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 毎日生活している中で、運を天に任せる様な現象が良くあります。
 例えば明日田植えをする時、どうか良いお天気になって下さいます様にと、お天道様にお願いする事があります。子供達が遠足やそんな時でもそんな風に祈る事も良くあるし、昔は照る照る坊主を作ったりする事も良くありましたが、今はそういった風習を見る事も少なくなりました。農家では雨乞い祭りをしたり、スキー場では雪乞い祭りをしたりしていますが、本当に運を天に任せる事があまりにも多い事も、現実なのではないでしょうか。
 そして運が良いとか運が悪いとか、そんな事を口にする事も良くありますが、果たしてその運を手にする法則がもし、あったとするならば絶対欲しいとは思いませんか。幸運を運んできてくれるのは、いつも美しい女神とそう考えている人が多いのですが、そうとも限らないのです。汚いみすぼらしい服を着た杖をついたお爺さんが、素晴らしい仙人だなんて事もあるのです。それを汚いみすぼらしいお爺さんと見てしまったならば、その方を仙人と気付かなかったとしたならば、そこに幸運は表れてきません。
 しわくちゃのお婆ちゃんが、乳母車を引っ張りながら道を歩いていました。軍手をはめてほっかむりをしていたのですがそのお婆ちゃんが、ちょっと立ち止まった時に足元を見たら、凄いブランドの靴を履いていました。東京の大井町で見掛けた風景ですが、こんな事も世の中にはやはりあるのでしょう。
 幸運の女神は綺麗な女性という事ではなく、幸運をもたらす人は全て女神として表現されたのでしょう。そして幸運の女神を上手く手に入れる為には、周りを良く見る事です。そして自分の判断を間違えない事です。目の前に落ちているのに、拾おうともしない人が沢山居ます。目の前に居るのにその存在に気付く事はないのです。
 観念や過去の生き様の中で洗脳され、見ようともしない意識がそこに素晴らしい幸運が存在していても、その人にはそれが見えないのです。又逆に、見えていた女神と手を繋ぎながらしばらく歩いて来たのに、その女神が道端の草花に気をとられた時に道を急ぐあまり、その手を離してしまう様な愚かな人も良くいるのです。一緒に立ち止まって道端の草花に目を向けてあげたならば、放す事もなかった手が自分の考えだけを推し進める為に、大切なその手を放してしまうのです。
 しばらく歩いて行くとその女神は後ろからついてきますが、その距離はどんどんどんどん広がっていくのです。気がついた時、後ろを振り返ってももうそこには女神は存在していません。どんなに後悔してももう始まらないのです。一度放してしまった手は二度と、繋がれる事はないのかもしれません。もしその手をもう一度繋ぎたかったならば、女神が立ち止まったその場所に行き、道端の草花に聞いてみれば良いのです。何が間違っていたのか何をどうすれば良いのか、女神はその草花に自分の考え方と自分の行く場所を、必ず伝えているはずなのです。
 そこに大きなヒントがあり、反って女神と良い関係を結べる場合もあるのです。しかしその道端の草花は、容易に女神との約束を話してはくれません。どうしたらそこの所を聞きだす事が、出来るのでしょうか。その為にはもう少し昔に遡り、女神との出会いに自分はその時の感情に戻る必要があります。出会った時の感動とその時の感謝の気持ちがもう一度蘇った時、道端の草はヒントを教えてくれるはずです。要するに誰にもチャンスは必ずあります。一度きりのチャンスとは限らないのですが、無くさなければ分からないそれが、人間の特徴なのかもしれません。
 女神は目の前に存在しています。ただその手を握るだけで良いのです。そして信じる事です。握った手が離れない様どうすれば良いのか、要するに自分の考えが正しいというおごりを捨て、周りを良く見る事です。
 人に優しくそして自分に厳しく、正しさとその豊かさをどう人に分けてあげるのか、自分の為にではなく自分以外の為に自分がどう生きるかで、自分を有利にさせないそんな事が要求されるのではないでしょうか。
 幸運の女神を手にする唯一の方法は、自分のおごりを捨てる、自然界を見る事によりその姿が見えてくるのです。誰にもそのチャンスは存在しています。

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