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私達が生きていく上で、いつも、何らかの形で意識が反映し、人間関係を友好的に保とうとしながら、この決められた社会生活の中で、右往左往しながら生きています。
何のために生きるのか、何のために生まれてきたのか、そんな疑問を、時に感じることがあったとしても、それをとことん追求することはあまりしないものです。
浮世に流され、社会の仕組みの中で、小さな出来事に反応し、そして、小さな夢の中で、満足感と絶望と、未来に対する観念の中で、現実の厳しさを知り、今を生き抜いているのです。
人間という生命体は、肉体と、霊体とに、まず大まかに分けられますが、もちろん魂という考え方もありますが、この肉体を維持する上で、例えば肉体を車と考えたならば、霊体がその運転手です。
霊体が、その意識が、非常にまずい状態になったとき、私達は大きなトラブルに遭遇することになるのです。
病気や怪我も、霊的に見たら、これは霊体の不注意に過ぎないのです。

ときにこの、霊体のことを、私達は、気という言葉で表現します。
この気という言葉を、少し深く考えてみると、昔の気(氣)は、中に米という字がありました。
この象形文字から捉えてみると、やはり農耕民族の我々は、ご飯が食べられることにより、気という存在が表れ、活性化していくと考えたのでしょう。
この気という、この意識の中に、毒が盛られたとき、気の毒にね、と言われるような、そういった面から、また病気になったり、ふさぎ込んだりするものなのです。
また逆に、気を楽しませてあげると、気楽だねという言葉になります。
元々私達は、凄い力を持って、この地球に生まれたのかもしれません。
落ち込んでしまったときに、人から、元気になってねと、声をかけられます。
ということは、元々あった気は、素晴らしかったという意味になってきます。
元気が元の気なら、やはり、私達はこの地球に生まれてきたとき、素晴らしい気を持っていたに違いありません。
その素晴らしい気が、毒針にかかり、その素晴らしさを失うことにより、病気になったり、ノイローゼになったりしていくのでしょう。
この気という問題、これを霊的な考え方の中から、うまく融合させ、気楽に生きることが、どれだけ大切なのか、かわいそうにと、気の毒には、似たような言葉であって、とても違う言葉になっています。
何故ならば、発する側と、受け取る側の、対面的な考え方の中で、言葉か選ばれているからなのです。
合気道という、素晴らしい柔術がありますが、この気の持ち方で、私達はあらゆる方向に、変化することが出来ます。
要するに、肉体という車を運転している、気という、そのエネルギー体により、そしてそのプログラムにより、私達は今生きているということなのでしょう。

天の気、雰囲気、そのように、気というものは、自分の中だけにあるわけではありません。
すべての現象の表し方に、気という存在があり、気という言葉を理解しようとしたならば、非常に大きな範囲でそれを理解しなければいけません。
気とは一体何なんだろうと、そういう疑問の面からものを捉えても、新しい発想が生まれてくるのかもしれません。
この全てのエネルギー体の中に、物質をコントロールするプログラムそのものが、気であり、また大気、要するに、すべてが気に覆われているということになります。
私達は、この宇宙空間から、地球に起こる全ての現象を、気という世界で捉え、肉体の中にある気も、またお互いが発する気のエネルギーも、地球というこの星が持つ気のエネルギーも、全てが同一線上で交差しながら、社会生活が営まれているのです。
気という観念を、新しい方向へ導き、そしてそれを融合させることにより、未来は確実に違った方向へと導かれることでしょう。
それは気というエネルギーとプログラムが、同居しながら発せられる、ある種特殊なものといえるでしょう。
特にこの倭民族は、すべてのものに気があると考えてきました。
今の言葉に代えると、それは波動という形で考えてもいいのかもしれません。
要するに、エネルギーを発していることは間違いないのです。
だからこそ、この気の捉え方で、意識は全て変わっていくのです。
気の毒を清算し、健全な気の存在が、私たちの新しい意識を、コントロールしていくことでしょう。

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