからこそ、努力が生まれたり向上心が目覚めたりするのです。人に嫌がらせをするのではなく、自分が立場を変え有利な方向へ導けばすむ事なのです。他人の良い所を僻むのではなく自分の努力から自分もその様に成れば済むのですが、この世の中はそう上手くはいかないのです。
 生まれたすぐに差別は発生します。綺麗な服を着せてもらったりお下がりで我慢させられたり、有名な幼稚園に入る子とそうでない子。小学校に入れば成績により差別され、有名中学に入るよう塾に通わされたり家庭教師をつけてもらったり、もう差別は大きな形へと変わっていき、生きる方向すら人それぞれの環境の中で変化してしまうのです。
 劣等感に陥った人は、努力する事を忘れ自由に遊びまわりそれで良いのだと勘違いをします。やがて社会に出て、同じ人間なのにどうしてこんなに違うのか、その現実を思い知らされるのです。まだ気付いた人は良いのですが、気付かない人達は、僻み根性という根性を身に付けるのです。心が大らかであればそこには優しさが生まれ、いたわりの精神の中で穏やかに暮らせます。
 例え豊かでなくても、その精一杯の中でいくらでも満足感は得る事が出来ます。妬みや僻みが決していけない訳ではないのですが、それがもし良い方向へ向いたらとても素晴らしい結果を出す事があります。あの人より早く泳ぎたいとか、あの人より早く走りたいとか、あの人よりお金持ちに成りたいとか、目標となるものを明解にする事により現実が見えてくるのです。
 要するにどんなにマイナス的な事であっても、いつでもプラスに変えれる事が分かれば、根性は身に付けておいた方が良いのではないのでしょうか。自分の欠点を欠点と思わず、そこから生まれる豊かな未来を想像してはいかがでしょうか。

 人間は何の為にこの地球で生きているのでしょうか。意識の中で天国とか地獄とかいう言葉はなんとなく理解出来るのですが、実際そこはどこに在りどういう現象なのでしょうか。
 生きたままそこに行けるならそこで大きな経験が出来るはずなのに、死んでからの事を考えても仕方ないのかもしれませんが、生きている時に何をするかによって地獄に落とされるとか、天国に行けるとか、しかしそれは実際に経験した事のない言わば未知の世界の出来事です。
 輪廻転生は本当に起こるのでしょうか。これだけ沢山の人間が居てそして死んでいったとしたならば、向こうの世界の人口は今、何人に膨れ上がっている事でしょうか。亡くなった方が常にそこにたどり着くとするならば、今の地球の人口の何倍もの人達が居るのではないでしょうか。
 死んでからもう一度死ぬ事がない以上、その死の世界で行き場所を自由に選べるのかどうか分かりませんが、必ず仕分けされ霊体の辿り着く場所は幾つにも分かれていくのかもしれません。基本的に霊体もこの三次元や地球のエネルギーに依存している以上、そう遠くへは行けないと思います。でも余りにもの人数の為必ずそれは分けられ、最高の出来事は極楽浄土、極楽の世界で楽しむ事ではないでしょうか。
 しかし誰もがそこに行ける訳ではありません。その中で一番厳しい判断が下される、それが生き地獄行きです。私達が今ここに生活しているのは、大いなる地獄の世界で、そこに落とされた人々が肉体という命を貰い毎日の生活をしているのです。生まれ変わる事が最も罪の重い判決を受けた人達が、今この地球で暮らしているのです。
 肉体があるが故にご飯も食べなければいけない、着るものも買わなきゃいけない、眠る所も探さなきゃいけない、寂しさから逃れる為に多くの人と交わっていかなければいけない、生活の全てが複数の人々の間で行われ、そこには秩序が存在し、自由が束縛される中で都合よく生きていかなければなりません。そんな中で人間同士の争いや金銭トラブル、そして騙しや裏切り、この様に一番卑劣な世界で一番、厳しい生き方を私達は今させられているのです。なぜこの様な判決を受けるのか、やはりそれは前の段階において、その何らかの原因により判決が出されたのだと思います。
 今一番の望みは亡くなった後天国に言って楽々したいと、そう考える方は沢山居ると思います。しかしその為には今何をすべきなのか、この物を食べなければ生きていけないという重い肉体という足かせをはめられながら、私達は毎日生きていかなければならないのです。肉体という言わば牢屋に閉じ込められた霊体達は、そこで何をするかにより自由への扉が開かれるのだと思います。車ならば古くなったら買い換えれば良いのですが、肉体という車はどんなにオンボロになっても乗り換える事は出来ません。
 これが生き地獄の在り方ですが、地獄だからといって全てが悪い方向に進むわけではありません。私達はこの地獄の中で毎日を楽しく過ごそうとしています。肉体と上手く付き合いながら素晴らしい毎日を過ごす事も、さほど難しい事ではないのです。地獄が辛い事ばかりではなく、その地獄の中でも、楽しい生活が存在している事も事実なのです。しかしその楽しみや喜びの中で、もし他人に危害を加えたり、裏切り行為をしたり、騙しや心の傷を負わせる様な事があったならば、それは又必ず評価され、地獄よりも怖い世界に行かされる事すらあるのです。
 生き地獄は一番重い罪ではなく極楽の次の世界であり、まだまだ厳しい世界が存在しています。その事を考えたならば、やはり今生きているこの中で私達は、出来るだけ正しい方向へと自分を導き最大なる敵、自分と戦わなければいけないのです。

 何気ない毎日の生活の中で平凡な時を過ごし、何事もなかったかの様に新しい一日を迎えています。
 悩み事や辛い事なども眠ってしまうと、ある程度開き直って、何とかなるさと思う事もあります。眠る前に布団の前で、明日の計画を立てます。しかもより具体的に例えば、何時に起きて何時に誰々さんと会って、この商品の説明をして、買ってもらおうと計画を立てます。しかし翌朝、目が覚めると外は雨ふり、とりあえず起きてはみても気持ちが億劫になり、やがて友達に会う事すら面倒になります。
 そんな時、自分で自分に言い訳をします。あの子はお金がないから駄目よとか、家族が反対するかもしれないとか、自分を納得させる、行かなくてもいい理由を作り上げてしまうのです。こうして人々は、自分に嘘をつきながら生活している部分があるのです。なぜこんな事が起こるのか、太陽系には二万もの星の様なものが存在しています。しかしそれは物質化した確認出来るもので、情報の渦と言われる星達も沢山存在しています。
 記憶装置の中でその現実は行われていますが、私達にとっては確認の出来ない出来事なのです。そんな中で私達の住む地球と全く同じ地球が、太陽の真裏に同じ軌道を取りながら周り続けています。しかしその地球は今の科学では確認する事は出来ません。しかし現実に存在しているのです。
 私達が深い眠りについた時、その行為は起こります。記憶の無い世界でもう一つの地球と、そこに住む自分と出会っているのです。お互いの意識を共有し、癒し合いが行われるのです。そして意識を入れ替えながら、新しい目覚めを迎えるのです。要するに寝る前の自分と、朝、目が覚めた自分とは明らかに違っているのです。
 全く同じ生活をする二つの地球は、同じ過ちの中で未来を修復しょうとしています。自分の意識を高める為には、記憶の無い深い眠りの中で行われる行為をコントロールしなければいけません。その為にはまず、自分が二人居る事を認識し、眠る前にもう一人の自分にメッセージを発信するのです。お互いの理解の下でそれが上手く機能した場合に二人は交流し合い、お互いに持つ能力の中で透明化した現実で現れてきます。
 そこに感性を強め意識する事により、新しい現実が見えてくるのです。
 私達も進化の時期を迎えました。もう一人の自分との交流を楽しんで下さい。

カレンダー
02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
オリハルコン
カウンター
ブログ内検索
メールフォーム
バーコード
プロフィール
HN:
デルファンドラ
性別:
非公開
自己紹介:
デルファトラ星の6人の科学者の1人です。
忍者ブログ [PR]