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人間は一生のうちに、どれだけの人と出会うことが出来るのでしょうか。
ただ一度の通りすがりで、意識もせず、確認も認識もしないうちに、何千人という人達と出会っているのでしょう。
その意味もない出会いの中に、偶然が重なり合うことにより、その出会いが始まることもあるのです。
パン屋さんの前を通りかかったとき、そのお店から出てきた女性が、お財布をしまうときに、一枚のカードを落としました。
そして急ぎ足でそこを立ち去ろうとするとき、たまたまそのカードを拾ってしまい、もちろん落とすところも見てしまったため、知らない顔も出来ず、その人を追いかけながら、カードを落としましたよと声をかけます。
すると、本当に嬉しそうにそのカードを受け取り、深々と頭を下げながら、その人は去っていきました。
偶然の出会いは、そんなときにも大きく関与し、全く忘れていたある日、京都で神社参りをしているときに、その偶然はまた重なり合いながら起こってくるのです。
遠くから、にこにこしながら頭を下げてくる女性がいました。
こちらの記憶の中には全く存在していない、通り過ぎた出来事に過ぎない過去が、その人から見たならば、とても微笑ましかったそのときの出来事だったのかもしれません。
笑いながら近付いてきて、あの時はどうもと声をかけられ、全く何のことだから解らない戸惑いの中で、その挨拶に合わせるように、消えた記憶をごまかすかのように、どうもと声をかけながら通り過ぎていきました。
このような偶然が、度重なりながら、人間達は同じ人と、2度以上すれ違うことが、実際は多くあるのかもしれません。
いや、それどころか、通勤や通学の中では、大変大きな確率の中で、人間達は出会い、また去っていくのです。
そこに意識があるかないか、そしてそれをどう思うかは別として、もしこの2度目の出会いのときに、過去の偶然の現象をすぐに思い出すことが出来たならば、「お茶でもどうですか?」と声をかけることも出来たかもしれないのです。
人間の出会いというものは、神々すら気付かないところで、偶然が偶然を重ねるように、出来上がってくるのです。
山には、木が存在しています。
枝と枝とのすれ違い、また隣同士の幹と根は、お互いを尊重し合い、無理のない形で大きな森を作り上げているのです。
この中には、秩序とか、礼儀とかが存在しています。
もちろん偶然ではなく、その環境の中で、お互いの命が育まれていることはいうまでもありません。
秋になって紅葉がきれいに色付き、落ち葉が空を舞いながら、森の中を泳ぎまわっています。
地面にひらりひらりと落ちた葉が、たまたま昨日落ちた赤い紅葉の葉の上に舞い降りたのです。
それはあくまで、風がなす大きな偶然の中に出会った、とても小さな出来事に過ぎないのですが、このことを人間の出会いに置き換えたならば、枝同士の紹介の中で出会った葉ではなく、風に吹かれ、たまたまそこに落ちていた、そんな出会いの方が、確実に多いことは間違いないのです。
その中でそこにどう意味を持たせ、そしてその出会いをどう受け止めるのか、また逆に、その出会いから何が始まるのか、この未知数の中に、人間としてまた、自然の中で生きる、偶然という素晴らしき瞬間を、大いに味わうことが出来るのです。
人の出会いは常に未知数です。
その偶然をどう理解し、どう育むかは、さほど大きな問題ではありません。
しかしながら、瞬間の出会いの中に、人生を左右するほどの大きな出来事が存在しても、決して不思議なことではないのです。
これからも、たくさんの人と出会うことでしょう。
通りすがりであっても、そこに大いなる意味が待ち受けていることが、よくあるのです。
これから危機的な時代を迎え、人々は、非常に苦しみの中から未来を作り上げていく、そんなときが来るのかもしれないのです。
そのとき、見ず知らずの他人が、そして偶然が、どれほどの美しい出会いを作り上げていくのかは、今知ることは出来ませんが、必ず私達日本人は、そこを大切にして生きていくことは間違いないことでしょう。
こちらの方はうっすらと雪が積もってきました。
コメントありがとうございました。